サイトアイコン 近代史跡・戦跡紀行~慰霊巡拝

神戸三宮の戦跡と近代史跡散策

平成29年3月

平成29年3月15日、神戸方面に赴く用事があった。
せっかくなので神戸に点在する戦跡・近代史跡スポットを午前中のスキマ時間で軽く散策。


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三ノ宮駅高架橋の機銃掃射痕

JR三ノ宮駅。
この何気ない東西を結ぶ高架線路橋の景観の中に戦争の爪痕が残っている。
手前の遊歩道からJR線高架橋を覗いてみると・・・

神戸大空襲

神戸は昭和20年終戦までに128回の空襲の受けており、この穴は米軍戦闘機による機銃掃射の跡(山側から海側に貫通)とされている。

JR三ノ宮駅の高架線路橋。
橋の名前は「加納町第一架道橋」。
歩道から覗いてみると無数の穴が開いていた。

色が塗り替えされました。以下は2024年3月撮影。


JR「三宮駅」のほかに、阪急「神戸三宮駅」にも戦争の爪痕が残っている。阪急「神戸三宮駅」 駅ホームの上に広がる巨大な屋根をよくよく見てみると・・・

阪急・神戸三宮駅の弾痕

JR「三ノ宮駅」のほかに、阪急「神戸三宮駅」にも戦争の爪痕が残っている。

阪急「神戸三宮駅」
駅ホームの上に広がる巨大な屋根をよくよく見てみると・・・

駅ホームの上に広がる巨大な屋根。
見上げてみると修復の跡などが。

これも「神戸大空襲の傷跡」
B-29焼夷弾の貫通痕。

思った以上に修復の痕跡が残っていました。
なかには衝撃で曲がったままのものも。

駅に残る戦争の痕跡を感慨深く見上げつつ。
三宮駅から南下します。市役所方面へ。


神戸市役所

どうやら日本で最初に設置された「花時計」が、この「神戸の花時計」とのことで。(1957年4月26日稼働開始)
「へー」なスポット。

神戸市役所24階展望ロビーを目指します。
特に深い意味はないけど高いところからの眺望は好きですので。

神戸市役所24階展望ロビーより

「錨」と「神戸市章」「北前船(KOBE)」が見えました。
日没30分後から23時まで点灯される神戸のシンボル。

「錨山」の錨は明治36年の明治天皇行幸観艦式を記念して錨の形に植栽したことに始まり昭和56年に永久電飾となる。

神戸市役所24階展望ロビーより
摩耶の方向。
鵯越の方向。
ポートアイランドの方向。
長田須磨の方向。

神戸の歴史を鑑みると、今の景色も色々感慨深いものがあります。

市役所から海の方に向けて南下する。


神戸税関

2代目庁舎は1927年竣工。「帝国の大玄関番たる税関として決して恥ずかしからぬ近代式大庁舎」と称された日本最大の税関庁舎とのことだけど、今回は時間がなかったので外観をちらりと眺めて次へ。


神戸海軍操練所跡碑

元治元年(1864)5月、江戸幕府軍艦奉行の勝海舟の建言により幕府が神戸に設置した海軍士官養成機関・海軍工廠。
錨のモニュメントは旧戦艦の錨らしいが「旧戦艦の錨…」以下が読めない

神戸海軍操練所跡碑
碑文は「書」をかたどっており個性的な碑。

神戸海軍操練所跡碑
由来
 万延元年(1860年)1月、幕府は遣米修好使節団を公式に派遣した。その際、勝海舟は、咸臨丸(300トン)の艦長として、万里の波浪とたたかいながら一行の護衛と海洋技術習得の大任を果したのである。これ、日本人による最初の太平洋横断であり、わが航海史上、特筆大書すべき壮挙であった。
 文久3年(1863年)4月、攘夷の世論ようやく急を告げ、徳川家茂は摂海防備のため阪神海岸を巡視した。
当時、海舟は軍艦奉行並の職務にあって、これに随行し、神戸港が天然の良港であり国防の要港であることを力説した。かくてここ小野浜の地に海軍操練所の創設をみたのである。
 この神戸海軍操練所は兵学校、機関学校、海軍工廠を総合した観があり大規模な組織であった。勝海舟はここに天下の人材を集め日本海軍の礎を築き、海外発展の基地をつくろうとした。その高風を仰ぎ、来り学ぶ俊英二百の多きを 数え、坂本龍馬、陸奥宗光、伊東祐享など幾多有為の人材が輩出したのである。
 元治元年(1864年)、海舟は禁門の変に操練生の一部が反幕軍として参加したため、激徒養成の嫌疑を被って解職され、操練所もまた翌慶応元年(1865年)3月、ついに閉鎖されるの止むなきに至ったのである。
 当時は、この「記念の錨」から東へ長くひろがり、南は京橋詰から税関本庁舎を望むあたりの、長方形の入堀約一万坪の一帯が海軍操練所であった。惜しくも現在では阪神高速道路の下に埋めたてられて当時の盛観をしのぶに由もない。今はただ、遠く諏訪山公園からこの地を見守る勝海舟直筆の碑文を仰ぐことのできるのがせめてもの救いである。
 ここに当時を偲び郷土を愛する人びとに、この記念碑を捧げる。
昭和四十三年十月建之

勝海舟による海軍の発祥の地。これが明治海軍への礎となるのだ。

実はこの場所は「NTTドコモ神戸ビル」の前。
「神戸海軍操練所跡碑」の隣には「神戸電信発祥の地」の碑。
明治3年に大阪川口電信局と神戸伝信機局の間(40km)に開通。これが関西地方における電信の発祥であるという。

「操練所跡碑」から「居留地通海岸通」を西に。
居留地通りの建物はまたのちほど触れていきます。
メリケン波止場の「港公園」に一対の碑がある。 (跡地とややこしいです)


神戸海軍操練所記念碑

海軍営之碑

「海軍営之碑」
徳川宗家16代当主徳川家達謹書
碑文は勝海舟謹書(軍艦奉行安房守勝物部義邦撰)

なおこの碑はレプリカで本物は六甲山の諏訪山公園にある。


陸奥宗光顕彰碑

「陸奥宗光顕彰碑」
陸奥宗光(1844~1897)は勝海舟の神戸海軍操練所で坂本龍馬らと共に学び、のちに第4代兵庫県知事となり第二次伊藤博文内閣での外務大臣を務めた人物。(伊藤博文は初代兵庫県知事)

「陸奥宗光顕彰碑」 碑裏面は昭和四八年当時の外務大臣大平正芳による。
「近代日本の揺籃期に内政外交に尽くした功績は不滅である」

国史を愛し郷土史を偲ぶ人びとに捧ぐ
 昔、この周辺を摂津国、神戸村小野浜と呼んだ。東は脇浜、西は弁天浜で、現在の神戸港の玄関口である。
 海の先覚者たちは、この浜が今に世界的な要港となるのを見通して、神戸海軍操練所を開設した。造船所、機関学校、兵学校もある広大なもので、その生徒も200名以上を数えた。ここから明治維新に活躍した大人物が多数輩出している。
 この浜は新しい日本の発祥の地である。
昭和48年5月吉日

海軍操練所の生徒で神戸に忘れられない人
所長・海軍奉行 勝海舟
塾頭・坂本龍馬(のち海援隊長)
伊藤俊助(のち伊藤博文・兵庫県初代知事・初代内閣総理大臣)
陸奥陽之助(のち陸奥宗光・兵庫県四代知事・第二次伊藤内閣外務大臣)

「みなと公園」をあとにして、旧居留地エリアにまいります。 ちなみに時間軸としては三宮駅9時散策開始で、ここまでで約30分経過しておりました。


神戸郵船ビル

大正7年(1918)に旧日本郵船神戸支店として建設された近代ビル。

「神戸郵船ビル」の反対側には近代ビルが林立しています。
これはワクワクします。

手前から「海岸ビル」「商船三井ビルディング」そして3つ先が「 チャータードビル」となります。
実は近くで見てみるとこれらのビルにも戦争の爪痕が残っているのです。


海岸ビル

旧三井物産神戸支店として1918年に竣工。
阪神淡路大震災で全壊し、高層ビル再建時に低層部(4階まで)旧外壁を再構築した。この4階建の旧外壁は国の登録有形文化財に登録されている。
近代化産業遺産。

「海岸ビル」
外壁には神戸大空襲による機銃掃射痕が残る。

海岸ビル。低層階内部が美しい・・・


商船三井ビルディング

旧大阪商船神戸支店として1922年(大正11年)に竣工。
近代化産業遺産。アメリカルネサンス様式。
大正期の大規模オフィスビルとして唯一現存。

「商船三井ビルディング」の 外壁にも神戸大空襲による機銃掃射痕が残る。
今となっては言われなければ気がつかない小さな痕跡。
戦争の爪痕。


神港ビル

1939年(昭和14年)に川崎汽船本社ビルとして竣工。現在もオフィスビルとして利用されている。近代化産業遺産。 アールデコ風の屋上の塔屋が目立つ。


チャータードビル

チャータード銀行(Chartered Bank)神戸支店として1938年に竣工。
近代化産業遺産。

「チャータードビル」 外壁に機銃掃射の痕をみる。


旧居留地エリアの内部へと足を進めます。

神戸市立博物館

この建物はかつての「横浜正金銀行神戸支店」(戦後は東京銀行神戸支店) 1935年(昭和10年)に竣工した新古典主義様式の建物。
国の登録有形文化財指定。

「神戸市立博物館」 旧「横浜正金銀行神戸支店」
入口の脇にちょっとだけ痕跡が残ってました。
機銃掃射の痕。

今回の神戸では「機銃掃射痕」ばかり探す散策をしてしまいまして。 オシャレな神戸の街なかで、観光とは程遠いフィールドワーク…


神戸外国人居留地の下水道(公開施設)

慶応3年(1868)の開港にともない居留地が展開。 居留地の下水道は明治5年(1872)頃に完成したもので、近代下水道としては日本最古のものという。
国登録有形文化財指定。土木学会選奨土木遺産。


旧居留地十五番館
旧アメリカ合衆国領事館

1880年竣工。
旧居留地に唯一現存する居留地時代(1868年~1899年)の建築物。
国重要文化財指定。
1995年の阪神・淡路大震災において全壊するも再建。現在はレストランが営業している。


南京町中華街

居留地エリアから次の目的地(花隈)に向かう途中に南京町中華街があったのでフラフラと寄り道してしまいました。
なんか珍しく観光っぽいことしてますね。


花隈公園(花隈城跡)

永禄10年(1567)織田信長が荒木村重に命じて築城させたと伝承。
荒木村重が信長に反旗を翻したため花隈城は荒木方の有岡城支城となるが天正8年(1580年)に落城。
池田恒興によって兵庫城が築城された為に花隈城は廃城。


「東郷の井碑(東郷井)」( 花隈公園 )

「東郷の井碑」 命名は財部彪、揮毫は小笠原長生。
元々は花隈7-16界隈にあった。
初代戦艦大和(神戸小野浜造船所・1887年起工) 建造監督官として東郷平八郎が就任し花隈に滞在。
大和進水時には初代艦長に就任。

「花隈公園」にならぶ2つの碑
「花隈城跡」 「東郷の井」
荒木村重と池田恒興
東郷平八郎と財部彪と小笠原長生

なかなか強烈です。


花隈公園から北上する。

神戸教会(日本基督教団神戸教会)

1932年に建設されている4代目の会堂で、スクラッチタイル張りの外壁に高い尖塔が聳える。
教会としては1874年(明治7年)4月に設立された日本最古級のプロテスタント教会という。

太平洋戦争末期には会堂が日本軍に接収され、外壁を黒く塗られたという。
なんとなく往時の黒塗りのあとが残っているような気がしないでもなく…

神戸大空襲時(昭和20年6月5日)に爆弾によって破壊された会堂前市道の溝蓋の敷石。
道路拡張時に教会にて保存。

今回の神戸散策では唯一の「戦争遺跡を明記した案内板」と出会えました。


生田神社

三宮の生田神社境内には、神戸大空襲で被災した楠の大木がある。 昭和20年6月5日の神戸大空襲で焼けただれた御神木。

生田神社
延喜式内名神大社。旧社格は官幣中社。 現在の神戸市中央区の一帯が社領であり「神戸」地名の語源となっている。
御祭神は稚日女尊 「稚く瑞々しい日の女神」を意味し、天照大神の幼名とも妹とも和魂であるとも。

神功皇后の三韓外征の帰途、神戸港で船が進まなくなった為神占を行った所、稚日女尊が現れ神託があったと書紀には記載。
この時に神戸生田の地とともに、大阪住吉・神戸長田・西宮広田も同時に祀られ「四社鎮祭」とされている。

花隈駅から阪急神戸三宮駅に戻る。朝9時から散策を開始して所要3時間でした。

で、仕事先に向かうためにポートライナー(神戸新交通ポートアイランド線)に乗り込んだわけです。 神戸遠景が美しい…

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