「日本の飛行機王」
東洋一の中島飛行機を創業した中島知久平。
そんな中島知久平ゆかりの太田に点在する戦跡に足を運んでみました。
本編は、その6です。
以下は、行政的には、「太田」ではなくて「大泉」だけど、大枠的には太田として、、、
目次
東武熊谷線
東武熊谷線は、戦時中の軍の要請により、群馬県太田・小泉地区にある中島飛行機工場の工員輸送と資材搬入の便をはかる目的で建設され、熊谷市と太田市を結ぶ鉄道として昭和17年に着工。
東武小泉線との接続を目指した。
線路区間は、群馬県邑楽郡大川村から熊谷駅までの14.2kmとし、昭和18年12月5日に熊谷―妻沼間10.1kmが第一期工事で開通し旅客営業を開始した。
第二期工事として、昭和18年6月1日、利根川橋梁工事施工ならびに線路一部変更認可申請書を東武鉄道は運輸通信大臣に提出し、全線開通を目指して工事を進めていた。
しかし、橋梁工事の最中であった昭和20年8月15日に終戦を迎え、中島飛行機工場への工員・資材輸送のため計画された 東武熊谷線敷設の目的は無くなってしまった。
ただ、利根川治水上直ちに工事を中止することができず、工事中の橋脚の基礎井筒工と、橋台、橋脚を昭和22年7月に完成させ、そして東武熊谷線の工事は中止された。
昭和49年8月20日、東武鉄道は鉄道敷設権を放棄し、昭和53年8月7日、建設省関東地方建設局に、橋脚、橋台、基礎井筒等の構築物撤去工事を委託申請、受理され、昭和54年3月31日全ての利根川河川敷内構築物の撤去が完了。
群馬県側(大泉町)の堤外に、唯一往時の橋脚が残っている。
東武熊谷線の橋脚
東武鉄道熊谷線 橋脚(ピアー)
昭和14年4月に開通した「仙石河岸線」は、小泉町から仙石河岸に至る貨物専用線でありました。
翌15年、延長された同線は、太平洋戦争の開戦に伴い、軍は太田及び小泉の中島飛行機工場に従事する工員ならびに資材等の輸送の必要性から、熊谷までの延長を要請するに至りました。
昭和17年11月、第一期工事として着手された妻沼~熊谷間は、昭和18年11月に竣工、同年12月より旅客輸送のみの営業が開始されましたが、第二期工事であった利根川の架橋工事は、橋脚(ピアー)を完成した段階で終戦を迎えることとなりました。
戦後、近隣市町村の本線建設促進へのはたらきかえも実らず、残念ながら、昭和51年9月、線路の撤去工事が開始されました。
この橋脚(ピアー)は、当時の施錠をうかがい知ることのできる近代遺産でもあります。
「幻の熊谷線」の先にはいったいどのような未来が広がっていたのでしょうか。「永遠の平和」と「町の発展」を強く祈念致します。
平成28年7月20日 大泉町
太田のつもりで、ここは大泉だったり。
利根川河川敷。
場所
位置関係
改めて太田大泉の中島飛行機の位置関係を。
国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-M606-48
昭和22年(1947年)10月27日、米軍撮影の航空写真。
拡大加工。
太田小泉専用道路
(太田製作所~太田飛行場)
いったん、太田製作所まで話を戻しまして。
飛行機運搬専用道路が活用された道路。
中島飛行機太田製作所(SUBARU群馬製作所 本工場)から太田飛行場(SUBARU 群馬製作所 大泉工場)まで伸びる道路。
現在は、公園通りと呼ばれている。
SUBARU群馬製作所本工場の正門
SUBARU群馬製作所 本工場から一直線に伸びる道が、飛行機運搬道路。
太田市運動公園の先が、太田飛行場(SUBARU 群馬製作所 大泉工場)
中島飛行機太田飛行場
太田飛行場は、昭和16年2月に完成。
長さ1300m幅70mの滑走路と整備工場、格納庫があり、中島飛行機太田製作所と小泉製作所とは、飛行機を運ぶ専用道路で結ばれていた。
戦後、飛行場や太田製作所と小泉製作所は進駐軍に接収され、飛行場が日本側に返還されたのは遅く昭和44年であった。
飛行場の名残は特に残っていない。
中島飛行機小泉製作所
中島飛行機が昭和15年(1940)4月に開設した航空機工場。主に海軍機を製造していた。
完成した飛行機はそのまま専用道路を通じて、太田飛行場に運搬可能であった。
九七式艦上攻撃機、零戦、月光、天山、彩雲、銀河などが量産された。生産数は1941年から1945年8月までに約9,000~10,000機であった。
また、局地戦闘機「天雷」、陸上攻撃機「連山」、ジェット戦闘機「橘花」の試作も小泉製作所で行われた。
終戦から1959年(昭和34年)まで米軍が駐屯し、キャンプ・ドルウ(Camp Drew)と呼ばれた。
1959年(昭和34年)の米軍接収解除後は売却されて跡地には、三洋電機が誘致され、現在はパナソニックの工場となっている。
昔は、三洋電機だった。。。
太田小泉専用道路
(太田飛行場~小泉製作所)
太田飛行場(SUBARU 群馬製作所 大泉工場)の南にあった、中島飛行機小泉製作所。現在のパナソニック㈱ 東京製作所。
こちらも同じように専用道路で結ばれていた。
東武小泉線
小泉線の前身は、1917年(大正6年)3月12日に館林 – 小泉町間で営業開始した中原鉄道(ちゅうげんてつどう)小泉線であった。
中原鉄道は、1922年(大正11年)に上州鉄道と改称され、軽便鉄道から地方鉄道となったが、1937年(昭和12年)に東武鉄道に買収された。その結果、中原鉄道小泉線が東武鉄道小泉線となった。
1941年(昭和16年)6月1日に中島飛行機小泉製作所への輸送を行うため、太田 – 東小泉間が開通し小泉信号所が設置。小泉信号所は翌1942年(昭和17年)4月に東小泉駅と改称し、旅客営業を開始している。
1942年(昭和17年)12月1日には、仙石河岸線に西小泉駅が開設され、中島飛行機小泉製作所の玄関駅となった。
さらに軍の要請によって仙石河岸線の新小泉駅から利根川を渡り、埼玉県側の妻沼駅で熊谷線と接続する計画も立てられ一部着手されたものの、第二次世界大戦の終結により工事は中断。戦後には工事再開も検討されたが実現せず、1974年(昭和49年)に免許が取り下げられた。その後、西小泉駅以南の仙石河岸貨物線は1976年(昭和51年)に廃止され(跡地は遊歩道「いずみ緑道」に転用)、熊谷線も1983年(昭和58年)に非電化のまま廃止されている。
いずみ緑道
かつての東武仙石河岸線
西小泉駅
かつての中島飛行機小泉製作所の玄関口
おしゃれなデザイン。2017年の新駅舎。
大泉町の人口の一割がブラジル人のため、ブラジル国旗の黄色や緑を使用したカラーとなっている。
※撮影:2024年1月
太田と大泉の記事はひとまず、本編で〆。