令和元年五月参拝
大阪城東南の丘「真田山」(宰相山)。大阪冬の陣では真田幸村(真田信繁)が出城を築いた古戦場跡。「三光神社」に隣接。
明治4年(1871)に創設された日本で最初の陸軍墓地。
感謝と哀悼の念を抱きつつ、真摯に真田山陸軍墓地に拝する。
合掌
目次
真田山陸軍墓地
真田山陸軍墓地
本墓地は、一八六九年(明治二年)から一八七〇年にかけて我国陸軍の中枢機関が次々と大阪に創設されたことに伴って、一八七一年(明治四年)に日本で最初に設置された陸軍墓地で、現在の面積は約一五、〇九〇平方メートルあります。
このような陸軍墓地は戦前、全国で八〇箇所以上つくられましたが、それらの中で最も大きな規模を持つ真田山陸軍墓地は終戦当時の景観をよく残していると言われています。
終戦に伴い一九五四(昭和二十年)十二月陸軍省が廃止され、大蔵省の管理する国有財産となりましたが、一九四六(昭和二十一年)に大蔵省との国有財産無償貸付契約により、貸付を受けた大阪市が管理をし今日に至っています。
墓地内には、一八七三(明治六年)の徴兵令施行以前に属する兵士の墓碑にはじまり、西南戦争や日清戦争、日露戦争、第一次世界大戦を経て、先の大戦終結後に設置された墓碑も含め、約五、一〇〇基の個人墓碑、日露戦争・満州事変戦病没将兵合葬墓並びにアジア太平洋戦争の戦病没将兵約八、二〇〇人の遺骨等を納めた納骨堂があります。また、軍役夫や日本軍の捕虜となった清国兵、ドイツ兵の墓碑、及び兵役従事中の平時病死者の墓碑もあることがこの墓地の特徴となっています。
これまで二回にわたり研究者による大掛かりな墓碑や納骨堂をはじめとする当墓地に関する学術調査が行われ、多くの貴重な事実が判明いたしました。
当墓地では、大阪市と締結した確認書に基づき公益財団法人真田山墓地維持会が、毎年十月に埋葬・納骨せる戦没者の慰霊祭を行うほか、特定非営利活動法人旧真田山陸軍墓地とその保存を考える会による当墓地に関する調査・研究、資料の公開や見学者に対する案内等、多くのボランティアの皆様に支えられながら、墓地の除草・清掃を行い環境維持活動や痛んだ墓碑の修復・保存のための事業を行っています。
ここを訪れる方々は、整然と並んだ多くの将兵の墓碑にまず圧倒され、そしてそこに刻まれた文字を読み取るとき、必ずや平和の尊さを実感されるものと存じます。
二〇一六年(平成二十八年)三月
公益財団法人 真田山陸軍墓地維持会
理事長 吉川秀隆
真田山旧陸軍墓地の由来
真田山旧陸軍墓地は大阪市天王寺区玉造本町にあり、明治4年8月わが国最初の鎮台(後の陸軍第4師団)が大阪に置かれて、この地、真田山が陸軍墓地となりました。
ちなみに真田山は大阪城の出丸で真田幸村が陣地を構えて、徳川の大軍を迎え撃った古戦場であります。敷地は5,359坪(17,685平方米)あり、墓地には西南の役以来、日清、日露及び今次第二次世界大戦に至る間における、戦没英霊の御冥福を祈念し、4千8百余柱と清国及び独逸人戦病没者10柱の墓標が建立されており、尚 霊堂(納骨堂)には4万2千余柱の遺骨が奉安されてあります。
戦後陸軍省廃止と共に国家が維持及び祭祀を行う事が出来なくなり、大蔵省よりの大阪府又は大阪市の宗教団体、遺族会等により維持管理を行うべしとの通牒に基づき、財団法人大阪靖国霊場維持会が創立され、以来祭祀については靖国霊場維持会他有志多数の奉仕により行われております。
平成7年12月 建之
社団法人 日本郷友連盟大阪府支部他有志
下田織之助之墓
真田山陸軍墓地で最も古い墓標という。
明治3年(1870)に亡くなった下田織之助(長州奇兵隊隊士・陸軍兵学寮生徒・大坂で病死)
仮納骨堂 (仮忠霊堂)
昭和18年建立。仮納骨堂は忠霊堂を建てるまでの仮として建設されたが、戦時中の物資不足もあり、忠霊堂が建立されることなく今日に至る。
慰霊碑
大坂鎮台 第四師団及び大阪の地より出征された英霊にささげる
みおつくし帰らぬ戦友の多きかな
いくさの庭に出で行きしまま
篠塚 捷夫 作
献木 桜とつつじ
昭和六拾弐年四月吉日建之
歩兵第八聯隊と僚友部隊戦友
有志奉仕者代表 中野幸作
篠塚捷夫は元陸軍大佐(陸士37期・陸大49期・第16方面軍参謀)か?
萬國英霊菩提(破損墓標)
破損した墓標が一角に集められている。
外国人俘虜墓標
日清戦争の清国兵、第一次大戦のドイツ兵も眠る。
独逸俘虜
兵卒 リードリヒ クラフト(左)
軍曹 へルマン ゴル(右)
恐らく、戦後に「俘虜」の文字を埋めたものと思われる。
清国俘虜の方々の墓標。
同じく俘虜の字を埋めたと思われる。
合葬碑
滿洲事變戦病沒将兵合葬碑
(満州事変戦病没将兵合葬碑)
第四師団長 陸軍中将 従三位勲二等功四級 伯爵 寺内壽一 書
(寺内寿一)
昭和九年九月建之
弔魂燈
昭和六年捨貳月奉建之(昭和6年12月)
婦人古友會
明治三十七八年戦役戦病死者合葬碑
階級ごとに4基が並んでいる。
日露戦争の戦病死者合葬碑。
明治三十七八年戦役将校同相当官戦病死者合葬碑
明治39年11月建之
明治三十七八年戦役准士官戦病死者合葬碑
明治39年11月建之
明治三十七八年戦役下士戦病死者合葬碑
明治39年11月建之
明治三十七八年戦役兵卒戦病死者合葬碑
明治39年11月建之
陸軍少将今井兼利墓
真田山陸軍墓地内で最も大きい墓標。
歩兵第七旅団長。明治23年9月、野外演習視察中にコレラを発症し逝去。今井兼利の二男はのちの海軍少将今井兼昌(日露戦争時の鎮遠艦長、水雷艇隊総指揮官) 。
公益財団法人 真田山陸軍墓地維持会
敷地内の建屋に。
生兵の墓標
明治期の陸軍においては、入営して半年間は「生兵」(せいへい・なまへい)と呼称されていた。
境界石・境界石標
北側に2本、東側(三光神社側)に1本の合計3本が残されている。
北側の境界石
「境界査定標」 「陸軍」
東側の境界石
「陸軍省所轄地」
当時のレンガ塀か?
真田山陸軍墓地の写真
空堀地蔵尊(朝おき地蔵尊)
真田山陸軍墓地内に鎮座。
三光神社
真田山陸軍墓地の隣に鎮座。
仁徳天皇から三代後人皇十八代反正天皇時代の創建という。
創建以後神職として奉仕された武内宿弥の末裔武川氏(八十六代)が代々の宮司家。
先代の鳥居柱
「国家安泰平和祈願」
昭和20年6月戦災を蒙り
倒壊その片柱をここに留む
三光神社奉賛会
御社殿
真田幸村公之像
真田の抜け穴
真田神社サイト
なお、真田山陸軍墓地の参拝及び本記事作成に関して、
「大日本者神國也」( 盡忠報國 様 Twitterアカウント)を参考とさせていただきました。ありがとうございました。
〆