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大本営地下壕と市ヶ谷記念館(防衛省・市ヶ谷台ツアー)

市ヶ谷台ツアーに参加してきました。
「大本営地下壕跡」を中心に掲載していきます。

以前に「市ヶ谷ツアー」に参加したときとは、コースも大きく変更されてますね。
特に大きな変更点は「メモリアルゾーン」への見学が無くなったこと。

以前の「市ヶ谷ツアー」のレポートは以下も参照に。
※大講堂の展示資料の多くは重複するので、以前のレポートに譲ります。

平成30年6月撮影 6月某日。縁あって防衛省・市ヶ谷地区の見学を。通称「市ヶ谷台ツアー」に参加してきましたので、そのときのレポを以下...

ちなみに、かなり特殊ですが、運良く、メモリアルゾーンの見学もしました。ここは、一般向け見学ツアーには含まれておりません。

市ヶ谷の防衛省。敷地内に、歴史的なメモリアルゾーンがある。 その様子は、以前にレポートしましたが、細部は見学コースに含まれておらず、...

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市ヶ谷台ツアー

大本営地下壕跡

今回、「市ヶ谷台ツアー」に参加した最大の理由は、もちろん「大本営地下壕跡」の見学のため。

補修工事後の2020年8月から「市ヶ谷台ツアー」の午後の見学コースとして一般公開を開始。
防衛省市ヶ谷地区を見学できる「市ヶ谷台ツアー」は事前予約・定員制。大本営地下壕跡が見学できる午後の部は参加定員も少ない。開催は平日のみ。土日祝は無しのために、平日に時間を捻出しない限り参加できないので、人によっては参加条件の難易度が高い。

防衛省・自衛隊>市ヶ谷地区(市ヶ谷台ツアー)の御案内


儀仗広場の石灯籠(地下壕の通気筒)

儀仗広場の奥に見える石灯籠。
実は、大本営地下壕の通気筒。地上部は石灯籠によりカモフラージされている。
石灯籠は2基設置されているが、儀仗広場から見えるのは、1基のみ。

ちなみにこの日は、外国からの来賓があった。そのため、日本国旗は中央ではなく右側に。
一度掲げた国旗は、揚げ直しは出来ないため、この日はこのまま右側で掲揚。

中央に掲揚でない日本国旗を見るのは、レアかもしれない。

地下壕に入る前に、ヘルメットが支給されます。


大本営地下壕

この地下壕は、第二次世界大戦中に市ヶ谷台に置かれた陸軍中枢機関の防空壕として建設されました。
平成28年5月の観光立国推進閣僚会議において「観光ビジョンの実現に向けたアクション・プログラム2016」が決定されたことを受け、将来的な保存・公開が検討され、構造物の調査が行われました。
その後、耐震補強や老朽化防止対策が施され、公開されることとなりました。

江戸城周辺の要衝
市ヶ谷台は海抜31.4m、江戸城の西北に位置し、江戸城周辺における最も高台の要衝の地であり、明暦2年、尾張徳川家第2代光友公が上屋敷を築いた。明治時代には陸軍士官学校が開校した。

陸軍中枢機関の移転
昭和12年に士官学校本科が神奈川県座間へ、昭和16年に予科士官学校が埼玉県朝霞へ移転し、代わって大本営陸軍部、陸軍省、参謀本部等の陸軍中枢機関がこの地に移転した。地下壕は、大本営陸軍部等が入る建物(旧陸軍士官学校本部)地下に建設された。

終戦
当時の軍人の記録によれば、昭和20年8月10日、阿南惟幾陸軍大臣が将校らをこの地下壕に集め、8月9日の御前会議においてポツダム宣言受諾を決断した昭和天皇の聖断を伝えたとされている、戦後は、GHQ(連合国最高司令官総司令部)が使用した後、昭和34年に返還された。

地下壕は南北に3本、東西に2本、南側には出入り口が6扉設けられ、北側は階段で建物とつながっていた。

大本営・大本営陸軍部
大本営は、戦時または事変に際して設置された、天皇を補佐する最高の統帥機関。明治26年5月の「戦時大本営条例」により、制度化され、日清戦争及び日露戦争において設置された。その後、日中戦争の拡大にともない、昭和12年11月20日設置され、太平洋戦争を通じて存続し、昭和20年9月13日に廃止された。この期間の大本営の構成は軍人に限定され、首相や分館が除かれたため、大本営とは別に、大本営政府連絡会議、のちに最高戦争指導会議などの政府との協議体が設けられた。

大本営陸軍部は、参謀本部とほぼ同一の組織である大本営陸軍部幕僚(大本営陸軍参謀部及び陸軍副官部)と、兵站総監部や大本営陸軍報道部等からなる大本営陸軍部諸機関より構成されていた。また、軍政に関する事務を処理するため必要な人員として陸軍省から陸軍大臣、同次官、人事局長、軍務局長など10数名が加わった。昭和12年の設置以降、戦線の拡大にともない逐時機構を拡大し、昭和20年5月には定数が1792名となっていた。

終戦間際の地下壕
終戦時に陸軍省軍務局軍務課内政班長を勤めていた竹下正彦中佐の記した「機密終戦日誌」によれば、1945(昭和20)年8月10日、阿南惟幾陸軍大臣が陸軍省幹部をこの地下壕に集め、8月9日の御前会議においてポツダム宣言受諾を決断した昭和天皇の聖断を伝えたとされている。


昭和二十年八月十日
一、昨夜二十三時ヨリ開カレタル御前会議ハ本朝三時過終了引キ続キ閣議アリ
二、九時三十分ヨリ地下防空壕ニ於テ陸軍省高級部員以上ノ集合ヲ命ゼラレ大臣ヨリ昨日ノ御前会議ノ模様ニ付左記要旨ノ説明アリ

左記
昨夜十一時ヨリ本朝三時ニ亘リ御前会議開催セラレ皇室ノ保全ヲ条件トシテ「ポツダム」宣言内容ノ大部ヲ受諾スルコトニ 御聖断アラセラレタリ
(略)
 「機密終戦日誌」より引用

市ヶ谷台の歴史
江戸時代
・1656年3月 尾張徳川家第2代光友が第4代将軍家綱から市ヶ谷台に5万坪を拝領
・1657ね1月 明暦の大火を機に尾張徳川家が上屋敷を設置
明治・大正時代
・1868年3月 江戸城開場に際して官軍の砲兵陣地を設置
・1871年   西郷隆盛率いる御親兵が駐屯
・1974年12月 陸軍士官学校開校
・1923年9月 関東大震災によって校舎の大部分が消失
昭和時代
・1937年6月 陸軍士官学校本部庁舎竣工
・1937年8月 陸軍予科士官学校創設、陸軍士官学校が座間へ移転
・1941年12月 太平洋戦争開戦
       陸軍予科士官学校が朝霞へ移転
       大本営陸軍部、陸軍省、参謀本部などが三宅坂から移転
・1945年8月 終戦
・1945年12月 第一復員省設置
・1946年5月 連合国軍進駐、極東軍事裁判開廷
・1947年   米極東軍司令部、国連軍司令部、米国将校宿舎等として使用
・1959年   連合国軍から返還
・1960年1月 陸上自衛隊市ヶ谷駐屯地開設

大本営地下壕
地下壕は南北に3本、東西に2本の壕が交差した構造となっている。3か所の出入り口には、堅固な鉄扉が取り付けられ、内部には大臣室、通信室、炊事場、浴槽等の設備を備えていた。また、通気筒が2か所あり、地上部は日本庭園に石灯籠を配置しカモフラージュした。
全体:幅48m x 奥行52m
通路:幅4.6m x 高さ4m
構造:鉄筋コンクリート構造
面積:1342.21平方m

地下壕の通気孔。
この通気孔は直線ではなく、内部で折り曲がった上で地上の石灯籠とつながっている。直線ではないのは、万が一の爆撃が直撃する恐れもあり、また光を漏らさないための工夫であった。

当時の壁面を一部残している。鉄骨で構築されているのがわかる。
この箇所以外の壁は保存補強で上塗りされている。

米軍占領時代に記載。

No Smoking

陸軍大臣室ちかくの通風孔。

東西を結ぶ地下壕。

柱の奥が「陸軍大臣執務室」(手前)や「通信所」(その奥)跡。
左側の通路は「食堂室跡」へつながる。

「陸軍大臣執務室」(手前)や「通信所」(その奥)跡

南北の地下壕。奥には庁舎につながっていた階段がある。

便所跡
(大便器跡)

便所跡
(小便器跡)

南側の出入り口につながる扉跡。

分厚さがわかる。

出入り口には鉄扉があった。

重厚なコンクリートで覆われた出入り口。

陸軍中枢の大本営地下壕。絶対に何があっても護られる重厚な地下壕。
貴重な見学となりました。

以下、地下壕以外の見学記録も。


市ヶ谷台ツアー

防衛省庁舎 D棟 E棟

防衛省庁舎 A棟 D棟

bぼうえいしょう防衛省防衛省t庁舎庁舎

防衛省庁舎B棟 陸海空各自衛隊の通信部隊が使用する通信局舎


市ヶ谷記念館

陸軍士官学校本部として建設された建物の象徴的な部分を移設・復元。


市ヶ谷記念館
大講堂

昭和9年に陸軍士官学校の大講堂として造られた。
昭和21年5月から同23年11月までの間、極東国際軍事裁判(東京裁判)の法定として使われた。

玉座

玉座に集まるように設計された壁面

玉座からみて、扉を小さく見せる工夫。
2階のせり出しをギリギリまで下げている。

よく見ると斜面。
扉を小さく見せ、2階部分を高く見せないための工夫。

玉座の陛下の目線から、2階を上に感じさせない構造となる。


極東国際軍事裁判・証言台(復元)

極東国際軍事裁判の証言台をイメージ。実際に置かれた場所に設置。
大講堂は「陸軍士官学校」時代を再現しているが、ここは「東京裁判」な空間。


極東国際軍事裁判・裁判官出身国国旗(復元)

こちらの大講堂が極東国際軍事裁判の法定として使用された際に裁判官席の後方に設置された裁判官の出身国の国旗(1946年当時)を再現したものです。

インド、オランダ王国、カナダ、グレートブリテン及び北アイルランド連合王国(イギリス)、アメリカ合衆国、オーストラリア連邦、中華民国、ソビエト社会主義共和国連邦、フランス共和国、ニュージーランド、フィリピン


大講堂の床も復元にあたって当時の材質を忠実に利用。

矢印の場所は、復元するために位置情報をマーキングしていたシールの跡。
きれいな板は新しく用意した板。それ以外は当時からの板を再利用。


旧陸軍士官学校長室
旧陸軍大臣室
旧陸上自衛隊東部方面総監執務室

士官学校時代は、士官学校校長室。
昭和16年以降は、陸軍大臣室。
戦後は陸上自衛隊東部方面総監執務室であった。

陸上自衛隊東部方面総監執務室時代に、三島由紀夫が扉につけた刀傷が3箇所残っている。
以前はマークはなかったが、いつのまにかわかりやすい表示に進化。

陸上自衛隊時代の旧1号館の復元模型。

バルコニー。三島由紀夫が演説した場所。

大本営陸軍部
陸軍士官学校

表札


旧便殿の間

士官学校時代、 陛下の休憩所として使用された。
戦後は、陸上自衛隊幹部学校長室として使用。

通常の扉は中からは引く扉であるが、 陛下が中から引くことを想定しておらず、外から引く扉となっている。

当時は冷房がなかった時代。地下からの冷気を部屋に取り込むために冷却ダクトが備えられている。

昭和9年の特別大演習の集合写真。


陸軍士官学校歴代校長

2代校長 中将 大山巌
3代校長 中将 谷干城

9代 14代 校長 中将 寺内正毅

20代校長 中将 白川義則 (上海事変)
21代校長 中将 鈴木孝雄 (鈴木貫太郎の弟)

23代校長 中将 南次郎 (満州事変の陸軍大臣)
25代校長 中将 真崎甚三郎 (皇道派 二・二六事件)

陸軍予科士官学校歴代校長

初代予科校長 少将 甘粕重太郎 (甘粕正彦の従兄弟)
2代予科校長 中将 牛島満 (沖縄戦)
3代予科校長 中将 牟田口廉也 (ジンギスカン)


警察予備隊本部
警察予備隊で使用していた看板
昭和25年に国家地方警察本部から分かれ警察予備隊本部が越中島に設置された。

防衛庁
元防衛帳南門で使用していた看板
昭和45年 中曽根元総理揮毫

市ヶ谷記念館のシンボル
「大時計」「桜」

「大時計」
「1号館」の大時計として、平成9年の解体まで波瀾万丈の時を刻んだ。

「桜」
陸上自衛隊東武方面総監部等が使用した「1号館」のシンボルとして、長い間人々に親しまれた。



市ヶ谷記念館の西隣りに。(以前のツアーの際は見学コースに含まれておりませんでした)

スディルマン・インドネシア共和国初代国軍司令官

スディルマン・インドネシア共和国
初代国軍司令官

 本銅像は、プルノモ・インドネシア共和国国防大臣より防衛省に対し、日・インドネシアの友好親善及び日・インドネシア防衛協力・交流の今後の発展の象徴として寄贈されたものである。
 本銅像のスディルマン・インドネシア共和国初代国軍司令官とは、オランダとの独立戦争の指導者であり、インドネシアの国民的英雄である。1916年生まれ。師範学校を出て教師になったが、独立戦争のため、軍に参加。日本軍政の時、日本軍の軍事訓練を受け大団長(大隊長)を務めた経験もあり、1945年、最年少で将軍になる。インドネシア政府は業績をたたえ、記念碑を建立。彼の名は、首都ジャカルタをはじめ国内主要都市の最も繁華な通りの名前につけられ、大学の名前にもなっている。


同じく市ヶ谷記念館の西隣りに。

旧歩兵第一連隊営門

旧歩兵第一連隊営門の由来
 防衛庁が所在した檜町地区は、江戸時代には毛利藩中屋敷があったが、明治4年12月に国有地となり、明治6年5月、日本陸軍の名誉ある頭号歩兵連隊として創設された東京鎮台歩兵第一連隊が駐屯することとなった。爾来、同連隊には34代にわたる連隊長が在職したが、その中でも乃木希典は第2代歩兵第一連隊長(明治11年~15年)であり、彼の住居は今も旧防衛庁の近隣に現存し、昔日の姿を残している。
 大正12年の関東大震災に伴い損傷を受けた連隊本部は取り壊され、連隊はしばらくの間バラックを使用していたが、昭和4年8月に連隊本部の建物(旧防衛庁庁舎20号館)及び営門(本展示物)が竣工した。
 その後、幾多の昭和の激動を経た連隊本部は、その営門と共に昭和20年5月25日の東京大空襲による焼失を免れ、終戦を迎えた。
 戦後、昭和21年から米軍が駐屯したが、旧20号館は営門とともに残置された。昭和34年の米軍移駐に伴い、昭和35年、それまで霞が関に所在していた防衛庁は桧町に移転し、旧20号館は防衛庁の庁舎として使用されるとともに営門は檜町の象徴として保存された。
 昭和53年4月、老築化が進んでいた既設の塀は建て替えられたが、営門は敷地内に引き続き保存されることになった。
 平成12年、防衛庁本町庁舎の市ヶ谷地区への移転完了に伴い、檜町地区の既存建物は旧20号館を含め逐次解体されたが、昭和35年に霞が関から檜町地区に移転して以来、防衛庁・自衛隊を見守ってきた営門は、檜町地区における唯一の歴史的建造物として、ここ市ヶ谷地区に移設された。
 この旧歩兵第一連隊本部の営門は、檜町地区勤務経験者にとって王子を偲ばせるものになるとともに、21世紀を担う若い自衛隊隊員とこの市ヶ谷の地に繰り広げられる諸々の出来事を、これからも見守り続けていくことであろう。
 平成15年7月


戴き物

防衛省 市ヶ谷台ツアー 来場記念品
防衛大臣のメッセージカードとポストカード

是非、足を運んでみてください。


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