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まんしゅう母子地蔵と浅草寺の戦跡散策

浅草寺境内を戦跡を中心に散策してみました。


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まんしゅう母子地蔵(母子地蔵

母子地蔵建立の由来
第二次世界大戦末期、ソ連参戦で混乱状態となった中国東北部(満州)で逃避行の末、命を落とした日本人は二十万人を超えると云われています。
酷寒の曠野を逃げ惑う母子が生き別れとなったり飢えや疫病に苦しみながら亡くなるなど、その悲劇は数知れません。
犠牲となられた母子の霊を慰め、また、いまだ再会のかなわない親と子の心のよりどころとして、二度と戦 争という過ちを繰り返さない事を祈念しつつ、ここに母子地蔵を建立いたしました。
 一九九七年四月十二日
   願主   千野誠治
   デザイン ちばてつや
   文字   森田拳次
 まんしゅう地蔵建立委員会
 まんしゅう地蔵建立応援団 
 中国残留孤児援護基金

像のデザインは、ちばてつや氏
題字と碑文は、森田拳次氏

満洲の赤い夕陽色の幟旗に囲まれた「まんしゅう母子地蔵」

雨の日の「母子地蔵」

雨が降ると、満洲の赤い夕陽色の幟旗はより濃厚となっていた。

以下は、新宿の「平和祈念展示資料館」戦後75年企画「ちばてつや×森田拳次 漫画家からのメッセージ」企画展より。
(令和2年8月12日~11月15日)

母子地蔵 エスキース(複製)ちばてつや

母子地蔵
日本有数の観光地である東京の浅草寺の一角、仲見世を抜けた先、宝蔵門(仁王門)を正面に見て右手側に、「母子地蔵」と呼ばれる小さな親子像があります。
 その母子3人が寄り添った姿には、引き上げの際に死に別れた母子の霊を慰めるとともに、残留婦人や残留孤児となって生き別れた母子の心の拠り所となるように、との願いが込められています。像の建立にあたっては、「中国残留孤児の国籍取得を支援する会」の元事務局長の千野誠治氏(故人)が発起人・願主、ちば氏が像のデザイン、森田氏が題字・碑文をそれぞれ担当しました。また、森田市の呼びかけで、引き揚げ漫画家14名による色紙販売が行われ、資金調達の一助とされました。
 多くの母子が離れ離れとなる場面を目の当たりにし、自身が残留孤児になってもおかしくはなかった、ちば・森田両氏のひとかたならぬ思いが、この像の建立につながったのです。毎年4月には、両氏を中心とした「日本漫画家事務局 八月十五日の会」による法要が営まれています。
 森田拳次

「まんしゅう地蔵(まんしゅう地ぞう)」はあきる野市の西多摩霊園にある「中国帰国者之墓」の横にも鎮座(1995年)。同じく、ちばてつや氏がデザイン。未訪。

Ameba(アメーバブログ)内に存在する、【母子地蔵】に関連するブログ記事の検索結果です。
浅草の観音様の本堂近くにある、まんしゅう母子地蔵(引き揚げる途中で亡くなった沢山の人たちの慰霊碑)が建立されて、早くも今年は20年。発起人の森田拳次さん、海老…


母子地蔵の裏側に。

戦災者供養 平和地蔵尊

平和地蔵尊由来記
第二次世界大戦はその規模においても、その被害においてもまことに甚大であった。ことに昭和二十年三月十日の大空襲には、この附近一帯は横死者の屍が累として山をなし、その血潮は川となって流れた。その惨状はこの世の姿ではない。これ等の戦争犠牲者の霊を慰めることこそ、世界平和建設の基となるものである。ここに平和地蔵尊を祭り、その悲願を祈るため、昭和二十四年四月ここに安置された次第である。
 昭和24年4月
  龍郷 定雄 建立

龍郷 定雄 翁


旧五重塔跡

現在の五重塔の反対側。浅草神社側に。

旧五重塔跡
 五重塔とは、仏舎利(釈迦の遺骨)を奉安する仏塔の一つで、古くから寺院に建立されてきた。
 この場所は、江戸時代の慶安元年(一六四八)、徳川家光 によって再建された旧国宝の五重塔(木造・高さ三十三メートル)が建立されていた場所で、現在の五重塔とは反対側に位置していた。
 浅草の五重塔は、天慶五年(九四二)平公雅により創建され、その後いく度か炎上するもその都度再建されている。
 江戸時代、家光再建の五重塔は、上野の寛永寺・谷中の天王寺・芝の増上寺の塔とともに「江戸四塔」として親しまれていた。
 また、歌川広重・歌川国芳 などの浮世絵の格好の画題としても全国にしられ、朱塗り・碧瓦(へきがわら)(未申にあたる裏鬼門の方角の第三層には、羊角猿面の鬼瓦が葺かれる)の美しい姿を見せていたが、昭和二十年(一九四五)の戦災で惜しくも焼失した。
 金龍寺 浅草寺


旧仁王門基礎石

旧仁王門基礎石
 慶安二年徳川家光 公により再建落慶した旧仁王門(国宝指定・現宝蔵門と同規模)が、三百年間浅草寺山門として江戸・明治・大正・昭和と時代の変遷を見つめ、文学、絵画、芸能など往時の文化にたびたび登場してまいりましたが、残念ながら昭和二十年(一九四五)三月十日の東京大空襲 により本堂・五重塔(家光公建立・国宝)と共に炎上焼失いたしました。
 その後、現本堂に続き昭和三十九年(一九六四)四月一日仁王門を宝蔵門 と改めて同跡地に再建されました。
 この三つの大石は宝蔵門再建に際して旧仁王門の跡地より昭和三十七年二月六日に掘り出された礎石です。旧仁王門には十八本の大木柱があり、それぞれに基礎石がありましたが、戦火に遭いひび割れ割れ破損し、原型をとどめる大礎石三個を選び保存しました。
 石材は「本小松石」で上端の仕上げ面は約一・二m角、柱受けのホゾ穴があり、最大幅は約一・四m角、高さ約一m。この礎石の下部と周囲は十~十五cm径の玉石と粘土で突き固められていました。
 江戸の人々の息吹を感じると共に、平和を祈る記念碑として受継ぎたいと存じます。
 浅草寺


平和の時計

平和を祈る時計。五重塔を上回る九重塔の平和の時計。
浅草ライオンズクラブ建立。


水吹きイチョウ

銀杏の木が火災の際に水を吹き出すことで消火に役立ったとされ「水吹きイチョウ」「霧吹きイチョウ」の伝承を残し、多くの寺社で銀杏が植えられていた。これは銀杏の葉には多くの水分が踏まれていることによるものという。
浅草寺にも多くのイチョウが植えられており、関東大震災、そして東京大空襲でも、樹肌を焼かれながらも防火に活躍した。


浅草寺の神木「いちょう」

浅草寺の神木・いちょう
 浅草寺本堂東南に位置するこのいちょう は、源頼朝公が浅草寺参拝の折、挿した枝から発芽したと伝えられる。
 昭和五年に当時の文部省より天然記念物 に指定されたが、昭和二十年三月十日の戦災で大半を焼失した。今は天然記念物の指定は取り消されたが、あの戦災をくぐり抜けた神木として、今も多くの人々に慕われている。
 金龍山 浅草寺

今も残る痛ましい焦げ跡。東京大空襲の爪痕。


浅草大平和塔

浅草寺淡島堂の境内に。

建立当時はこの5倍ほどのそびえていたが、いつしか改修されて小さくなった。2016年頃の写真では「大平和塔」であったが、今では「大」とは言い難い規模。(改修時期や理由などは確認し忘れました。)

かつての姿を、参考までに総務省サイト内の写真を以下に。

東京大空襲後の浅草

浅草駅や神谷バー、仲見世、厩橋や吾妻橋などが確認できる。

みたまよ
 とこしえに
  安らかに
われら守らん
 世界の和

 湯川秀樹

建設趣意書
 思い出づる調べも哀し昭和二十年三月九日の夜、B29百五十機の大空襲により浅草一帯は火の海となる。地をなめるようにして這う火焔と秒速三十米をこす烈風にあふられ、親は子を呼び、子は親を求むれど、なすすべもなし。おののき叫び逃げまどい、悪夢の如き夜が去れば……眼にうつるものは一面の焦土にて、 一木一草の生づるもなく、あわれ身を焼かれ路傍に臥す無辜の犠牲者は一万余柱を数う。
 当時その凄惨な状況は一片の新聞だに報道されることなく、敗戦後に生まれた子供達は戦争の惨禍を知るよしもない。いたましく悲しい夜もいつしか歴史の一駒として消えて行くであろう。
 よって我々はここに当時を偲び、不幸散華された御霊の安らけく鎮まりまさんことを祈り、二度とあやまちを繰返すことなく永遠に世界の平和を守らんことを誓い、浅草観音の浄域にこの碑を建立する。
  以て瞑せられよ。
  昭和三十八年八月十五日
   浅草大平和塔維持会


浅草寺淡島堂の境内に。

戦没供養地蔵尊

戰災靈供羪
地蔵大菩薩
浅草寺恭順拜書

昭和二十年三月十日

建 立 旧浅草藝妓屋組合
後 援 淺草三業會
建立日 昭和三十七年三月十日


浅草寺淡島堂の境内に。

天水桶

天水桶
 太平洋戦争が激しくなってきた、昭和十八年(一九四三)十一月十八日、浅草寺僧侶らによって夜儀が執り行われ、この天水桶内にご本尊の観音様をお厨子ごと奉安し、本堂の地中深くに埋めたため、ご本尊さまは戦火を逃れたという。
 戦後の昭和二十二年(一九四七)三月七日、ご本尊さまは再び地中より掘り上げられ、その無事が確認された。
 明和七年(一七七〇)造立。
  金龍山 浅草寺


浅草寺

以上、浅草寺境内の戦跡散策でした。

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