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渋沢栄一と血洗島(深谷市)【渋沢栄一7】

深谷市の北部「血洗島」。
「日本近代経済の父、日本資本主義の父」渋沢栄一の出身地を散策してみます。
(散策ポイントが広域に点在しているのでレンタサイクルが便利です)


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旧渋沢邸「中の家」

慶応3年(1967年)の若き日の渋沢栄一

若き日の榮一
Eiichi in Paris 1867

渋沢栄一の生家「中の家」は、学校法人青淵塾渋沢国際学園として海外留学生向けの教育機関として昭和60年から平成12年まで使用されていた。
若き日の渋沢栄一像は、昭和58年(1983)10月1日の「青淵塾・渋沢国際会館」開館式で除幕された。

若き日の榮一像は、将軍徳川慶喜の異母弟である徳川昭武(水戸藩第11代)の訪欧使節団(パリ万博)に、会計係兼書紀(御勘定格陸軍附調役)として随行し慶応3年3月朔日(1867年4月5日)に、フランス マルセイユで撮影された写真を元に製造された。

中の家。旧渋沢邸。

渋沢栄一翁と論語の里

近代日本資本主義の父
渋沢栄一(1840~1931)

 深谷市血洗島に生まれ、尾高惇忠に学問を学びました。20代で従兄弟らと倒幕を計画し、中止された後は一橋(徳川)慶喜に仕え、家臣として慶喜公の名代昭武に同行し渡欧しました。
 明治維新後は政府の大蔵省で官営富岡製糸場の設立に関わりました。34歳で大蔵省を辞した後、実業界で活躍。幼少期に学んだ「論語の精神」を基に500社以上の企業の設立に関わりました。

論語の里
 栄一は7歳頃から、尾高惇忠に論語をはじめとする学問を習いました。生涯を通じて論語に親しんだ栄一は、「道徳経済合一説」を唱え、「近代日本資本主義の父」と呼ばれるに至りました。
 栄一が淳忠の家に通った道はいつしか「論語の道」と呼ばれ、栄一に関する史跡が多く残されていることから、それらを総称し「論語の里」と呼んでいます。

青淵まつり
栄一翁の命日(11月11日)を偲び、11月中に渋沢栄一記念館前で開催される。

血洗島獅子舞
市指定無形民俗文化財
諏訪神社の祭礼(秋季大祭)に奉納される。元亀2年(1571)にはじまると伝わり、雄獅子(おじし)・雌獅子(めじし)・法眼(ほうがん)の3頭が一組となって、笛のお囃子のもとで舞う。栄一翁も幼少より雄獅子を舞っており、帰郷の際には参観していた。

我が人生は、実業に在り。 渋沢栄一

天保11年(1840)豪農、渋沢市郎右衛門の子として誕生。
昭和6年(1931)92歳の大生涯を閉じるまで、実に五百にものぼる企業設立に携わり、六百ともいわれる公共・社会事業に関係。
日本実業界の祖。希代の天才実業家と呼ばれる所以である。
男の転換期。慶応3年(1867)15代将軍・徳川慶喜の弟、昭武に随行してヨーロッパに渡る。
28歳の冬であった。栄一にとって、西欧文明社会で見聞したものすべてが驚異であり、かたくなまでに抱いていた攘夷思想を粉みじんに打ち砕かれるほどのカルチャー・ショックを体験。しかし、彼はショックを飛躍のパワーに換えた。持ち前の好奇心とバイタリティで、新生日本に必要な知識や技術を貧欲なまでに吸収。とりわけ、圧倒的な工業力と経済力は欠くべからざるものと確信した。
他の随員たちの戸惑いをよそに、いち早く羽織・袴を脱ぎ、マゲを断った。己が信ずる道を見つけるや、過去の過ちと訣別、機を見るに敏。時代を先取りするのが、この男の身上であった。
2年間の遊学を終え、明治元年(1868)帰国。自身の改革を遂げた男は、今度は社会の改革に向って、一途に歩み始めた。
帰国の同年、日本最初の株式会社である商法会所を設立。明治6年(1873)には、第一国立銀行を創立し、総監役に就任した。
個の力、個の金を結集し、システムとして、さらなる機能を発揮させる合本組織。栄一の夢は、我が国初のこの近代銀行により、大きく開花した。
以後、手形交換所・東京商法会議所などを組織したのをはじめ、各種の事業会社を起こし偉大なる実績を重ねていった。
栄一はまた、成功は社会のおかげ、成功者は必ず社会に還元すべきという信念の持ち主でもあった。
私利私欲を超え、教育・社会・文化事業に賭けた情熱は、生涯変わることなく、その柔和な目で恵まれない者たちを見守り続けた。
失うことのなかった、こころの若さ。そこから生まれた力のすべてを尽して、日本実業界の礎を築いた渋沢栄一。並はずれた才覚と行動力は、今なお、人々を魅了する。
 昭和59年1月
 寄贈 エコー実業株式会社

深谷市指定文化財
旧渋沢邸「中の家」(なかんち)
 旧渋沢邸「中の家」に残る現在の建物は、母屋、副屋、4つの土蔵、門、塀から構成されます。明治時代の埼玉県北部の豪農の屋敷として貴重な歴史遺産です。渋沢栄一翁も天保11年(1840)にこの地で誕生しました。

中の家の敷地内にいくつかの碑があつまっている。

渋沢平九郎追懐碑

人の楽しみを楽しむ者は 人の憂いを憂う
人の食を喰う者は 人の事に死す
  渋沢平九郎昌忠

日月らかにするありて能く寃(えん)を雪(そそ)ぐ 
 九原豈(あに)幽魂を慰めざらんや
遺刀今夜灯(あかり)を挑(かかげ)て見るに 
 なお剰(あま)す当年碧血の痕(あと)
  義父・渋沢栄一

渋沢平九郎追懐碑

渋沢平九郎は、尾高淳忠の弟で、渋沢栄一の養子。幕末の飯能戦争で敗れ自刃。(尾高惇忠の項で詳述。)

【解説】
 この碑は、渋沢栄一翁が、飯能戦争で亡くなった自分の義子平九郎を偲んで作ったものである。
 平九郎は尾高惇忠の末弟で、栄一翁がパリ万博へ旅立つ際に養子となった。兄淳忠は栄一翁の学問の師で、富岡製糸場初代場長となった。
 慶応4年4月、江戸城が開場すると、平九郎は、年少ながら主家の窮状を見過ごすことが出来ず、振武軍に身を投じた。振武軍は、渋沢喜作や尾高惇忠を中心に、旧幕臣で構成されたものであるが、5月23日、飯能で官軍を迎え撃った。わっずか半日の戦闘で壊滅状態となり、平九郎は戦場から故郷を目指して逃走、顔振峠を超えて黒山(現越生町)に至り、官軍と遭遇、進退窮まり、ついに自刃して果てた。
 この追悼碑は、平九郎没後50年を経た大正6年に建てられたもので、平九郎の手跡を石に刻むとともに、栄一翁が平九郎を追悼して作った詩が刻まれている。時を経てもなお、若くして亡くなった義子平九郎を悼む栄一翁の、思いの深さをうかがわせる。

渋沢平九郎追懐碑
楽人之楽者憂人之憂
喰人之食者死人之事
 昌忠

嗚呼此我義子平九郎取義之前日自題寓舎障壁之辞也。 明治戊辰五月官軍入江戸城。 平九郎年尚少不忍坐視主憂便投振武軍廿三日遂殞命草野。 甲午家祭日有人贈其戦没時所佩刀予。 悲喜交至賦詩曰。 
 日月有明能雪寃 九原豈不慰幽魂
 遺刀今夜挑灯見 猶剰当年碧血痕
此憫其孤忠也。 今玆丁巳五十年忌辰重展遺墨不勝追懐之情。乃鈎摹刻石以見其志云。
 大正六年十二月 義父 渋沢栄一識並題額

【渋沢平九郎追懐碑移設の経緯】
 この碑は、渋沢栄一翁の眠る東京都台東区の谷中霊園にある渋沢家
墓所内に建立されていたものです。
 渋沢家墓所の整理縮小にあたり、ご子孫より寄贈の申し出を受け、
平成26年3月に、旧渋沢邸「中の家」へ移設いたしました。

晩香渋沢翁招魂碑

渋沢栄一の父渋沢市郎の招魂碑。
渋沢市郎右衛門は晩香と号した。

【解説】
 この碑は、渋沢栄一翁の父で、晩香と号した渋沢市郎右衛門の招魂碑である。
 明治四年十一月二十二日、享年六十三で亡くなった。年が明けた正月五日に郷里の墓地に葬られた。
 晩香没後の明治五年、故郷血洗島を出て東京に居を構える栄一翁が、時宜に応じて父の祭事を欠かすことのないよう、東京の谷中天王寺境内に建立したものである。撰文は尾高惇忠、書は明治の三筆に上げられる日下部東作(鳴鶴)、題額は同じく三筆の巌谷修(一六)である。

晩香渋沢翁招魂碑
翁諱美雅渋沢氏通称市郎号晩香。武蔵国血洗島村人。世農。考諱敬林君妣高田氏。実同族諱政徳者第三子。嗣敬林君之後配其長女。翁自幼嗜学慨然有特立之志。而思慮周密一事不苟。凡自耕稼生産之道至尋常瑣事必反復審思本於実際。是以施設不差成算。家製藍為品素精。至翁研究益到名伝遠近其業大盛家産致優。至有郷人倣以立産者。村原係半原藩封内。藩侯有土木若不時之費毎令翁供財。翁毫無難色。曰財之用在応緩急耳況藩命乎。又厚於親姻故旧。人或失産破家則諄諄誘誨為捐財賑恤使其復産。故人皆称之不已。明治四年冬十一月二十二日病歿。年六十三。越五日葬其郷先兆之次。贈号曰藍田青於。五男八女。長男栄一君見為大蔵省三等出仕叙正五位。長女適吉岡十郎。少女配外甥須永才三郎委其家産。余夭。男栄一君以在東京建招魂碑於谷中天王寺以為行香之便。嗚呼翁行修於家信及郷里而老死畎畝之間終無著于世。洵為可惜矣。然栄一君擢草莾居顕職望属而名馳。蓋有所以矣哉。惇忠於翁有叔氏之親而蒙師父之恩。謹叙其行状表之。
 租税大属 尾高惇忠 撰文 
 少内史正六位 日下部東作 書 
 少内史正六位 巌谷修 隷額

晩香渋沢翁招魂碑(裏面)
明治五年壬申十一月廿二日
男正五位 渋沢栄一建

【大意】
 翁は、諱は美雅といい、通称は市郎、晩香と号した。武蔵国血洗島に、代々農業を生業とする渋沢家に生まれた。翁の父の諱は敬林、母は高田氏。もとは同族(東の家)の政徳の第三子である。養子として中の家に入り、敬林の後を継ぎ、その長女を妻とした。
 幼少より学問を好み、はっきりとした独立の志を持っていた。そして、思慮深く、ささいたことでも疎かにしなかった。家の仕事や日常の細々とした事まで、慎重に考え、事実に基づいて判断した。このようなわけで、何事も見通しと違うようなことはなかった。
 実家の藍玉づくりでは、もともと品質を大事にしてきたが、翁に至って、ますます研究が深まった。翁の名は広く知れ渡り、藍玉づくりは大変盛んになり、財産も大いに増えた。地元の人で、藍玉づくりを習って生計を立てるものもあらわれた。
 村はもともと半原藩の領地で、藩主の方で土木工事や不意の出費がある時は、いつも翁に費用を出させたが、翁は少しも苦にしなかった。翁が言うことに、「お金というのは緊急の時に使うためにあるのであって、まして藩の命令ならなおさらである。」というのである。また、親戚や古い友人に対しても同じようにした。他人で財産を失って家を傾ける人があれば、よく教えを諭すとともに、自らの財産を投げ打って助けてやり、元通りの生活が出来るようにした。それゆえ、だれもが翁を称賛してやまなかった。
 翁の行状は、家を修め、信用は郷里全体に及んだが、生涯を一農民として過ごしたため、世の中に知られることがなかったのは、まことに残念である。しかし、栄一の君が国家の中枢の仕事に携わり、大いに期待されているのも、翁の感化があったればこそといえるのである。惇忠にとって翁は、叔父であるが、父親以上に親愛の情を注いでくれた。謹んでその一生を文章に表すものである。

【晩香渋沢翁招魂碑移設の経緯】
 この碑は、渋沢栄一翁の眠る東京都台東区の谷中霊園にある渋沢家
墓所内に建立されていたものです。
 渋沢家墓所の整理縮小にあたり、ご子孫より寄贈の申し出を受け、
平成26年3月に、旧渋沢邸「中の家」へ移設いたしました。

先妣渋沢氏招魂碑

渋沢栄一の母、渋沢えいの招魂碑。

【解説】
 この碑は、渋沢栄一翁の母 えい の招魂碑である。
 碑の内容は、よく働き、贅沢をせず、慈愛をもって人々に接するという、えいの人となりを記すもので、栄一翁は生涯にわたり多数の社会福祉事業に携わったが、その資質は母から受け継がれたものであることがよく示している。
 えいは明治七年病により東京で逝去し、夫晩香の墓に寄り添うように葬られ、この碑は明治十六年癸未十一月七日谷中に建てられた。
 碑の撰文には栄一翁自身が行い、題額と書は、明治の三筆に数えられる巌谷修(一六)によるもので、亡き母を敬慕する栄一翁の心情をうかがわせる碑である。

先妣渋沢氏招魂碑
          不肖男正五位 渋沢栄一抆涕撰
先妣諱恵伊子、武蔵国榛沢郡血洗島村渋沢敬林君長女、君無男、養同族宗助君第三男晩香翁為嗣、即先考也、配以妣、妣幼善事父母、既長任中饋及蚕織澣濯之労、孜孜不懈、五十年如一日矣、為人勤倹慈恵凡衣食器皿自取敝麤而供人以豊美、遇親戚故旧煦煦推恩、見疾病窮苦則流涕賑給唯恐不及、平素率家人愛恕有余、至教督生産之道不毫仮貸、子女僮婢克服命、足以見其内助有方焉、晩往来東京之邸、以楽余年矣明治七年一月七日以病卒于東京、享年六十有三、其十日帰葬晩香翁墓側、仏諡曰梅光院盛冬妙室大姉、越十六年癸未十一月七日建招魂碑谷中、因記其行実之概略
       脩史館監事従五位勛五等巌谷修書并題額
                         広群鶴刻

【大意】
えいは、渋沢敬林の長女として生まれたが、敬林に男子がいなかったため、同族の「東の家」渋沢宗助の三男晩香翁を婿に迎え家を継いだ。
幼いころからよく両親の手伝いをしたえいは、長ずるに及んでは食事の支度はもちろん、養蚕や機織の仕事、洗濯までこなし、怠ることなく長い年月にわたってよく働き続けた。贅沢をせず、人には慈愛をもって接した。衣服や食器なども、自らは粗末なものを用いても、人にはより良いものを供した。病に苦しんだり、困っている人を見れば、涙を流して施しを与えた。ふだん家業にあたって人を使うにも愛情と思いやりをもち、余力があれば生活に役立つ方法や技術を教えるなどして、少しも気を緩めることがなかった。
皆がえいによく従ったことは、妻としてのあり方にきちんとしたものがあったということをよく示している。
晩年には東京の栄一翁の邸宅へも往来し、余生を楽しんでいたが、明治七年一月七日病により東京で逝去した。享年は六十三であった。十日には郷里に移され、晩香翁の墓の側に葬られた。仏諡は梅光院盛冬妙室大姉という。
明治十六年癸未十一月七日招魂碑を建てた。そこで、その生涯の概略を記すのである。

【先妣渋沢氏招魂碑移設の経緯】
 この碑は、渋沢栄一翁の眠る東京都台東区の谷中霊園にある渋沢家
墓所内に建立されていたものです。
 渋沢家墓所の整理縮小にあたり、ご子孫より寄贈の申し出を受け、
平成26年3月に、旧渋沢邸「中の家」へ移設いたしました。

場所


青淵公園

「中の家」の後方は、清水川が流れており青淵公園として整備をされている。

青淵由来之跡碑

渋沢栄一の号、「青淵」の由来となった場所。「中の家」のすぐ後ろ。
「青淵」の号は渋沢栄一が18歳の頃に尾高惇忠(藍香)に付けてもらった。

撰書の渋沢治太郎は渋沢栄一の甥。県会議員や八基村長などを勤めていた。渋沢栄一に代わって渋沢栄一生家の「中の家」を継いだ、渋沢てい(渋沢栄一の妹)の次男。

青淵由来之跡
正二位伯爵清浦奎吾書

建碑の記
奉祝 皇太子明仁親王殿下御降誕を記念申上る為め、八基村青年団は村内の史蹟保存の事業を企てらる、血洗島支部亦其の挙に出て、故子爵青淵先生雅号発祥の跡を追慕すると同時に、利用厚生の実を挙ぐる耕地改良の整備に恵まれたる永久の幸福に感謝の誠を捧けんものをと青淵由来の跡と題し建碑の企を決議せらる、而して之れの揮毫を日本青年協会総裁伯爵清浦奎吾閣下に仰がんとせし所、夙夜世道風教の刷新振興を念とせらるゝ伯爵は、特に青淵先生と旧交を懐はれ、高齢と尊貴とを忘れて青年等の請を快諾せられたり、斯くして建碑の業進捗に伴ひ、血洗島青淵会並に大字血洗島は進んで其の企てを援け完成を期せられしは誠に機宜を得たるものと謂ふべきなり、抑も此地は元清水川の一部に属し、東西百五十米余、南北五十米の池沼の跡にして、蘆荻禽影を宿し、処々湧水あり、古来上の淵と呼ばれたるは新編武蔵風土記稿等にも載せられたる所にして、右岸の部落を血洗島字淵の上と云ひ、近世の名士子爵渋沢栄一・同喜作の君等此地に生れたるは世人の悉知する処なるか、其号を青淵といひ、蘆陰と称したるは、蓋し郷土の風物に因み各々撰ばれたる所なりと、故子爵より親しく語られたるを聴けり、昭和六年八基村昭和耕地整理組合設立せられ、干拓開道の工を加ふるに方り、地区の人々は之と連繋して由緒ある遺跡保存に意を用ゐ、一部の地を村社諏訪神社の社有地と為し、若干の風致を施こして新道に小橋を架設す、之を青淵橋と名付け永遠に記念を劃す余は耕地整理組合に長たるの名を汚し、各役員並に組合員の協力に倚りて事業完結を告げたる縁故者として、玆に建碑発起者の嘱に応じ其の顛末を識すこと爾利
  昭和十一年十月          渋沢治太郎撰書
           発起者 八基村青年団血洗島支部
                    血洗島青淵会
                     大字血洗島

場所


水戸藩烈士弔魂碑

岡部藩によって討たれた水戸藩天狗党浪士2名の慰霊碑。
渋沢栄一生家の「中の家」のすぐ手前の薬師堂に建立されている。

弔魂碑
 此弔魂碑は旧水戸藩士二人合葬の所を標せしなり、元治甲子の年、水藩の志士田丸稲之衛門・藤田小四郎等尊王攘夷の説を唱へ同志を糾合して幕府に抗し、事敗るゝに及び一橋慶喜公に就きて天朝に愬ふる所あらむとし、武田耕雲斎等と共に西上せむとす、兵凡三百余人、其嘗て筑波山に拠れるを以て世人呼びて筑波勢といふ、幕府傍近の諸藩に令して之を討たしむ、十一月十二日其勢七隊に分かれ利根川を越えて中瀬村に至る、岡部藩の家老吉野六郎左衛門兵を率ゐて其通過を止めしかば、夜陰に乗じて本庄宿に去れるが、其隊中の二人は一行に後れて藩兵の殺す所となれり、血洗島村人其非命を憐み遺骸を収めて墓石を建て、其氏名を詳にせざるを以て唯無縁塔とのみ称したりき、今玆大正七年、村人其久しくして湮滅せむことを恐れ碑を刻して之を表せむとし、余に其事由を記せむことを請はる、嗚呼筑波勢の挙言ふに忍びざるものあり、其行為には議すべきものありといへども、其志は朝旨を遵奉して幕政を革め、外侮を禦がむとするにありき、然るに事志と違ひ却て慶喜公の旗下に降服して、遂に幕府の為に敦賀に刑せらる、心ある者誰か痛惜せざらむや、明治二十四年、朝廷武田・藤田等の諸士に位を贈りて其忠悃を追賞せられ、寃魂始て黄泉の下に伸び、精忠永く青史の上に顕る、然るに此二士は其名だに伝はらず、空しく寒烟荒草の下に朽ちむとす、村人の之を歎きて貞石に刻せむとするは固より美挙といふべきなり、回顧すれば当時余は、慶喜公の軍に従ひ海津に在りて筑波勢の入京を防止せむとせし者なり、今二士の為に此文を作る、実に奇縁といふべく、書に臨みて中心今昔の感に堪へざるなり
  大正七年九月
                  青淵 渋沢栄一 撰并書

血洗嶋中建之

場所


血洗島の諏訪神社

渋沢栄一の出身地、血洗島の鎮守。
渋沢栄一崇敬の鎮守様。「中の家」から南に500メートルほど。

渋沢栄一寄進の拝殿。大正5年(1916年)建立。

諏訪神社
 血洗島の鎮守社で、古来より武将の崇敬が厚く、源平時代に岡部六弥太忠澄は戦勝を祈願したといわれ、また、この地の領主安部摂津守も参拝したと伝えられている。
 大正5年(1916)に渋沢栄一の喜寿を記念して村民により建てられた渋沢青淵翁喜寿碑が境内に残る。神社の拝殿は栄一がこれに応えて造営寄進したものである。
 栄一は帰郷の際、まずこの社に参詣した。
 そして、少年時代に自ら舞った獅子舞を秋の祭礼時に鑑賞することを楽しみとしていた。
 境内には、栄一手植えの月桂樹があった。また長女穂積歌子が父、栄一のために植えた橘があり、その由来を記した碑がある。
  深谷市

渋沢青淵翁喜寿碑

大正5年(1916)建立。徳川慶久の題額。
徳川慶久は、徳川慶喜の七男。貴族院議員。そして渋沢栄一が設立した第一銀行取締役なども勤めていた。

澁澤青淵翁喜寿碑
公爵徳川慶久題額
男爵渋沢青淵翁、今年七十七の高齢に達せられたるを以て、郷里なる八基村字血洗島の人々、碑を立てゝ、翁の徳を頌せんとして、余に文を求めらる、余訝り問ひて、翁の功績は甚大なり、村人の私すべき所ならんやといふに、人々首打掉りて否々、吾村は武蔵平野の小村ながら、翁の如き大人物を出したるを誇とすべし、翁や青年の頃村を去りて国家の為に奔走し、今は世界の偉人として内外に瞻仰せらるれども我等は尚翁を吾村の父老として親しみ慕ひ、翁も亦喜びて何くれと村の事に尽すを楽となせり、翁は嚮に八基小学校の新築と、其維持法とに就きて、多くの援助を与へ、一村の子弟をして就学の便を得しめたり、村社諏訪神社は、翁が幼少の時境内にて遊戯し、祭日には村の若者と共に、さゝらなど舞ひたる事あれば、村に帰れば先づ社に詣づるを例とし、社殿の修理にも巨資を捐てゝ父老を奨励したり、今年は翁の喜寿に当りたれば、翁を迎へて彼のさゝらを催しゝに翁は記念として拝殿を造りて寄進したり、村人は此後春秋の告賽にも、子女の婚礼にも其便を得て、敬神の念嚮学の風と相待ちて風俗の益敦厚ならんことを喜び合へり、翁が尊貴を忘れて郷閭に尽せる功徳と情愛とは、村人の深く感謝する所なりと、余此言を聞きて感じて曰く、微賤より起りて富貴を一身に聚めたる人の草深き故郷を疎かにするは世の常なり翁や世界の偉人として其故旧を忘れず父老を敬ひ青年を導く、大人にして赤子の心を失はずとは翁の謂なり、翁の行は社会の模範となすべく、翁の徳は伝へて天下の風気を振起せしむべし、余は翁の知遇を蒙る者、いかでか人々の請を辞すべけんやと、因りて其言を録すること此の如し、翁の寿の九十に躋り百歳に至るは言はんも愚なり、後世翁の徳を聞きて感奮し、翁に継ぎて与る者あらば、翁は千歳にわたりて長へに生くべきなり
  大正五年九月       文学博士 萩野由之撰
                    阪正臣書

宮城遥拝所

紀元2600年記念(昭和15年)

諏訪神社修繕記念碑
 当社は、その創立の年代を詳らかにしていませんが、かつては諏訪大明神ととなえ、信州諏訪の地より勧請したものと伝えられています。江戸時代には岡部藩主安部氏の崇敬するところでもありました。
 現在の本殿は、明治四十年九月に竣工したもので、郷土の偉人澁澤榮一翁と当時の血洗島村民が費用を折半して造営されました。さらに現在の拝殿は、榮一翁がその費用を全額負担して造営され、大正五年九月に竣工したものです。以後代々の氏子により厚く崇敬されてきました。
<省略>

澁澤父子遺徳顕彰碑は、昭和48年11月建立。

澁澤父子遺徳顕彰碑
以和為貴

 君子は本を務む本立ちて道生ずその根柢をなすものこそ孝悌である わが澁澤父子三氏の如き正に斯の道の亀鑑と仰ぐべきであろう
 澁澤市郎は群馬縣太田市成塚須永氏に生れ初め才三郎と稱した わが國經濟界の泰斗澁澤榮一の妹ていの婿に迎えられて市郎と改名し榮一に代って中の家を嗣いだ 市郎は資性惇朴信義を重んじ常に謙虚に中の家は義兄に代って自分が守るのである 自分の任務は家名を傷つけず資産を失わないことであると語った 夫婦能く和合して家政を理め立派にその負託に應え長子元治次子治太郎を舉げた 市郎は生涯を通じて各般の地方公共事業に盡力した 八基信用組合を興し特に科學肥料の普及と農作物の増収に努めた さらに八基村名譽村長に就任し埼玉縣會議員に當選治水同盟を組織 利根川小山川の改修工事を促進した これに因って流域住民は始めて多年に亙る水害の苦難を脱することを得その恩澤は猶今日に及んでいる 大正六年齢七十一を以て歿した 市郎の一周忌に當り 榮一は自らその墓誌銘に諄信好義の士と撰書して厚く義弟を弔った
 長子元治は當時公職に在って東京に移住した爲榮一は二子と謀り次子治太郎が中の家を管理し農業を經営する方針を決めた 治太郎は誠意を盡して中の家を管理した 後年元治は自分が中央において心置きなく働けたのは偏に弟治太郎のお陰であると述懐している 治太郎は中の家を中心に産業の振興地方の發展に大いに貢献した 西部蚕業改良組合を結成してわが國最初の生繭正量取引を実施した 埼玉縣養蚕組合連合會を組織して會長となり更に全國養蚕業者の利益代表として奮闘した 當時治太郎らが政府當局に献策した蚕絲業振興策は悉く國策として採用された 父市郎を後を承け八基産業組合長となって經營の基礎を確立し八基村名譽村長埼玉縣會議員等に選ばれて自治行政を強力に推進し幾多地方の重要公共事業を遂行した なお自ら首唱して耕地整理を行い公民學校及び青淵図書館を開設した また埼玉興業株式会社深谷倉庫株式会社その他治太郎が設立経営した事業は多数に上りその目覚しい活躍と業績とは恰も伯父栄一の事蹟を地方に再現した觀があるとさえ評された 昭和十七年齢六十五を以て歿した
 隅々元治は昭和二十一年名古屋帝國大學總長の職を罷め父市郎弟治太郎の後を継いで中の家の主人となった 爾來元治は専ら著述と後進指導に力を注ぎ地方文化の進展に寄与した 元治は生來學問を好み東京帝國大學工學部に學び欧米各国に留学後工学博士の学位を得逓信技師となり次で東京帝國大學教授に就任工學部長を經て昭和十二年退官した 同十四年名古屋帝國大學初代總長に任ぜられ名古屋帝國大學を創立した 同三十年わが國電氣事業の開發育成に盡力した功績に依り文化功勞章を授與された 元治は本年九十八歳の高齢に達したが現在正三位勲一等日本學士院會員として活躍しその申申たる温容は衆人の齊しく景仰措かざる所である
 われらは澁澤父子が三代にわたり中の家を管理されさらに國家社會に貢獻された偉績を想起しその功業を永く後昆に傅える爲茲に顕彰碑を建立した 冀くは貞石と共に愈々その遺徳の顕彰されんことを祈ってやまない
     昭和四十八癸丑年十一月 
      澁澤父子遺徳顕彰會選書建立

扁額は渋沢栄一謹書。

場所


尾高惇忠生家


「中の家」から東に約1.5キロ。

尾高惇忠(おだか じゅんちゅう)は渋沢栄一の従兄。号は藍香。
渋沢栄一は10歳年上の尾高惇忠に師事している。
「藍香ありてこそ、青淵あり」と称えられた。

のちに尾高惇忠は、官営富岡製糸場初代場長や第一国立銀行仙台支店長などを努めている。
尾高惇忠の妹である尾高ちよは渋沢栄一に嫁いでいる。(渋沢ちよ)
そして、尾高惇忠の弟である、尾高平九郎(渋沢平九郎)は、渋沢栄一の養子となるが飯能戦争で敗れ自刃している。

深谷市指定史跡
尾高惇忠生家
 尾高惇忠は天保元年(1830)下手計村に生まれ、通称は新五郎、藍香と号しました。渋沢栄一の従兄にあたり、栄一は少年時代からここ藍香のもとに通い、論語をはじめ多くの学問を藍香に師事したことが知られています。“藍香ありてこそ、青淵(栄一)あり”とまで、後の人々は称えており、知行合一の水戸学に精通し、栄一の人生に大きな影響を与えました。淳忠や渋沢栄一、喜作ら青年同志が、ときの尊皇攘夷論に共鳴し、高崎城の乗っ取りを謀議したのもこの2階であると伝わります。その後官営富岡製糸場初代場長や国立第一銀行仙台支店長を努めたことでもよく知られています。
 この尾高惇忠生家は、江戸時代後期に淳忠の曽祖父礒五郎が建てたものと伝わっており、屋号が油屋と故障されていた、この地方の商家建物の趣を残す貴重な建造物です。母屋の裏にある煉瓦倉庫は、明治30年頃建てられたといわれ、日本煉瓦製造株式会社の煉瓦を使用している可能性が考えられます。

尾高家の人々
尾高惇忠(藍香)
渋沢栄一の学問の師、従兄、義兄。富岡製糸場初代場長。第一国立銀行仙台支店長。
尾高(渋沢)ちよ
淳忠の妹で、渋沢栄一の妻。
尾高(渋沢)平九郎
淳忠の弟で、渋沢栄一の養子となる。飯能戦争で新政府軍に敗れ、22歳で自刃。
尾高ゆう
淳忠の長女。14歳で富岡製糸場の第1号伝習工女となる。

以下は、場所は変わって埼玉県越生町。
渋沢平九郎に関する案内板が越生駅近くにある。越生町は渋沢平九郎の終焉の地。せっかくなのであわせて記載。

※以下は、越生町にて

渋沢平九郎
尾高(旧姓)平九郎の生涯
 弘化4年(1847)、武蔵国榛沢郡下手計村(現深谷市)の名主尾高勝五郎の末子として生まれました。幼少期から兄の新五郎(淳忠)や長七郎、従兄の渋沢栄一や渋沢成一郎(喜作)らと学問・文芸に親しみ、剣の腕を磨きました。そして兄や従兄たちと尊皇攘夷運動に傾倒していきました。
 「渋沢平九郎昌忠伝(藍香選)」は、平九郎は「温厚で沈勇果毅(沈着で勇気があり、決断がよく意思が強い)で、所作は美しく色白で背が高く腕力もある」と評しています。

 安政5年(1858)に姉千代が渋沢栄一に嫁ぎ、平九郎と栄一は義兄弟になりました。慶応3年(1867)には渡欧する栄一の養子となって、幕臣として江戸に出府しました。翌年2月に彰義隊に加わり、のちに、成一郎、淳忠らと振武軍を組織します。
 慶応4年(明治元年)5月23日、飯能で新政府軍に敗れ、顔振峠を下って黒山村(現越生町黒山)へ逃れてきた平九郎は、芸州藩斥候隊と遭遇、孤軍奮闘後、川岸の岩に座して自決しました。まだ20歳の若さでした。

深谷の尾高惇忠生家にもどる。

尾高惇忠生家にある煉瓦蔵は、日本煉瓦製造株式会社製か?といわれている。

旧尾高家 長屋跡

現在は基壇が残るのみ。

場所


尾高家墓所

尾高家の近くではあるが、しょうしょうわかりにくい場所。

藍香、尾高惇忠の墓。

尾高長七郎(尾高弘忠)の墓

渋沢平九郎昌忠君招魂碑
渋沢栄一の建立。

場所


東の家跡

近くには、東の家跡もある。
中の家の東側が、尾高の下手計となるので、東の家は尾高家と近い。

渋沢市郎右衛門・喜作
宗助 東の家跡地


下手計の鹿嶋神社

尾高惇忠の下手計村(しもてばか)は、渋沢栄一の血洗島村の隣町。
下手計の鎮守は鹿嶋神社。
尾高惇忠家から、西に約500メートル、渋沢栄一「中の家」かたは東に約1キロ。

鹿島神社
 創立年代は不明だが、天慶年代(十世紀)平将門追討の際、六孫王源経基の臣、竹幌太郎がこの地に陣し、当社を祀ったと伝えられる。以降武門の守とされ、源平時代に竹幌合戦に神の助けがあったという。享徳年代(十五世紀)には上杉憲清(深谷上杉氏)など七千余騎が当地周辺から手計河原、瀧瀨牧西などに陣をとり、当社に祈願した。祭神は武甕槌尊で本殿は文化七年(一八一〇)に建てられ千鳥破風向拝付であり、拝殿は明治十四年で軒唐破風向拝付でともに入母屋造りである。境内の欅は空洞で底に井戸があり、天然記念物に指定されていたが、現在枯凋した。尾高惇忠の偉業をたたえた頌徳碑が明治四十一年境内に建立された。
  昭和六十年三月  深谷上杉顕彰会    (第二十二号)

渋沢栄一揮毫の扁額

鹿嶋神社 従三位勲一等男爵澁澤榮一謹書

克己復禮 尾高次郎書

尾高惇忠の次男、尾高次郎による揮毫。「克己復礼」は論語の出典。
尾高次郎は、尾高惇忠のあと、尾高家を相続。渋沢栄一の第一銀行(現・みずほ銀行)にて各地の支店長を勤め、武州銀行(現・埼玉りそな銀行)を設立し頭取に就任している。渋沢栄一は岳父にあたる。

鹿島神社
 下手計の鎮守社で、拝殿には渋沢栄一揮毫になる「鹿島神社」の扁額が掲げられている。
 境内には、栄一の師である尾高藍香の偉業を称える頌徳碑が建立されている。
 この碑のてん額は徳川慶喜公の揮毫、三島毅文学博士(号 中洲)の撰文によるものである。
 今では朽木となったが、大欅の根元に湧いた神水で共同風呂が設けられていた。栄一の母、栄はこれを汲み、らい病患者の背を流したと伝えられている。
 栄一手植えの月桂樹と長女穂積歌子が植えた橘があり、その由来を記した碑がある。
    深谷市教育委員会

渋沢栄一手植えの月桂樹などは記録しそこねました・・・


藍香尾高翁頌徳碑

篆額は、徳川慶喜の揮毫。堂々たる石碑。

藍香尾高翁頌徳碑について
 尾高惇忠を敬慕する有志によって建てられたこの碑の除幕式は、明治四十二年(一九〇九)四月十八日に挙行されました。
 おりから桜花満開の当日、澁澤栄一はじめ穂積陳重、阪谷芳郎、島田埼玉県知事など、建設協賛者である名士多数が臨席されました。その際、尾高惇忠の伝記「藍香翁伝」が参列者一同に配布されたのです。
 碑の高さは約四・五メートル、幅は約一・九メートル、まさに北関東における名碑の一つです。石碑の上部の題字は、澁澤栄一が最も尊敬する最後の将軍、徳川慶喜によるものです。碑文は三島毅、書は日下部東作、碑面に文字を刻む細工は東京の石工・吉川黄雲がそれぞれ当たりました。
 郷土の宝物であるこの名碑を大切にし、藍香翁はじめ先人の遺徳を偲び、共に感激を新たにいたしましょう。
    平成十七年十月

藍香尾高翁頌徳碑
藍香尾高翁頌徳碑   従一位公爵徳川慶喜篆額
西武有君子人、曰尾高翁、々少時遭人倫之変、慈母与祖父不相協、去而不帰者数年、翁泣涕往来其間、或哀請、或幾諫、蒸々克諧以復旧、親戚郷党、莫不感称焉、嗚呼孝百行之本、自此以往、翁之進退出処、皆有功徳、物故已七年、人々追慕不已、況其門人故旧乎、乃胥謀欲樹碑於村社側以頌之、謁余文、按状翁諱惇忠、称新五郎、号藍香、尾高氏、武蔵榛沢郡下手計村人、祖曰磯五郎、父曰勝五郎、並為里正、家業農商、母渋沢氏、今男爵青淵君姑也、天保元年七月某日生翁、々少聡敏強記、独学通経史、業暇教授隣里子弟、青淵君亦就学焉、嘉永中辺警荐臻、海内騒然、翁喜水藩尊攘之説、窃与四方志士交、有所謀議文久元年襲里正、而心不在焉、慶応中以嫌疑下岡部藩獄、無幾免、既而翁悔悟攘夷未可遽行、専務殖産興業、而徳川慶喜公夙聞其名、行将用之、時公奉還大政、退大阪、誠意未上達、将陥危難、翁聞之慨然蹶起、欲有所救、到信州、則官軍既在木曾、乃還、明治元年二月入彰義隊、又起振武軍、屯飯能、与官軍戦敗、匿于家、乱已平、為静岡藩勧業属吏、亡何辞帰、家居三年、民部省辟為監督権少佑、転勧業大属、兼富岡製糸場長、十年辞之、為東京府養育院幹事、兼蚕種組合会議長翁曾得秋蚕之製於信州、伝之遠邇、皆獲大利、先是青淵君創立第一銀行、翁応嘱為盛岡支店長、土人又推為商業会議所長、傍勧製藍、励染工、後歴転秋田仙台支店長、興植林会社、二十三年刱製靛之方、得専売権、翌年以老辞職、翁助青淵君掌銀行業已十五年、功労不少、且所在為斯民授業興利、不可枚挙、遂寓東京福住街、専販藍靛、暇則矻々著述、而泰東格物学、其所最注心、毎曰名教之本、全在此、三十四年一月二日病終、享年七十有二、帰葬郷塋、青淵君以妹婿作墓銘、可謂交有終始矣、元室根岸氏、生二男五女、先亡、長男勝五郎夭、次次郎出為支族幸五郎嗣、季女配養子定四郎奉祀、余皆適人、翁天資惇誠温良、与物歓洽、有器局、処艱難能耐忍、為郷党謀最忠実、歳歉則廉価糶貯穀、有紛議則懇諭和解、其他善行不可勝記、而莫不一本於至性、豈可不謂君子人乎哉、銘曰、
  維孝為本 学術正淳 事君則藎 育英則循
  述作垂後 名教維因 造次顛沛 志在経済
  殖産刱業 大起民利 誰言理財 不由徳義
明治四十年七月
        東宮侍講正四位勲三等 文学博士 三島毅撰
        正五位日下部東作書  吉川黄雲鐫


北阿賀野の稲荷神社

「中の家」から北に約800メートルの地に鎮座。
青淵公園を流れていた清水川の北側にあたる。

稲荷神社 子爵澁澤榮一謹書

稲荷神社・菅原神社(天神社)改築記念碑
 深谷市北阿賀野一番地に鎮座する稲荷神社は倉稲魂命を御祭神と仰ぎ祀り五穀豊穣の神として先祖代々尊崇篤く現在に及んでいる。創建については風土記稿などによれば徳川氏関東に入国の頃との記述があることから四百年以上の歴史があるものと思われる。菅原神社(天神社)は宝暦十三年(一七六三)の建立と記されている。
 旧社殿内の棟木や記念誌からは御殿が明治二十六年に造営され大正十五年に改築し、その後昭和五十一年に氏子延百二十人の出役による改修事業が行われたなどの記録が残されている。
 境内には昭和二年に當地出身の偉人桃井可堂の顕彰碑が澁澤榮一翁により建立されている。社名の扁額も翁の揮毫によるものである。
 又戦争で尊い命を国家に殉じた英霊と従軍者の扁額が昭和三十九年に奉納され平和の尊さを今に伝えている。
 當神社は稲荷様として氏子に親しまれ豊作や商売繁盛・家内安全などを祈願する祭祀のみならず境内でのスポーツなど住民の交流の場として心の拠となっていた。しかし老朽化も著しく幾度となく修復も試みられてきた。
 この状況を憂い平成二十五年九月地元出身の実業家石坂好男氏により両神社の改築並びに境内の整備を寄進したい旨の申し入れがあり氏子総意の下、有難くこれを拝受し、平成二十六年六月起工・平成二十七年六月竣工の運びとなった。
 誠に氏子の喜び此の上なく尊崇篤くして地域の振興を子々孫々の繁栄を祈願してやまない。
 茲に石坂好男氏への報徳とその功績を後世に永く伝えると共に本事業の施工業者並びに協力・奉賛頂いた全ての皆様に衷心より感謝の誠を捧げてこの記念碑を建立する。
   平成二十七年六月吉日
     北阿賀野稲荷神社宮司 宮壽照代
     同          氏子一同

可堂桃井先生碑

桃井可堂(もものい・かどう)
幕末の尊皇攘夷活動家。渋沢栄一の血洗島村の北隣りに位置する北阿賀野村出身。渋沢栄一より37歳年上。
文久3年(1863)に慷慨組を組織するも挙兵計画が漏洩し川越藩に自首。幽囚され自ら絶食して死去。「深谷の吉田松蔭」と称された。

可堂桃井先生碑
慷慨国を憂ひ率先義を唱へ、時運未だ会せず謀成らずして身を殞し、英魂慰する所なかりしも、適昭代の隆運に遭ひて恩賞枯骨に及ぶ、吾が可堂桃井先生の如きは寔に生前に否にして死後に泰なるものと謂ふべし、先生諱は誠、通称は儀八、字は中道、可堂は其号なり、享和三年八月八日武蔵榛沢郡北阿賀野村に生る、本姓は福本、忠臣新田氏の後裔なり、父諱は守道、世々農を業とす、先生幼より好みて稗史野乗を読み、能く其要を記す、一日父先生に謂て曰く、汝をして大儒に就て修学せしめんと欲するも、家貧にして資なきを如何せんと、言畢りて撫然たり、先生も亦切歯涙を垂る、時に甫めて八歳なり、幾もなく郷儒渋沢仁山に就て学ぶ、仁山深く望を属す、年二十二、蹶然江戸に遊び、東条一堂の門に入り、清川八郎・那珂梧楼と併せて三傑と称せらる、業成り帷を下して教授す、名声日に揚り交道月に広し、庭瀬侯賓礼を以て先生を聘し、亀山侯も亦師事せり、嘉永六年米艦渡来し、物情騒然たり、先生感ずる所あり、藤田東湖に因りて書を水戸烈公に上らんとす、適東湖の死に遭ひて果さず、尋で米国の通商強要、安政戊午の大獄等ありて、幕政日に非なり、先生慨然職を辞して郷に帰り窃に名族岩松某を推して謀首と為し、兵を挙げて外人を掃攘し、一挙幕府を倒さんとす、某期に臨み遅疑して起たず、事漸く漏る、先生責を一身に負ひ、衆に代りて川越藩に自首す、幕府先生を江戸に檻送し福井藩邸に幽す、先生憂憤自ら食を絶ちて死す、実に元治元年七月二十二日なり、享年六十又二、巍然たる大節、真に忠臣の裔たるに恥ぢずと謂ふべし、諡して義道院猛雲至誠居士と云ふ、麻布光専寺に葬る
大正天皇登極の年、特旨を以て正五位を追贈せらる、是に於て戚族相議し駒込吉祥寺に改葬す、先生二男あり、長は之彦、畳山と号し、次は直徳、山東と号す、明治の初予大蔵省に勤務するに及び、二人を薦めて民部・大蔵両省に奉職せしめしに、頗る循吏の聞ありしが、不幸短命にして倶に世を蚤くせり、山東五男あり、長可雄は早く横浜の渋沢商店に入りて、生糸輸出の業に従ひ、季健吾は石井氏を冒して現に第一銀行副頭取たり、是亦予の推薦する所にして、倶に経済界に令名あり、忠誠の報空しからずと謂ふべし、頃日八基村教育会、碑を村社の境域に樹て、其義烈を顕揚せんとし、文を予に嘱す、嗚呼、先生と同憂の士多くは玉砕し、其子其孫亦既に地下に入りて、相見る能はざるものあり、予は郷閭先生と相近く、壮時同じく尊攘を以て念とせしも、故ありて事を共にせず、瓦全今に至る、偏に聖世の恩沢に因ると雖も、亦曷ぞ命長くして悲傷多きの歎なきを得んや、往時を追懐して悵然たること之を久しうす
  昭和二年五月 正三位勲一等子爵 渋沢栄一撰并書

場所

桃井可堂が塾を開いた中瀬村には、個人史料館「桃井可堂郷土史料館」もある。歯科医院の敷地内。

郷土の先人 苦学力闘の人
桃井可堂郷土史料館

場所


渋沢栄一記念館

渋沢栄一の「中の家」 血洗島村からは東に約500メートル。
平成7年(1995)11月11日(栄一翁の祥月命日)に開館。八基公民館を兼ねている。

「富岡製糸場と深谷の三偉人」
 深谷市は、平成26年に世界文化遺産に登録された富岡製糸場の設立に深く関わった渋沢栄一・尾高惇忠・韮塚直次郎三氏の偉業を称え、顕彰しています。
 渋沢栄一は明治政府において官営製糸場設置を推進し、尾高淳忠は富岡の地にフランス式機械製糸場を竣工、初代場長として運営を行い、韮塚直次郎は富岡製糸場の巨大建造物を支える煉瓦などの資材調達に尽力しました。
 ※このレリーフは、石坂産業株式会社創業者である石坂好男氏の寄附ににより制作しました。

渋沢栄一

尾高惇忠

韮塚直次郎


渋沢記念館の後ろ側、清水川、そして上州を見渡す方向に、大きな渋沢栄一像が建っている。

渋沢栄一像

渋沢栄一翁
 本像はもと深谷駅頭にありき
 昭和63年3月、有志1500有余名の錠剤をもとに駅前区画整理事業の完成と翁の顕彰を記念して建立せしものなり
 平成7年10月、翁、生誕八基の地に渋沢栄一記念館の落成に伴い、ここに遷座し奉る
 この地や、園日に渉り以て趣を成すの如く大いなる発展をとげしも、刀水は悠遠にして、翁、在世の昔も今の如し上毛三山の遠望も又、今も昔もなし
 翁没して65年、翁の像が故山の風物を眺めて起つは又美しき哉
 平成8年11月吉日
  深谷市長 福嶋健助


桃井可堂が塾を開いていた中瀬村には「河岸場」があった。

中瀬河岸跡

古来は、新田義貞が鎌倉幕府倒幕の兵を揚げ「中瀬の渡し」を渡り、そして江戸時代には武蔵国と上野国を結ぶ利根川の船着場として栄えていた河岸。物資や船客の乗り換え場所であったということから、江戸の情報がいち早く伝わる情報発信地であり、これが北武蔵で渋沢榮一を始めとする偉人を生んだきっかけでもあった。

中瀬河岸跡
 中瀬河岸は、江戸時代から明治にかけて利根川筋の河岸場として大いに繁栄した。
 慶長12年(1607)に江戸城秋竹の栗石中瀬から運んだ記録があり、この頃には既に中瀬からの水運が行われていたようである。その後、中瀬は周辺の物資の集積所となり上流や下流から来た乗客や荷物を積み替えるように定められ、関所のような役割を果たしたという。
最盛期には、大小100隻近くの舟が出入りし、問屋、旅籠屋などが軒を連ねて賑わった。
明治16年(1883)の高崎線の開通により次第に衰退し、明治43年の大洪水とその後の河川改修で河岸場の姿は失われた。
 平成5年11月 深谷上杉顕彰会

以上、渋沢栄一の出身地「血洗島」周辺の記事でした。

「誠之堂・清風亭」は、別記事にて。


リンク

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