新京成電鉄は、陸軍の鉄道聯隊の演習線路をベースとしていた。
日本陸軍解散後に、鉄道聯隊演習線は払い下げられ、京成電鉄は子会社としての新京成電鉄を昭和21年10月に設立。昭和22年12月27日に、新津田沼駅-薬園台駅間が開業した。
陸軍鉄道連隊演習線の規定は、軽便鉄道の戦術的運用目標である路線長45kmの急速構築運用を目的としていたために、45kmの距離を確保することが定められていた。そのため路線敷設演習を兼ねて急曲線が多数混在する線形となっており、新京成電鉄を旅客開業するにあたり、可能な限りは直線化を図ったが、いまなお陸軍演習線時代の名残の曲線が多数残っている。
目次
鉄道連隊演習線松戸線
松戸にあった陸軍工兵学校が構築した、工兵学校-八柱演習場間と、鉄道第二連隊が構築した津田沼-八柱演習場間の路線。
昭和7年(1932年)完成。
習志野線と同様に日常的に物資輸送や兵員輸送も行われ、工兵学校への資材搬入もおこなわれた。
千葉の鉄道聯隊
鉄道連隊の蒸気機関車
位置関係
米軍撮影国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:8911-C1-4
昭和19年(1944年)10月16日、日本陸軍撮影の航空写真。
一部拡大加工 。
津田沼駅周辺に展開されていた、鉄道第二連隊の様子がよく分かる。
津田沼の鉄道聯隊跡地散策
新京成電鉄「新津田沼駅」とJR総武線「津田沼駅」界隈から散策をしてみる。
津田沼駅の南に、鉄道聯隊の看板がたっている。
鉄道連隊跡
ここは旧陸軍の鉄道連隊があった場所です。鉄道隊は、戦地で鉄道の敷設・補修・運転・破壊に従事した部隊で、明治28年(1895年)の日清戦争における臨時鉄道隊の編成に始まり、翌年には東京牛込に鉄道大隊が常設されました(翌30年、中野に転営)。日露戦争後の明治39年(1906)、派遣隊により津田沼-習志野間の軽便鉄道が敷設されます。そして翌40年(1907)、鉄道大隊は鉄道連隊に昇格し、千葉と津田沼に転営しました。千葉には連隊本部・第一大隊・第二大隊・津田沼には第三大隊が置かれました。総武線津田沼駅の南側に本部・兵舎・作業場があり、北側には器材の保営・整備を行う材料廠がありました。
鉄道連隊第三大隊は、大正7年(1918)に鉄道第二連隊に昇格しました。千葉の鉄道連隊は鉄道第一連隊となります。両連隊は、明治44年に完成した津田沼-千葉間の演習線で訓練を行いました。千葉県営鉄道の建設にも大きく関わっています。
日中戦争から第二次世界大戦にかけての戦時中、津田沼と千葉の両連隊をもとに多くの鉄道連隊が編成され、中国・東南アジアの戦地に派遣されて作戦に従事しました。中でも、多大な犠牲者を出した泰面鉄道の建設が知られています。
戦後、連隊跡地は教育施設・鉄道車両工場などを経て、習志野文化ホール・千葉工業大学・習志野郵便局・商業施設へと変わり、総武線津田沼駅・新京成線津田沼駅を擁する本市の表玄関となっています。
平成30年3月 習志野市教育委員会
場所
陸軍鉄道第二聯隊兵営表門跡
(千葉工業大学通用門)
登録有形文化財
第12-0007号
この門は明治40年(1907年)当地に移駐した陸軍鉄道連隊第三大隊(大正7年に鉄道第二連隊に改組)兵舎の表門として使用されたものです。
第二次大戦後、ここが千葉工業大学の校地になった後も、「工大の煉瓦門」として親しまれています。
平成10年5月、国土の歴史的景観に寄与するものとして、国の登録有形文化財に指定されました。
千葉工業大学
場所
K2形機関車134号機
千葉工業大学から線路を挟んだ反対側にある公園。
習志野市「津田沼一丁目公園」
ここに鉄道連隊ゆかりの機関車が保存されている。
「K2形機関車134号機」
K2形機関車134号
この蒸気機関車は、かつてここ津田沼に本部を置いていた陸軍第2連隊がしようしていたもので、現在の新京成線敷地内にあった陸軍演習線での機関車として活躍したものです。
この度、西武鉄道㈱ユネスコ村に保存してあったものを譲り受け、鉄道連隊ゆかりの、この津田沼一丁目公園に設置したものです。
平成6年3月
場所
新京成電鉄橋脚
鉄道連隊が津田沼から総武本線をオーバークロスさせていた路線跡は、今は新京成電鉄が同じようにオーバークロスしている。鉄橋などはもちろん往時のものではないが、位置関係は同じ。橋脚はどうだろうか。参考までに撮影。
新京成は、新津田沼から京成津田沼までは、文字通りに「S字カーブ」を描いている。この窮屈なカーブも鉄道聯隊時代の名残。
御大典記念道
京成電鉄の京成津田沼駅から、谷津駅に向けて伸びる一本の道路は、御大典記念。
昭和4年2月建立。
昭和天皇の即位(御大典)を記念して京成津田沼駅から線路に沿って谷津に向かう道路を作ったよ、という記念道。
昭和天皇は、昭和3年11月10日に、京都御所において即位式の大礼を挙行。これを記念して、道路を造成。工事費の半分を町が負担。残りを地元有志の寄付金でまかない、約2ヶ月で竣工。
京成津田沼駅。
前原駅~新津田沼駅間の鉄道聯隊跡地散策
新津田沼駅から一駅先の前原駅に移動。前原駅から線路沿いに歩いて、鉄道聯隊の名残を探してみる。
以下、みつけた陸軍境界標石(陸軍境界標杭・陸軍境界石・陸軍境界杭)の記録。
陸軍境界標石1(前原駅)
前原駅の南(新津田沼駅側)、上り番線から見えるところに、陸軍境界標石がある。
陸軍境界標石2(前原1号踏切)
前原駅の南側、最初の踏切。うっすらと「陸軍」の刻印をみることができる。
陸軍境界標石3・4(前原2号~前原3号踏切間)
線路脇の側道から。
前原3号踏切は、成田街道と交差している。
新京成電鉄。撮影するときはだいたい急カーブ。
陸軍境界標石5(前原4号踏切)
前原4号踏切。ブロック塀に埋もれていた。
前原5号踏切に差し掛かる新京成電鉄。やっぱりカーブ。
陸軍境界標石6(前原5号~前原6号踏切間)
線路脇の道路。半分だけ。
陸軍境界標石7(前原5号~前原6号踏切間)
電信柱の裏。やっぱり半分埋もれている。
陸軍境界標石8(前原5号~前原6号踏切間)
駐車場の塀が、境界標石を巧みに避けながら設けられていた。
ここまで来ると、新津田沼駅が近い。すぐ南の前原6号踏切は、御成街道と交差する。
陸軍境界標石9(前原6号~前原7号踏切間)
新京成線と道路を隔てる隙間、ガードレールの裏に隠れていた。
うっすらと「陸軍」の文字が見えるような気がする。
陸軍境界標石10・11・12(前原7号踏切近くの駐車場)
前原7号踏切近くの駐車場に3本残っているのが確認出る。
陸軍境界標石13(前原7号踏切~前原8号踏切間)
ちょっと怪しいが、いちおうカウントに入れておく。
ここまで来ると、津田沼パルコのすぐ裏。この先は新津田沼駅となる。
前原駅から新津田沼駅まで歩いただけでも10個以上の陸軍境界標石を見つけることが出来た。歩いていて楽しい区間。今回は、前原駅から南下したが、逆に北上しても、いくつか見つかるらしい。際限無くなりそうでちょっと怖いが、また時間がある時に歩いてみようと思う。
※撮影:2022年1月
今回は以上で〆。