令和2年2月撮影
川越の戦争遺跡はちょっと風変わり。
「びん沼川」の川岸に異様な不思議な空間が広がっていた。
河川敷に広がる「陶器の欠片」
戦時中に、この土地で製造された「陶器の手榴弾」の名残という。
目次
位置関係
1947年11月8日、米軍撮影。
びん沼川にそって工場が展開している。
(国土地理院 USA-R524-No1-8)
現在の様子。
google航空写真より。
浅野カーリット埼玉工場の跡地は、川越東高校第2グラウンドなどに姿を変えている。
びん沼川河川敷に残る四式陶製手榴弾の残骸
東武東上線・上福岡駅からレンタサイクル(シェアサイクル)を活用して、治水橋方面に。
最初、場所がわからなくて、川越東高校まで歩みを進めてしまい、あれっ?、河川敷にどこから降りるんだろ、と。
産廃業者と第2グランドの突き当りから、でした。
冬季のびん沼川は水量が少ないが、稲作の季節になると水量が増す。
そのため、訪問は冬季がベスト。
ちなみにストリートビューでは、河原が冠水状態。
河川敷の一角が白い。近づいてみましょう。
これは、、、一面に広がる陶器の欠片。
歴史的な背景を知らないと謎な光景。
第二次世界大戦末期、金属資源が欠乏していた日本では、金属に代用品として、なんと陶器で「手榴弾」の製造がおこなわれていたのだ。
全国各地の陶器・瀬戸物の名産地では、手榴弾として使用されるベースの陶器が作成され、この地にあった「浅野カーリット埼玉工場」に集められた。
そして、「浅野カーリット」で爆薬(カーリット)が詰められて「陶製手榴弾」が製造された。
戦後、手榴弾に使われる予定だった大量の「手榴弾型の陶器」が、工場敷地の隣の河川敷に廃棄され、そのまま現在の姿となっている。
浅野カーリット
創業者は浅野総一郎(1848-1930)。一代で浅野財閥を作り上げた実業家。日本のセメント産業を軌道に乗せ浅野セメントを育成した「日本のセメント王」と称される。
また鶴見を埋め立て鶴見臨海鉄道を設立(浅野駅はその名残)、京浜工業地帯の基礎を築いた「京浜工業地帯の父」「日本の臨海工業地帯開発の父」とも呼称される。
1916年に浅野総一郎がスウェーデンのカーリット社から日本における「カーリット爆薬」の製造販売権を取得。
1934年(昭和9年)に浅野カーリット株式会社が創立。埼玉工場は1939年ごろから操業という。
そして近隣には、1937年(昭和12年)に現在のふじみ野市(上福岡)には「東京第一陸軍造兵廠川越製造所」があった。この地域は「浅野カーリット埼玉工場」と「陸軍造兵廠川越製造所」と軍需エリアでもあったのだ。
写真は「ふじみ野市立上福岡歴史民俗資料館」所蔵の陶製手榴弾。
上福岡には東京第一陸軍造兵廠川越製造所(火工廠)があり、浅野カーリットと密接な関係にあったと推測できる。
国土地理院航空写真
ファイル:USA-M636-A-No1-64
1947年11月08日-米軍撮影・一部加工
「東京第一陸軍造兵廠川越製造所」の北東には「浅野カーリット埼玉工場」があった。浅野カーリット埼玉工場では「陶器型手榴弾」を製造していた。
浅野カーリットは戦後に「日本カーリット株式会社」に。
埼玉工場の跡地は、川越東高校に。公立高校のような名称だけれども、実は私立高校。1984年開校。
「信」の文字がある陶器は「信楽焼」。
全国各地の名産陶器がこの地に集まっている。
陶器型手榴弾は、本来の鉄器で作られる手榴弾と比べ、威力は弱かったという。
陶器の点在する河川敷への侵入は自己責任で。
びん沼川のすぐ隣は、荒川。
交通の便は悪い。
かつては、割れていない陶製手榴弾も多くあったようだが、形の良いものから持ちさらわれており、現在は割れた破片が残るばかり。根気よく掘っていけばまだ完全な形をしたものも残っているかもしれないが。
75年の時を、この河川敷で風雨にさらされながら、歴史を刻んでいる陶器の欠片に、往時を思い起こしつつ感傷に浸るとき。
〆