水戸市内の戦跡散策。
水戸市内には、「水戸歩兵第二聯隊」が駐留していた。
以前に、水戸歩兵第二聯隊には触れており、今回はその際に散策しきれなかった箇所などを追記。
目次
参考記事
水戸歩兵第二聯隊や茨城県護國神社など。
位置関係
国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-M177-A-7-13
1946年06月26日、米軍撮影の航空写真。
該当部を拡大。
水戸歩兵第二聯隊は茨城大学、水戸工兵隊は茨城大教育学部付属中、練兵場は堀原運動公園、そして水戸陸軍墓地は堀町公園墓地となっている。
水戸歩兵第二聯隊
水戸歩兵第二聯隊の練兵場跡(堀原練兵場)に建立。茨城県営球場の道を挟んで北側の公園内。
歩兵第二聯隊は明治7年に宇都宮に開隊。その後は佐倉から水戸に転営。尼港事件では石川正雅少佐以下水戸歩兵第二聯隊第三大隊が在留邦人を保護し赤軍に対して防戦をするが全滅。
先の大戦では、歩兵第二聯隊(聯隊長中川州男大佐)がペリリュー島守備の主役となり玉砕…
詳細は、「水戸歩兵部隊の跡碑」にて。
水戸陸軍墓地
現在の「水戸市営堀町公園墓地」。
墓地の北西の一角に「戦没者碑」として、個人墓石を100基弱纏めた区画に整理されている。
もともと水戸陸軍墓地に埋葬されていた遺骨などは、遺族会が、昭和25年に墓地跡地に建てた「戦没者留魂の処」に7700余柱を納骨していた。
その後、昭和38年に茨城県護国神社内に「顕勲の塔」建立し遺骨を改葬。
当地には遺骨はなく、墓石のみが、整然と整理されている。
水戸陸軍墓地の門柱
水戸市堀町公園墓地
墓地区画の隅に「戦没者碑」とある。
再整備で整然と並び過ぎの墓石。
当時からの区画ではなく、再整備で追いやられたともいう。
手前は、上等兵などで中列は伍長など。大きな墓石は佐官と尉官。
まわりよりも大きな墓石。
奥の2基は、陸軍少佐、手前の3基は陸軍少尉。
石上中尉記念碑
石上中尉記念碑
工兵第十四大隊長 石井泰一書
大正13年9月11日、爆破操作中に石上指揮官(石上則得工兵中尉)が操作を誤り、部下3人を爆死させてしまったことを自責し、大正14年11月に工兵を除隊し11月27日に自刃。
石上中尉の一周忌に際して、大正15年11月27日に、工兵第十四大隊によって記念碑が建立された。
記念碑を揮毫した石井泰一の最終階級は陸軍少将。大正12年に陸軍工兵大佐・工兵第十四大隊長となる。
水戸陸軍墓地内に、墓石とは違うが石上中尉記念碑もある。
場所
陸軍境界標石(練兵場南西隅)
水戸陸軍墓地に赴く途中、「新原二丁目バス停」から、当時の練兵場の南辺に沿って歩いていたら、突き当りに境界石を見つけました。
陸軍用地
現在も「境界」(水戸市道界)として活用されています。
場所
陸軍境界標石(水戸陸軍墓地)
水戸陸軍墓地の入り口脇の倉庫に立掛けるように、境界票石がありました。界隈で引き抜かれたものが保存されているものと思われます。
陸軍用地
陸軍境界標石(練兵場西辺)
これは違うかもしれません。しかし位置的にも材質的にも、往時の陸軍境界標石であったもおかしくない感じです。
場所
※撮影は2022年9月
戦没者留魂の處
水戸陸軍墓地に戦後、納骨施設が作られた。
昭和25年に建設された「戦没者留魂の處」には、7700余柱の遺骨が納骨されていた。
昭和38年に茨城県護國神社内に、「顕勲の塔」が建設され、遺骨は塔内に移管。「戦没者留魂の處」の碑などは、昭和59年に「顕勲の塔」の脇に移設された。
戦没者留魂の処と碑
戦没者留魂の処は、財団法人茨城県遺族会連合会が戦没者の納骨施設として昭和二十五年十一月水戸市堀町字立原二〇八五番地の旧陸軍墓地跡に建設し七千七百余柱の分骨を納骨していたが昭和三十八年三月に「顕勲の塔」が建立されたため この分骨は顕勲の塔内に移管され留魂の処には碑のみが遺された。
このたび留魂の処跡地を水戸市に返還したことを機会にこの碑および灯篭などをここに移転したものである。
昭和五十九年六月吉日
財団法人茨城県遺族会連合会 会長 狩野明男
顕勲の塔
水戸陸軍墓地にあった7700余柱の遺骨は、現在は、茨城県護国神社境内の「顕勲の塔」に納骨されている。
顕勲の塔
碑文
この塔は日清の役から太平洋戦争までの幾多の戦いにおいて国のため散華された県下の五万八千余柱の英霊を慰めその偉勲を後世に伝えようと県のはからいにより全遺族の祈りをこめて建てられたものであります
なおこの塔には支那事変以来分骨された七千七百余柱の遺骨が納められております 諸霊やすらかにこの地に鎮まり郷土の平和繁栄にながく加護を垂れ賜わりますよう祈念いたします
昭和三十八年五月
合掌
※撮影は2017年8月