桶川にあった陸軍桶川飛行学校の跡地散策。
本記事は、「その3」です。
「その1」から順を追って見ていただければ、幸いです。
ここでは、おもに展示内容に関して掲載していきます。
目次
旧熊谷陸軍飛行学校桶川分教場 兵舎棟
旧熊谷陸軍飛行学校桶川分教場 兵舎棟
市指定文化財
旧熊谷陸軍飛行学校桶川分教場建物 兵舎棟
種別:有形文化財(建造物)
平成28年2月29日指定
兵舎棟は、主に生徒が居住していた建物です。当時は、午後9時に将校がそれぞれの寝室の点呼を行い、生徒たちは異常なしの報告をした後に就寝しました。朝は午前5時30分に起床し、乾布摩擦や清掃、食事の後、6時30分には飛行場へ移動して飛行機の操縦訓練を開始していました。寝室は寝る場所であること以外に、銃や刀の手入れをしたり、毎夜、「軍人勅諭」を読み上げる場所でもありました。兵舎棟の前は校庭で、入校式が行われたり、準備運動を行う場所でした。兵舎棟の建物は、守衛棟と同様に、木造平屋建て切妻造の建物です。簡易な木造であることから、寒さ対策として天井裏には藁が敷かれていました。5つの寝室のうち、最も西側に位置する部屋は、昭和18年(1943年)生徒の増員に伴い増築されたものです。寝室のほか、建物に残る墨書から「事務室」や「医務室」があったことがわかっています。
手前側は当時の木材を再利用している。
このあたりは、当時の木材を利用。
復原整備された寄宿舎
この部屋は、桶川分教場当時、生徒たちが寝泊まりしていた様子を再現したものである。床や壁などの部材も、ほぼ当時使われていた部材を使って復原している。
生徒たちは朝、この部屋から日々の訓練へと出発し、夕方、訓練から帰り、就寝した。そして、卒業を迎えるとこの部屋を去り、戦場へと向かっていった。
1部屋には18台の木製のベットが置かれていたが、隣との感覚が狭いことから、頭の位置を互い違いにするように配置されていた。棚には各自の銃や服、帽子、水筒などが整理整頓して置かれていた。
もちろん、布団はイメージ。これは当時のものではありません。
熊谷陸軍飛行学校桶川分教場と昭和の戦争
飛行学校誕生までの歩み
1903(明治36)年、アメリカのライト兄弟が飛行機の初飛行に成功。飛行機が誕生する。
それから11年後の1914(大正3)年に第一次世界大戦が勃発する。大戦当初、飛行機は敵の軍の偵察をその任務としていた。しかし、その後、軍の関連施設や街を直接攻撃するために爆撃機が開発され、兵器としての重要性が増していった。
日本においても第一次世界大戦の終了後の1920(大正9)年に所沢に陸軍航空学校が開校し、操縦者や研究者の育成が始まった。
1931(昭和6)年に満州事変が勃発すると、日中関係の緊張が高まった。こうした情勢を受け、航空兵力の増強が必要と考えた陸軍は、軍比較台の後押しも受けて、各地に飛行学校や分教場を開校していった。1935(昭和10)年には熊谷市に熊谷陸軍飛行学校が開校し、2年後の1937(昭和12)年6月3日には川田谷に桶川分教場が開校した。桶川分教場の開校は新聞でも取り上げられ、各地から入隊希望者が集まった。
陸軍航空学校
日本では1909(明治43)年に臨時軍用気球研究会が設立され、気球と飛行機の研究がなされていたが、第1次世界大戦により欧米列強の飛行機の技術は飛躍的に向上し、日本は技術や軍編成で大きく後れをとることとなる。
この事態を打開するために、1919(大正8)年には所沢陸軍飛行場に陸軍航空学校(1924年所沢陸軍航空学校に改編)が開設され、操縦者や研究者の育成が本格的に始められた。
熊谷陸軍飛行学校
1931(昭和6)年9月の満州事変勃発とその後の緊迫した国際情勢、さらに極東におけるソビエト軍の空軍増強により、陸軍は軍備や人員を拡充する必要に迫られることとなる。
これを受け1935(昭和10)年7月に熊谷飛行学校令の勅令が交付され、8月より着工、同年12月1日に熊谷陸軍飛行学校が開校する。
以後、1945(昭和20)年の閉校まで陸軍における少年飛行兵教育の中心的役割を担う。
熊谷陸軍飛行学校と各地の分教場
1935(昭和10)年熊谷陸軍飛行学校が開校した後、航空兵力の増強のため、各地に分教場が開設されていった。
1937(昭和12)年には桶川の他にも、栃木県に金丸原分教場(番号10)、長野県に上田分教場(番号4)が開設された。その後も群馬県の新田分教場(番号2)、館林分教場(番号3)といった関東地方のみならず、東北地方の仙台や朝鮮半島にも分教場が開設されていった。
第三の空都 桶川分教場
東京日日新聞埼玉版は、桶川分教場の着工から開校まで約4ヶ月の様子を3回にわたり伝えている。
1937(昭和12)年6月3日付けの新聞記事にみられる「第三の空都」とは、桶川分教場が所沢、熊谷に続く3番目の飛行学校施設であったことを伝えている。
飛行機に夢を託した国民
1932(昭和7)年には有志が基金を募り、軍用飛行機を購入し国に寄附する「軍用機献納運動」がおこるなど、飛行機に対する国民の期待が高まっていった。こうした機運の中で、飛行学校の生徒は「若鷲」とも呼ばれ、憧れの的としてマスコミ等で取り上げられるようになった。桶川分教場においても、1943(昭和18)年からは「桶川教育隊」と呼称が変更され、施設の規模も最大となり、訓練生たちが最も多く入校した時期となっている。
桶川分教場での学校生活
桶川分教場の1日
桶川分教場の1日は、午前5時30分の気象のラッパとともにはじまった。
起床した生徒たちは、校庭での乾布摩擦、寝室の内外や校庭の整頓・掃除、洗面、朝食を済ました後、午前6時30分には飛行場へ集合し、飛行機の操縦訓練が始まった。
午前中、操縦訓練をした後、昼食をとり午後1時30分からは飛行機学などの学科が午後4時まで行われた。
なお、訓練と学科は2班に編成された。操縦訓練を午前中に行う半は午後に学科を、午前中に学科を行う班は、午後は操縦訓練を行っていた。
午後5時30分に夕食をとると、午後9時までは自習時間となった。その後点呼がとられ、軍人勅諭の読み上げが終わると、午後9時30分に消灯となる。
こうして、分教場での長い1日は終わりまた翌日の、忙しい朝が始まるのである。
飛行訓練の様子
飛行訓練は、荒川の対岸にあった飛行場で行われた。
生徒たちは、地上での操縦桿の操作方法学習から始まり、助教官が同乗しての操縦訓練、一人での操縦訓練、編隊を組んでの飛行訓練と段階を追って訓練を受けていた。
桶川分教場での飛行訓練には、95式乙Ⅰ型中間練習機と九九式高等練習機が使用されていた。
学習の様子
桶川分教場では飛行兵として必要な知識の学習も教室棟で行われていた。飛行機の高度計や速度計などの計器について学ぶ計測器学、地図や地形について学ぶ地形学、天候や天気図について学ぶ気象学など多岐にわたる授業が、日々行われていた。
こうした熊谷陸軍飛行学校桶川分教場での共同生活を通じて、生徒たちは飛行兵として育てられていった。
橋本久氏の日誌
橋本陸軍曹長は1918(大正7)年、茨城県長田村(現、境町)で農業を営む橋本家の三男として生まれました。21歳の時に満州歩兵国境守備隊へ入隊し、2年後、航空兵へ転属をします。そして8月には桶川分教場へ入校します。
橋本氏は1941(昭和16)年8月から翌年の10月にかけて「熊谷陸軍飛行学校日誌」を書き残しています。日誌には訓練の様子や学習の内容、行事など、桶川分教場で行われていた教育の内容が詳細に記されています。
桶川分教場ゆかりの品々。
教本など
飛行学校から戦地へ
拡大する戦争と飛行学校
1937(昭和12)にはじまった日中戦争は戦線を中国全土に拡大しながら長期化の様相を呈していた。戦争の長期化に伴い、石油をはじめとする資源の確保および中国を支援するイギリス・フランスの支援ルートを遮断するため、1941(昭和16)年7月に日本はフランス領インドシナに進軍する。このことは英・仏のみならずアメリカとの関係も悪化させることになった。アメリカは在米日本資産を凍結し、対日石油輸出の全面的禁止を決定した。同年12月、ハワイの真珠湾およびイギリス領マレー半島にて米英との先端を開くことになり、太平洋戦争が始まる。
中国のみならず東南アジア・太平洋諸島への戦線の拡大と戦争の長期化は物資や兵員の不足を招いた。こうした中、航空兵力の補充が急務となり、1943年(昭和18)年には桶川分教場の増築工事が実施される。しかしながら、本来は金具で補強されるべき部分を木材で補強するなど、当時、鉄が不足していた影響が現れている。
日中戦争
大陸への進出を図っていた日本と中国の対立は深刻となり、1937(昭和12)年7月7日、中国の北京郊外の盧溝橋付近で日中両国軍の衝突事件が発生する。一時は現地で停戦協定が成立するものの、日本は現地へ兵を派遣して兵力を増加し、戦線を拡大した。これに対し中国の国民政府側も徹底抗戦の姿勢をとったことから、戦争は当初の日本側の予想をはるこにこえた日中の全面戦争に発展していった。
軍需工場と空襲被害
戦争が長期化すると戦時体制は一層強まり、民需工場の軍需への転用が行われ、埼玉にも多くの軍施設や軍需工場が作られた。
入間の豊岡には航空士官学校が、朝霞には予科士官学校が開設された。また、大宮には終戦まで世界屈指の業績を誇っていた日本の航空機・エンジンの会社である中島飛行機製作所の工場があった。このような軍需工場は、米軍による戦略爆撃の主な攻撃目標とされた。
太平洋戦争の推移
開戦当初、日本軍は、マレー半島・ビルマ(ミャンマー)、オランダ領東インド(インドネシア)、アメリカ領フィリピンなど東南アジアから南太平洋にかけて、広大な地域を半年の内に制圧して、軍政下に置いた。国内では勝利が呼び起こした興奮の中で、政府・軍部に対する国内の指示が高まっていた。
しかしながら、開戦から半年後の1942(昭和17)年6月のミッドウェー海戦の敗北をきっかけに、戦況は日本側に不利になっていった。
1943(昭和18)年二月にはアメリカ軍との激しい戦いの末、ガダルカナル島から退却した。1944(昭和19)年7月には南洋諸島の中でも重要な軍事基地であったサイパン島が陥落した。こうしたことが機会となり、国内では小磯国昭内閣となったが、戦争はなお続けられた。
1944(昭和19)年10月、アメリカ軍がフィリピンのレイテ島に上陸すると、日本軍は特攻(特別攻撃)隊による敵艦船への体当たり攻撃という作戦まで実行するようになった。
戦時下のくらし
戦線の拡大と戦争の長期化は、やがて物資の不足と軍事費の増大を招き、ひいては、物価の上昇を招いた。
1938(昭和13)には国家総動員法が制定された。その結果、政府は議会の承認なしに戦争に必要な物資や労働力を動員できるようになった。また翌年には国民徴用令の公布により、民間の人々が軍需産業に労働力として動員されるようになった。
1940~1941(昭和15~16)年には、砂糖・マッチ・木炭・米・衣料などが次々に切符制・配給制となるなど。国民の生活はあらゆるところで切りつめられていった。
さらに日中戦争が終結しないまま、豆理科・イギリスとの戦争を開始したことにより、物資・兵力・労働力の不足はより深刻化した。1943(昭和18)年には大学・高等学校・専門学校に在学中の学生を軍に徴集し、また学校に残る学生や女性を軍需工場で働かせた。
熊谷空襲
熊谷空襲はポツダム宣言受諾を決定した1945(昭和20)年8月14日の午後11時30分頃から15日未明にかけての出来事であり、埼玉県下最大の空襲と記録されている。この空襲により、熊谷の市街地は一瞬のうちに火の海と化し、死者は266名、罹災者は15,390名にもおよぶ。
終戦後、熊谷空襲から1ヶ月後の9月13日、軍政上の重要地として、県内で初めて熊谷陸軍飛行学校に米駐留軍12,000にんの進駐が始まる、その後、県内・近県に分散駐留することになった。
熊谷空襲に関しては、こちらの記事も。
熊谷陸軍飛行学校の廃止と特攻(徳月攻撃)隊
1945(昭和20)年2月、不足する戦力を補うべく、教育隊の戦力化を図るため、熊谷陸軍飛行学校の機能が停止され、第52航空師団第6練習飛行隊として改編される。これに伴い、桶川分教場も閉鎖され、以後は特攻(特別攻撃隊)の訓練施設とて使用されることとなる。
特攻(特別攻撃)とは200キロ爆弾や500キロ爆弾などを航空機等に装備し、期待ごと敵艦船に体当りするをする、操縦者の死を前提とした作戦である。特攻(特別攻撃)隊のうり、陸軍が沖縄戦のために編成し、知覧飛行場(現:南九州市)や万世飛行場(現:南さつま市)などの南九州の飛行場から出撃した部隊を「振武隊」と呼んだ。
1945(昭和20)年3月27日に桶川分教場で教官を務めていた伍井氏が第二十三振武隊として、同年4月5日に第七九振武隊が知覧飛行場へ向かい飛び立った。
伍井芳夫 第二十三振武隊長
伍井大尉(殉職後 中佐)は、1912(明治45)年7月、北埼玉郡豊野村(現、加須市)に父源助と母さたの二男として生まれました。小学校は豊野小学校に通い、中学校は加須の旧制不動岡中学に入学しました。若い頃から飛行機に憧れ、中学校卒業後は、航空士官学校を経て、熊谷陸軍飛行学校桶川分教場にて教官を務めていました。その温厚で誠実な性格から、多くの出身者の記憶に残っています。
1945(昭和20)年3月27日、鹿児島県の知覧飛行場へ向うため、他の隊員11名とともに、壬生飛行場を出発します。その途中、桶川上空を通ったときに、2度旋回し、翼を左右に振って、桶川にいた家族に別れを告げました。
当時、桶川には妻と幼い3人の子供が暮らしていました。
1945年(昭和20)年4月1日、満32歳で特攻(特別攻撃)隊第二十三振武隊の隊長として、知覧飛行場より出撃し、慶良間列島付近で敵艦隊に突撃、二度と帰らぬ人となりました。
伍井大尉の遺書(写し)。
第七九振武隊
第七九振武隊は、12名の隊員で編成された特攻(特別攻撃)隊です。隊員たちは1945(昭和20)年4月まで桶川飛行場で特攻の練習を続け、同月5日の正午に鹿児島県の知覧飛行場に向けて出発しました。途中、岐阜県の各務原飛行場、山口県の小月飛行場に1泊し、4月7日には知覧飛行場に到着します。
同隊は9日後の4月16日に知覧飛行場から出撃し、うち2機は期待の故障などで戻りましたが、1機は22日に再出撃して、沖縄の海に消えていきました。
山田孝准尉
山田孝准尉は1918(大正7年)、福岡県西牟田町(現、筑後市)に生まれました。1938(昭和13)年に砲兵から航空兵へ転属し、熊谷飛行学校に入校しました。1940(昭和15)年に同校を卒業後、満州のハイラル基地に配属されます。
さらに1943(昭和18)年からはラバウル島やニューギニア島などの南方戦線に配属されます。1944(昭和19)年、負傷の為、本国へ還送され入院しました。担任伍、佐賀県の目達原基地にて、訓練生の指導にあたります。
終戦後の特攻命令
山田氏は1945(昭和20)年8月15日、目達原基地にて玉音放送を聞きます。しかし、その2日後、基地に出勤したヤマダ市に特攻(特別攻撃)命令が下されます。
展示している遺書は命令を受けた直後、山田氏が家族に宛てて書いたものです。
結果として出撃前に命令は中止されますが、終戦後の現場の混乱を今に伝える貴重な資料といえます。
山田准尉の遺書(写し)
戦争から平和へ
平和への道のり
3年8ヶ月にわたった太平洋戦争は、1945(昭和20)年9月2日、日本と連合国とのあいだで降伏文書の調印がおこなわれ、終結した。
終戦後、にほんにはGHQ(連合国最高司令官総司令部)が進駐した。GHQは新憲法案を日本に提示し、日本の政府はGHQあんをもとに草案をつくり、1946(昭和21)年11gタウ3日、国民主権・平和主義・基本的人権の保障の原理にもとづく日本国憲法が公布された。
また、1948(昭和23)年12月10日、フランスで開かれた第3回の国際連合の総会で「世界人権宣言」が採択される。
一方で、軍施設としての役割を終えた桶川分教場は大陸からの引揚者を対象とした市営住宅として利用されることとなる。
(以下略)
戦後の旧飛行学校桶川分教場
1945(昭和20)年8月15日に終戦を迎えると桶川分教場もその軍事的役割を終える。
終戦後の当地には、1年ほど米軍が進駐したとの記録が残されている。また駐留米軍の指示により、軍事に直結した施設構造物は解体撤去され、火薬類や軍事書類の焼却処分が行われた。その後、桶川分教場は町が仲介する大陸からの引揚者寮(若宮寮)として、また空襲で家を失った人たちへの住宅としての活用がはじまった。
若宮寮では最大で64世帯、約300人ほどが生活していた。
若宮寮も2007(平成19)年3月に最後の住人が転出したことに伴い、約61年の歴史に幕を閉じたのである。
公共機関のアクセスは少々悪いけど、見ごたえのある展示。気がついたら90分ほど滞在してしまいました。過去を振り返っても致し方がないことですが、復原前の姿も見ておきたかった、、、ということはありますが。
次は、その4へ。荒川対岸の滑走路があった場所へ。
※撮影は2022年3月
場所
参考リンク
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その2
その4