名古屋の大曽根駅周辺を散策してみました。
目次
名古屋大空襲
1938年7月1日に三菱名古屋航空機製作所(大江)からエンジン製造部門を分離独立したのが三菱重工業名古屋発動機製作所(大幸)。
名古屋でB-29爆撃機による本格的な空襲がはじまった1944年12月13日に真っ先に爆撃目標となったのが、三菱重工業名古屋発動機製作所(三菱発動機)であった。
当時、三菱発動機大幸工場では日本の航空機用発動機(エンジン)の4割を生産していた大工場であり、米軍にとっては、東の中島飛行機武蔵工場、西の三菱発動機大幸工場は壊滅させねばならない工場であった。
昭和19年12月13日、三菱発動機大幸工場に対する初の本格的な空襲が実施。。翌年4月7日まで、執拗な爆撃が実施され、三菱発動機大幸工場は壊滅した。
また、昭和20年3月12日に名古屋市街地が被災、3月19日に名古屋駅が炎上、5月14日に名古屋城が焼失など、大規模な空襲が名古屋市に対して繰り返し行われた。こうして名古屋市に対しては、63回の空襲が行われ、B29飛来2579機、死者は7858名、負傷者10378名に及ぶという。
ナゴヤドーム
(三菱重工業名古屋発動機製作所跡)
1994年8月8日より三菱重工業大幸工場の跡地で建設を着工。
1997年2月18日に完工し、同年3月12日に、同市中川区露橋にあるナゴヤ球場(旧・中日スタヂアム/中日球場)に代わる中日ドラゴンズの本拠地として開場した。
総合案内所
総合案内所の脇に、掲げられたプレート。
平和への礎になられた人々を忘れません
ナゴヤドームが建つこの地は、かつて三菱重工業名古屋発動機製作所大幸工場があり、第2次世界大戦下の1944年(昭和19)12月13日に米空軍B-29爆撃機70機の空襲を受け、工場で働く人たち、挺身隊の女性たち、学徒動員の生徒ら300余人の尊い命が奪われました。
この大戦では、名古屋軍(現中日ドラゴンズ)石丸進一投手(当時24歳)も特攻隊員として出撃、野球への熱い想いを胸に抱いたまま空の彼方へ消えて行きました。
私たちは今日、平和への礎となられた人々を決して忘れず、野球やコンサートなどを通して感動を味わうことができることに深く感謝し、ここにご冥福をお祈りいたします。
2004年4月2日
株式会社 ナゴヤドーム
ナゴヤドームの地の歴史を伝承するプレート
場所
北側には、三菱電機名古屋製作所大幸ビル
イオンモールもある。
見えてきたのは、三菱電機名古屋製作所
近代的なビルと、三角屋根の工場。
三菱の街
大曽根駅の南側に向かいます。
殉職者慰霊碑(大曽根駅)
JR大曽根駅の南側に、昭和20年4月7日の空襲での大曽根駅における殉職者を祀る。
合掌
殉職者慰霊碑
桂秋 吉田 藤 謹書
至誠公ニ奉シ毅然
トシテ職ニ殉ス業
ヲ我國有鐵道ニ操
ル者ノ儀表タリ茲
ニ其ノ義烈ヲ稱ヘ
長ヘニ英 靈ノ呵護
ヲ祈ル
昭和二十年四月七日大曽根驛ニ於ケル殉職者
(故人名略)
昭和二十一年 八月建之 建設委員
遺家族一同
大曽根驛員一同
大曽根駅の南口は、住宅街。商業エリアは北口で。
場所
片山八幡宮に残る弾痕
名古屋鬼門鎮護の片山八幡神社。旧社格は県社。
敷地の東側を囲う石垣には焼夷弾の跡が多数残っている。破損や焼け跡など。
鳥居には、爆弾の破片が当たってできた弾痕がある。
昭和8年の社号標にも弾痕。
場所
撮影:2023年7月及び9月