赤羽と十条の界隈。
当時の北区は軍事施設の集中地帯であった。
今回は十条の北西側に位置する「北区西が丘エリア」の戦跡散策。
「陸軍兵器補給廠跡」と「稲付射場跡」がこのエリアにはあった。
目次
位置関係
国土地理院航空写真:USA-M470-10
1947年09月16日-米軍撮影
加工
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現在の様子。オレンジ色が今回の散策ポイント。
十条駅
十条駅から散策をスタート。
上条駅から南に赴けば、「東京第一陸軍造兵廠」「東京第二陸軍造兵廠」関連の戦跡が多数ではあるが、今回は南ではなく北西に。
赤羽火薬庫道
真っ直ぐな道は「陸軍火薬製造所」(のちの陸軍兵器廠東京第二陸軍造兵廠)と「赤羽火薬庫」を結んでいた道。
陸軍境界石(東京第二陸軍造兵廠)
「帝京大学板橋キャンパス」の通りに「陸軍境界石」が横たわっていた。
南は「東京家政大学」、かつては「東京第二陸軍造兵廠」があった。
戦跡密度豊富な南の記録はまたそのうち。今日は、ここより北上します。
折れて横たわったまま固定された「陸軍境界石」(境界標石)
帝京大学板橋キャンパス
そのまま道なりに歩みを進めていく。
稲荷台の交差点を過ぎ、「稲荷台レジデンス」という建屋の前にも、ありました。
陸軍境界石(陸軍兵器補給廠)
北側には、「陸軍兵器補給廠」がある。
この境界石は道に対して背中を向けて「陸軍」文字が刻まれていた。
陸軍境界石(陸軍境界標石)
出入り口脇の標石。なんとなく落ち着かない。
そのまま姥ヶ橋の交差点をさらに北上。
東京陸軍兵器支廠
(陸軍兵器補給廠)
明治19年に設けられた「東京鎮台武器庫」が前身。
のちに「陸軍省板橋兵器庫」となり、昭和3年に「東京陸軍兵器支廠」と改称。
戦後は米軍の兵器補給廠となり、変換後に西が丘町が成立。
現在は跡地に、味の素フィールド西が丘や味の素ナショナルトレーニングセンター、国立スポーツ科学センター、東洋大学総合スポーツセンター、東京都立赤羽商業高等学校、警視庁第十方面本部、西が丘住宅(公務員宿舎)などが展開されている。
東京陸軍兵器支廠跡
(陸軍兵器補給廠跡)
西が丘住宅(公務員宿舎)の手前にちょっとした空間があった。
陸軍兵器補給廠のレンガ(煉瓦)を再利用した広場。
この場所より北側の西が丘エリアに、当時「陸軍兵器補給廠」があった。北端は、「味の素フィールド西が丘(国立西が丘サッカー場)」にあたる。
陸軍兵器補給廠跡のレンガ広場の東側に「稲付射場」があった。
稲付射場(稲付射撃場)
明治38年に「陸軍火工廠稲付射場」設置。
所属は板橋火薬製造所(陸軍砲兵工廠・東京第二陸軍造兵廠)。
火薬火器の爆破や発射の実験訓練場として活用されていた。
戦後は、梅木小ほかに転換。
稲付射場境界塀
唐突に現れる古めかしいコンクリート壁。
稲付射場の境界塀。ところどころ剥がれかかっていた。
一部が民家の勝手口扉になっていた。
鉄筋が見える。
反対側は個人宅。きれいな真っ白塗装。
こちらからは、この壁が戦前からの境界壁には見えない。
稲付射場境界壁は梅木小学校の方まで伸びている。
梅木小学校が「稲付射場」の中心。
学校の境界壁は、往時の「稲付射場境界壁」そのもの。
小学校なので外からチラ見。
陸軍境界石(稲付射場)
「陸軍用地」の標石。左部分が欠けていた。現在は小学校の境界であれ、当時は「稲付射場」の境界。
陸軍兵器補給廠跡と稲付射場跡の散策は以上。
このエリアは、見どころ多し。
北部は赤羽エリア、南部は板橋エリアと十条エリアと、当時は軍事施設の集中地帯。
参考
北区平和マップ
https://www.city.kita.tokyo.jp/somu/bunka/gakushu/bunka/documents/attachment.pdf