平成29年5月
代々木公園はかつての「帝国陸軍代々木練兵場」であった。
その練兵場の隣に鎮座しているのが「代々木八幡宮」
往時を物語るものが境内に残っているというので見聞に訪れてみました。
目次
位置関係
代々木八幡宮
御祭神は応神天皇
創建は建暦2年(1212)と伝承。鶴岡八幡宮を勧請。旧社格は村社。
参道の両脇にある、この一対の石灯籠。
この石灯籠は「訣別の碑」(石灯籠の竿石部分)と呼称されている。
明治42年、陸軍練兵場(代々木公園)が設けられた際に移転を余儀なくされた住民が、この地との別れを惜しんで奉納したものという。
拝殿左側
「大字代々木深町ハ明治四十年十一月十一日陸軍練兵場ニ指定セラレタリ、常ニ一家ノ如クナル温情深キ住民ハ区々ニ移転スルノ際」
拝殿右側
「各々其ノ別ルルヲ惜ミ又字ノ消サラン事ヲ思ヒ、茲ニ燈ヲ納メテ之ヲ紀念トス 明治四十二年一月建設 良曠拝書」
代々木八幡の丘と、代々木公園=代々木練兵場の丘。
八幡さんからすれば「あっちの丘の住民たち」が強制移住をさせられ、そうして地域鎮守の代々木八幡宮に先祖代々の土地との別れを記し奉納したという。
雨濡れる参道で、石灯籠から「庶民の戦前」を垣間見る。
八幡宮祈念の碑
明治34年建立。
なかなかコアな名前が列記されていました。
扁額 千家尊福(東京府知事・出雲大社宮司)
撰文 平田盛胤(神田明神祠官・平田篤胤の子である延胤の養子)
執筆 福羽美静(靖國信仰の元となった京都招魂社建立に関わる)
表忠碑
日露戦争当時、代々幡村と呼称されていた当地からの出征者及び戦死者の名を刻む石碑。幡代小学校に建立されていた。
大東亜戦争後、取り壊しを免れる為に地域住民の尽力で代々木八幡境内に遷座。
代々木公園
代々木公園は「大日本帝国陸軍代々木練兵場」であった。
いまでは往時を偲ぶものも少なくなってきているが、公園の内外に歴史を感じるものが点在している。
ちょっと巡ってみましょう。
江戸時代。界隈には大名や旗本らの下屋敷などが点在しており、明治維新後には民有地となり一面は茶畑・桑畑などが展開されていた。
陸軍省はこの地を買収し住民を移住させ、明治42年(1909)7月に「陸軍代々木練兵場」と「衛戍監獄(陸軍刑務所)」を設置。
陸軍刑務所の話を含む投稿はこちら
オリンピック記念宿舎
代々木公園原宿門から見本園方面に向かいます。
なにやら北側の突き当りに建物が見えてきました。
「陸軍代々木練兵場」の地は、終戦後に「ワシントンハイツ (在日米軍施設)」となる。 昭和39年、東京オリンピック開催に伴い同地が日本国に全面返還されオリンピック選手村に転換。 その選手村の跡に「代々木公園」が開設される。
代々木練兵場跡地に展開された「ワシントンハイツ」は東京オリンピックに際して選手村に転用されるために移転。
そのワシントンハイツの代替移転先が陸軍調布飛行場跡地に展開された「関東村」にあたる。
案内地図中にあった「見本園」はこちら。
東京オリンピック記念樹木見本園。
当時のオリンピック参加国が持ち寄った22カ国24種類の樹木の種子が育ったのが現在の姿である、と。
閲兵式の松
代々木練兵場で観兵式に際して、
明治天皇が傍らに立たれたという黒松。
聖蹟を偲ぶに相応しき見事な枝ぶりを誇る。
明治・大正・昭和と観兵式の折にたびたび
天皇陛下が当地に行幸された聖蹟のひとつ。
「閲兵式の松」の歩道を挟んだ反対側に石碑がある。
昭憲皇太后大喪儀葬場殿阯碑
大正3年(1914)4月11日
昭憲皇太后(明治天皇皇后)崩御
代々木練兵場内に葬場殿が設置。
大正6年に陸軍より東京府に用地が引き渡され翌7年に碑が建立された。
昭憲皇太后の大喪儀は「代々木練兵場」(現在の代々木公園)
明治天皇の大喪儀は「青山練兵場」(現在の明治神宮外苑)
明治天皇葬場殿跡は明治神宮外苑にある。
代々木公園南側イベント広場の喧騒とは裏腹に静けさ極まりない公園内を歩んで西側の端の方に。
日本初飛行の地
日本航空発始之地記念碑
この代々木練兵場の地が「日本の航空史の事始め」で重要なポイントなのです。
「日本航空発始之地記念碑」
(日本初飛行の地)
明治43年(1910)12月19日
代々木練兵場において徳川好敏陸軍大尉が飛行に成功。
次いで日野熊蔵陸軍大尉も飛行に成功。
これが日本航空史上「最初の飛行」である。
(ライト兄弟初飛行の7年後)
実は公式記録の5日前。
明治43年12月19日「初飛行を目的とした記録会」に先立つ、12月14日の滑走試験中の日野熊蔵陸軍大尉が飛行に成功し(滑走から誤って離陸?)、これが非公式な日本史上の初飛行ともされている。
(が、これは飛行ではなく跳躍ともされていたり。)
明治43年12月19日
代々木練兵場において徳川好敏陸軍大尉が初飛行に成功。
徳川好敏氏は御三卿・清水徳川家の出身。
「日本初飛行」の栄誉を手にし「日本航空の父」と讃えられる。
明治43年12月19日。
徳川好敏に次いで飛行に成功した日野熊蔵はその後は上層部と折り合わずに左遷され陸軍を去り、民間で発明家となる。
日本の空を初めて飛んだ二人を顕彰する。
徳川好敏陸軍大尉と日野熊蔵陸軍大尉
昭和39年(1964)建立
「日本航空発始之地記念碑」
(日本初飛行の地)
碑文
紀元二千六百年ヲ記念シテ此處ニ此碑ヲ建ツ蓋シ代々木ノ地タル明治四十三年十二月我國最初ノ飛行機ガ國民歓呼ノ裡ニ歴史的搏翼ヲ試ミタル所ニシテ爾来大正ノ末年ニ至ルマテ内外ノ飛行機殆ト皆ココヲ離着陸場トセリ即チ朝日新聞社ノ東西郵便飛行モ關東大震災後一時此地ヲ發着場トシソノ第一回訪欧飛行モ亦此原頭ヨリ壮擧起セリ是レ此地ヲ航空發始ノ所トナス所以三十年進展ノ跡ヲ顧ミテ感慨盡クルナシ今ヤ皇國多事ノ秋志ヲ航空ニ有スル士ノ来リテ此原頭ニ俯仰シ以テ益々報國ノ赤心ヲ鼓勵スルアラバ獨リ建立者ノ本懐ノミニアラサル也
昭和十五年十二月 朝日新聞社
朝日新聞社が昭和十五年に建立。
「日本航空發始之地」銘は、陸軍大将井上幾太郎書
日本初飛行離陸之地
隣には「日本初飛行離陸之地」碑がございました。
付記
陸軍を左遷された日野熊蔵氏のその後が江戸川橋の片隅に記録されていた。
国産飛行機発祥の地
新宿区指定史跡
明治42年(1909)〜43年にかけて、陸軍大尉日野熊蔵により初の国産飛行機「日野式一号機」が製作された林田商会(後の日本醸造機械株式会社)の跡。
(略)
明治43年3月18日に日野大尉自ら搭乗し日本初の国産飛行機実地飛行試験に成功した。
いまは新宿区教育委員会が建立した看板が残っているのみ。
名残はないに等しい空間である。
看板を前にして、この地で大空に夢を馳せて日本初の飛行機を作り上げていた往時を思い起こしながら、ちょっとだけ偲んでみた…
代々木公園に戻り、こちらは戦後間もない頃のお話
十四烈士の碑
代々木練兵場に米占領軍は進駐。直後にこれを接収将校宿舎ワシントンハイツを建設。
敗戦直後の八月二十五日、「敗戦の責任」を受け止めた右翼結社である大東塾の塾長・影山正治の父親である影山庄平と塾生十三名の若者らが当地で割腹自殺をとげた場所…。
参宮橋駅近くの陸軍標石
代々木公園(かつての陸軍代々木練兵場)の北側に小田急線参宮橋駅があります。こちらは陸軍用地の北側の境界線。
参宮橋駅のすぐ隣に標石が残っており「陸軍省所轄地」と刻まれておりました。
代々木公園内に残る代々木練兵場の名残は
「閲兵式の松」
「昭憲皇太后大喪儀葬場殿阯」
「日本航空発始之地」の3つを残すのみ。
そして戦後の名残は「ワシントンハイツ跡」「十四烈士の碑」なども。周辺の「二・二六事件慰霊碑」や「陸軍標石」と合わせて往時を偲びし散策もありですね。
〆