千葉県銚子市に点在する戦争関連の史跡を散策してみる。
銚子市の末広町広場に昭和57年建立の碑がある。
目次
戦災復興記念碑
銚子はその立地条件も影響し、三度の空襲を受けている。
昭和20年3月9日、7月19日、8月3日。被災建物は5142戸、死傷者は1200人
戦災復興記念碑
千葉県知事 沼田武
銚子市は太平洋戦争も終わりに近い昭和20年3月9日、7月19日及び8月3日と三度にわたる空襲に見舞われ、市街地の中心約126ヘクタールが焦土と化した。
その被害は、建物5,142戸、死傷者1,200人を数え、誠に悲惨な状況であった。同年8月15日、終戦となるや、政府は全国120余の戦災都市を対象に「戦災地復興計画基本方針」を定め、平和な文化都市の建設をめざした。
(略)
ここに、銚子市の平和と発展をねがい、市民及び関係機関が協力して完成させた事業の成果を永く後世に伝えるため、この地に記念碑を建立するものである。
昭和57年11月
戦災復興記念碑より更に歩みを進めると、小川があり小さな、そのくせに重厚な橋が見えてくる。
復興橋
昭和31年竣工。
銚子市公正市民館のとなり。 文字通りに復興の象徴。
旧・公正会館 (臨時病院)
銚子空襲時の臨時病院
現在は銚子市公正市民館
銚子空襲時にあたりの木造家屋が焼失するなかで、鉄筋コンクリートの当建物は焼け残り、臨時病院として機能した。
1924年(大正13年)建築。
1924年(大正13年)建築。
醤油醸造業者・廣屋儀兵衛商店(現在のヤマサ醤油)の当主濱口儀兵衛(10代目儀兵衛・醤油王・ヤマサ醤油の祖)の手による建築物。
外壁も当時の物か? 年代を感じさせる。
ちなみに正面には図書館と記載がありますが、現在は後方の別建物が図書館となっている。
飯沼山円福寺
坂東三十三観音霊場の第27番札所。飯沼観音とも。
銚子電鉄観音駅最寄り。
大仏様にある点々とした修復の跡。
これは銚子空襲時の機銃掃射の弾痕跡を修復したもの。
なお、仏像の台座の穴は、銃撃痕ではなく、機銃掃射痕は「膝のところにある数か所」のみとのことです。混同してましたので、次回の銚子訪問時に写真取り直したいと思います。。。。
この台座は関係なかった。。。
銚港神社
飯沼山円福寺(飯沼観音)の隣には鎮座している銚港神社。
御神木のケヤキも銚子空襲時に機銃掃射を浴びているものの、いまではその悲劇を感じさせることもなく深緑を魅せてくれている。
震洋秘匿基地
場所はなんとなく清水町と弥生町のあたり。具体的な明記は避けておきます。私有地にあたるので。
銚子電鉄の本銚子駅が最寄り。
銚子はその土地柄、海軍の秘匿基地が展開されていた。
震洋
モーターボートに炸薬を搭載した特攻艇。
銚子外川 第58震洋隊
銚子飯沼 第139震洋隊
銚子には、この二部隊が展開されていた。
銚子外川に展開されていた第58震洋隊を物語るものはなく飯沼の第139震洋隊に関しても多くはないが… 某水産加工会社敷地内に震洋格納庫が残っている、と。
確かに壕が見えますね。機会があれば見学を相談してみよう・・・
※靖國神社遊就館大ホールには復元された震洋が奉納されている。
震洋は船首内に250キロ炸薬を搭載し敵艦への体当たり攻撃を目的とした特攻艇
各型合せて6200隻が量産され4000隻が配備。震洋隊戦没者は2500余名という
原寸模型は震洋一型
1/10模型は震洋五型
銚子飯沼の震洋格納庫跡近くに。
なにやらレンガ積みの小屋?がありました。
用途不明。関連性も不明。
この周辺には標石もあるらしいが時間的余裕なくて今回は捜索断念。また着ましょう。
陸軍銚子飛行場
市立銚子高校の裏手。地名は千葉県銚子市春日台町。わかりやすい台地の上に、かつて飛行場があった。
位置関係
翔天の碑
陸軍銚子飛行場の跡。
正式表現は「下志津陸軍飛行学校銚子分教場」。
1936年(昭和11年)銚子に下志津陸軍飛行学校分飛行場が建設され、下志津陸軍飛行学校銚子分教場が設置される。
翔天の碑
この地に飛行場ありき
下志津陸軍飛行学校銚子分教場跡地
碑文
かつてこの地に下志津陸軍飛行学校分教場があった。
同分教場はこの春日台を中心とした約四十万平方米の小規模のものだったが太平洋戦争末期には八紘石賜隊が結成されこゝから出陣し還らぬ人となった。
この史実を風化させることなく現在の日本の平和と繁栄が数多くの尊い犠牲のもとに築かれものであることを思い起こし二度とこのような過ちを繰り返さぬよう心から平和への願いが天翔ける祈りとなってこの地から津々浦々に及ぶことを心より念じこの翔天の碑を建立した
平成五年十一月八日 翔天の碑建立委員会
現在は、丸池・平和公園として、整備されている。
以上は、平成28年(2016)5月撮影
銚子市忠霊塔
銚子市青少年文化会館や銚子体育館、銚子野球場などがある一画、前宿公園に、忠霊碑が建立されている。
左から忠魂碑、忠霊塔、嗚呼戦災死者之碑
忠霊碑のみ戦前(大正4年)に建立。その他は戦後の建立。
銚子市が紀元2600年記念事業として、当地に忠魂碑を建立予定であったが、整地のみで終戦。戦後に忠霊塔が建立された。
忠魂碑
この忠魂碑は過去幾多の戦役に散華された英霊の遺徳を顕彰するため大正4年御前鬼山に建立されてあったが、昭和20年占領軍により解体撤去を余儀なくされた。爾来再建の日が待たれていたが終戦33回忌にあたりかつての戦友や関係者の協力を得てこの地に再建し永くその遺徳を後世に伝えんとするものである
昭和52年10月
銚子遺族会
元帥海軍大将伯爵 東郷平八郎書
大正4年帝國在郷軍人會 銚子町分會・本銚子町分會 建之
忠霊塔
昭和30年建立。明治10年の西南の役以降に犠牲になられた多くの戦没者と戦災死者を合祀。
戦没者英霊菩提
石灯籠は平成9年建立
嗚呼戦災死者之碑
第二次世界大戦の末期昭和20年3月9日及び7月20日8月1日の3回に亘り銚子市は敵機の空襲を受けました。其の際我等が同胞337名は悲惨にも萬感の思ひをこめて戦災死致しました。
嗚呼実に痛恨の限りであります。時あたかも本年は戦災死後33回忌に当り鎮魂の願ひをこめてここに慰霊碑を建立し以て諸霊の御冥福を心より祈り上げます。
戦災死者慰霊碑建設委員会
代表見呂津太兵衛書
長塚由松
他有志一同
昭和52年8月15日
題字 銚子市長嶋田隆書
以上は2020年12月撮影
銚子にはほかにも戦跡スポットはありますが、ひとまず〆