板橋の田園調布「ときわ台駅」周辺散策

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東京都板橋区常盤台。東武東上線「ときわ台駅」。
東急の「田園調布」、小田急の「成城学園」などの鉄道会社主体の住宅地造成ブームの中で、東武鉄道が手掛けた最初の本格的な住宅地開発が「ときわ台駅」であった。

そんな、開発当初の昭和の雰囲気を感じつつ散策してみました。


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常盤台(ときわ台)

東上鉄道
大正3年に東上鉄道として開通した際は、「ときわ台駅」はまだ未開業であった。大正9年(1920)に東上鉄道は東武鉄道と対等合併し、「東武鉄道東上本線」となった。

西板線
合併後の東武鉄道は伊勢崎線などの本線系統と東上鉄道系統との接続を予定し、「西板線」の建設を計画。これは西新井駅と上板橋駅を結ぶ計画であった。しかし関東大震災の影響などもあり頓挫。西板線は、東武大師線として一部が開業。

前野飛行場
西板線の車両基地・操車場予定地として東武鉄道が買収していた用地は、昭和4年(1929)に前野飛行場(板橋飛行場・遠藤飛行場)として、退役軍人の遠藤辰五郎に貸し出され、東京市内などの遊覧飛行が行われていたが、東武鉄道が西板線計画を撤退し、常盤台住宅地として分譲をすることを決め、昭和8年頃に前野飛行場を廃止。

武蔵常盤駅
常盤台住宅地の分譲地への最寄り駅として、昭和10年(1935)10月20日、武蔵常盤駅として開業。
昭和11年より13年にかけて、「常盤台住宅地」として分譲開始。

常盤台住宅地「板橋の田園調布」
駅前ロータリーから放射状に道路が伸びており、大田区田園調布の町並みと比較されることが多い。
そのため「板橋の田園調布」などとも呼称される。
常盤台住宅地分譲の際、東武鉄道が当時の内務省都市計画課職員小宮賢一の設計を採用。地域を一周する並木道(プロムナード)、袋小路(クルドサック)、道路に沿った緑道(ロードベイ)を配置する設計を行い、日本では先駆的な事例となった。

ときわ台駅
昭和26年に武蔵常盤駅から、ときわ台駅に改称。


ときわ台駅

平成30年(2018)に、北口駅舎のリニューアル工事が完了し、昭和20年の開業時の姿で復元。
開業当時からある青色スペイン瓦の三角屋根や、その下に配された縦長の三連窓、大谷石の表面に幾何学的模様を凹凸で表現した壁面や大谷石貼りの柱脚などを残しつつ、開業当初の塗装色で塗り直しなどを行い、改札上部の欄間のデザインなども再現。

特徴的な三連窓。

昭和10年の開業当時から残る大谷石の壁面・柱脚。


ときわ台駅ギャラリースペース
武蔵常盤小径

常盤台住宅地に関連した11枚のパネルが提示してある。


1935(昭和10)年10月20日、ときわ台駅は「武蔵常盤駅」として産声を上げました。以来、80余年にわたり、地域の発展、そして、時代の浮沈みを感じながら、町のシンボルとして皆さまに愛され続けてまいりました。

このたび、駅舎のリニューアルを記念し、11面のパネルから成るギャラリースペースを設けました。特徴的な青瓦と大谷石、幾何学的意匠の目立つ「ときわ台駅」は、今後も地域のシンボルであり続けます。

なお、パネル製作にあたり、板橋区教育委員会、常盤台の景観を守る会、東武博物館より、貴重な資料を提供いただきましたことに感謝いたします。

平成30年5月
東武鉄道株式会社

常盤台住宅
常盤台住宅は、東武東上線で池袋から5つ目「ときわ台」駅の北側に広がる2万3千余坪の面積を持つ住宅地で、現在の常盤台1丁目、2丁目に当ります。東武鉄道株式会社によって昭和11年度から分譲されました。

街づくり
常盤台アーバンデザインの最大の特徴は、地区内を一周できる環状のプロムナード(散歩道)です。日本では珍しい曲線を多用した街路で、5か所に設けられたクルドサック(袋路)や、プロムナード沿いの3か所にロードベイも用意されました。 

常盤台住宅地建築内規
大正期から昭和戦前期までに開発された郊外住宅地の中には、住環境の保全対策を講じていたものが多くあります。常盤台住宅地にも住環境保全を謳った規制が存在しました。開発主体である東武鉄道が定めた「常盤台住宅地建築内規」です。昭和13年4月には成文化されています、以下にそれを要約します。
 (略)

常盤台住宅販売
(略)

思ひ出の建物

思ひ出の景色

思ひ出の駅

帝都幼稚園
帝都幼稚園付門柱 常盤台1丁目6番
板橋区登録有形文化財(建造物) 登録年月日 平成25年(2013)3月27日

 帝都幼稚園は、昭和11年(1936)に、常盤台住宅地の分譲開始に合わせ、元東京府豊島師範学校教諭で、音楽家であった山本正夫が、帝都学園女学校を開いたことに始まります。

 その後、昭和17年に財団法人帝都学園高等女学校の認可を受けましたが、同21年に起きた漏電事故により校舎の3分の2を焼失し、同26年に高等学校は廃止となりました(なお、その跡地には現在区立常盤台小学校が建っています)。その後は、帝都幼稚園として再出発し、現在にいたります。

 建物調査の結果、現在園舎として使われている建物は、昭和21年の焼失を免れた設立当時の「家事割烹室」や「教育棟」などの建物を移築したものと考えられます。

 当園は、薄緑色に塗装された南京下見の外壁や、セメント瓦による勾配の緩い寄棟造や切妻造の屋根に直線的で幅の狭い破風板が施されているなどの特徴が認められます。また、教室空間を大きくとるために、洋小屋構造などの洋風建築の意匠や構造が採用されるなど、昭和初期の時代性を顕著に現わす近代建築となっています。

 なお、幼稚園正門の門柱は、昭和32年に卒園生一同が寄贈したものですが、当時、南常盤台に住居をかまえていた童画家、武井武雄がその設計に当たっています。 

 帝都幼稚園の園舎は、移築をしているものの、昭和戦前当時の最先端の開発がなされた常盤台住宅地における草創期の姿をとどめる数少ない現存している建造物であり、区の近代の歴史を明らかにする上でも重要な建造物となっています。

※現在も幼稚園として使われており、内部への立ち入り・見学はできません。

おさんぽマップ
(略)

斯波家住宅
常盤台・斯波家住宅 常盤台2丁目13番
板橋区登録有形文化財(建造物) 登録年月日 平成20年(2008)3月27日

 東武東上線ときわ台駅北側の常盤台1丁目・2丁目一帯は、東武鉄道が田園都市づくりをめざし開発された住宅地です。昭和8~13年かけて駅の開発を含めた26万4千平方mに及ぶ区画整理事業がすすめられ、「常盤台住宅地」と呼ばれています。

 近年、建物の老朽化や生活様式の変化にともなう建て替え、相続による土地の細分化等によって開発当初の建物が大変少なくなっています。

 当住宅は、平成16年に、昭和13年(1938)の建築当初の形が維持できなくなる状況となりましたが、当時の所有者は建造物の文化財的価値の重要性を鑑み、建物二階部分と北側一部分を曳家として保存しました。

 当住宅は、建設当初と比較すると、規模は40%に縮小され、位置も同敷地内において移動していま す。しかし、広縁を含む四部屋と屋根は、昭和戦前当時の最先端の開発がなされた常盤台住宅における草創期の姿をとどめており、現存している数少ない建造物となっています。区の近代の歴史を明らかにする上でも大変重要です。

※現在も住居として使われており、内部への立ち入り・見学はできません


帝都幼稚園

昭和11年(1936)の建物が今も使われている幼稚園。

帝都幼稚園付門柱
 帝都幼稚園は、昭和11年(1936)に、常盤台住宅地の分譲開始に合わせて、元東京府豊島師範学校教諭で、音楽家であった山本正夫が、帝都学園女学校を開きました。
 その後、昭和17年に財団法人帝都学園高等女学校の認可を受けましたが、同21年に起きた漏電事故により校舎の3分の2を焼失し、同26年に高等学校は廃止となりました(なお、その跡地には現在区立常盤台小学校が建っています)。その後は、帝都幼稚園として再出発し、現在にいたります。
 建物調査によれば、現在の建物は、昭和21年の焼失を免れた設立当時の「家事割烹室」や「教育棟」などの建物を移築し、使用しているものと考えられます。
 当園は、薄緑色に塗装された南京下見の外壁や、セメント瓦による勾配の緩い寄棟造や切妻造の屋根に直線的で幅の狭い破風板、教室空間を大きくとるために採用された洋小屋構造などの、洋風建築の意匠や構造を取り入れた、昭和初期の時代性を顕著に現わす近代建築です。
 また、幼稚園正門の門柱は、昭和32年に卒園生一同が寄贈したものですが、当時、南常盤台に住居をかまえていた童画家、武井武雄がその設計に当たったものです。
 帝都幼稚園の園舎は、移築をしているものの、昭和戦前当時の最先端の開発がなされた常盤台住宅地における草創期の姿をとどめる数少ない現存している建造物です、また、区の近代の歴史を明らかにする上でも重要な建造物です。平成24年度に登録文化財となりました。 ※内部の見学は不可
  平成26年2月 
   板橋区教育委員会

正門門柱

昭和11年の建造物

帝都幼稚園という、名称に歴史と尊厳を感じさせる。

場所


閉館した板橋区立中央図書館。

板橋区立中央図書館旧館は、1970年に開館。2021年度に解体。
旧館は2020年12月20日閉館。新館は板橋区平和公園内に新築され2021年3月28日開館。

曲線を描くプロムナード。


常盤台・斯波家住宅

板橋区登録有形文化財
常盤台・斯波家住宅

木造二階建・近代和風建築
所在地 常盤台2丁目13番
登録年月日 平成20年3月27日
所有者 (略)

 ときわ台駅北側の常盤台1丁目・2丁目一帯は、東武鉄道が田園都市づくりをめざし、昭和8~13年に駅の開発を含めた26万4千平方mに及ぶ区画整理により造った街で、住宅地は「常盤台住宅地」と呼ばれています。
 しかし近年、建物の老朽化・生活様式の変化に伴う建替えや、相続による土地の細分化等で建築当初の建物が大変少なくなってきました。
 この住宅も、平成16年に建築当初の形を維持できなくなる事態が生じましたが、現所有者は建築物の価値の重要性を鑑み、建物の二階部分と北側一部分とを曳家して保存しました。  
 建築当初と比較すると規模は縮小され、位置も同敷地内にて移動していますが、広縁を含む四部屋が屋根を含めて建設当初のまま残っており、「常盤台住宅」の歴史を伝える上で重要な建造物です。
 平成21年3月
  板橋区教育委員会
  ※現在も居住していますので、内部への立ち入りはできません。

場所

〒174-0071 東京都板橋区常盤台2丁目13−7

常盤台の南に空襲の慰霊碑があるので足を伸ばしてみる。
マンションのの間に鎮座。

平安地蔵

昭和20年6月10日の板橋区内で最大の死者(死者269名)を出した空襲の犠牲者「戦災死没者之霊」を祀る。昭和二十三年六月十日建之。

平安地蔵尊
平安地蔵尊由来
 この地は、大東亜戰争末期の昭和二十年六月十日午前八時半頃、米爆撃機参拾数機の編隊により數百発の爆彈を投下され一瞬にして修羅の巷と化し死者貮百八拾余名を出せり
 ここに戰災死没者永遠の冥福を祈るため地元有志發起人となり昭和二十三年六月十日平安地蔵尊を建立する

平らけく 安ら希く
  世越は 護り座す
 地蔵菩薩の
   誓ひうれしき

伊藤康安撰 長谷川耕南拜書

平安地蔵
 昭和二十年(一九四五)六月十日、午前七時五十五分より約二時間にわたり、この付近一帯はB29による空襲をうけました。『帝都防空本部情報』の記録によると、死者二六九名、重傷者八六名、建物の全壊二六〇戸、投下爆弾(二五〇キログラム級)一一六個、罹災者二、四六七人羅災世帯四九八世帯とあります。区内では最大の死者を出した空襲といわれ、実際にはこの数字より多い被害があったようです。
 戦後、亡くなった人々の供養と再びこの悲劇を繰り返すまいという誓いのもとに昭和二十三年六月十日、地元有志の人々が浄財を集め、おとな、子どもを表す大小の地蔵を造立、平安地蔵と命名しました。太平洋戦争を語る区内では数少ない史跡の一つです。
 平成七年度、板橋区の記念物に登録されました。
  平成九年三月 板橋区教育委員会

場所

※本記事の撮影は2021年2月


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