ロケット戦闘機「秋水」地下燃料貯蔵庫の跡地散策(軍都柏・その5)

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軍都柏の戦跡散策、その5。
柏飛行場の東側に展開していた「地下燃料貯蔵庫」の名残を探しに。
この日は、柏の葉キャンパス駅で自転車を借りて、飛行場を中心に自転車散策を敢行しました。

柏の戦跡を代表するのが、秋水燃料貯蔵庫、だろう。地上に突き出た通気孔のインパクトがあまりにも大きい。私もかねてから、現地を訪れたくてウズウズしていたが、今回ようやくに足を運ぶことができた。


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ロケット局地戦闘機「秋水」

秋水

日本海軍と日本陸軍が共同で開発をすすめたロケット局地戦闘機(十九試局地戦闘機)。ドイツ空軍のメッサーシュミットMe163をベースに試作された。
試製秋水海軍略称はJ8M陸軍キ番号はキ200
「秋水」の呼称は、陸海軍の命名規則に沿っていない例外的命名。

画像出典:https://commons.wikimedia.org/wiki/File:J8M_Shusui_Sword_Stroke_Komet_J8M-10.jpg

高度1万メートル以上を飛来するアメリカ軍のボーイングB-29の邀撃に、日本陸海軍の従来のレシプロ戦闘機では高高度を維持することは極めて困難であった。
ロケット戦闘機は、酸化剤と燃料を全て機体内部に搭載し、酸素を外気に求めない=高高度の希薄な大気に影響されない特性を持つことから、邀撃機としてB-29の飛行高度まで加速度的に達し、1撃から2撃をかけるだけならば、設計上、数分の飛行時間しかない、当時のロケット戦闘機でも「局地的な防衛には十分に有効」との判断が下された。
そこで、ドイツから提供されたMe163Bの(資料を輸送していた潜水艦の撃沈によって不完全となってしまった)設計資料をベースに急ピッチで開発が推進。

この秋水プロジェクトに関しては、陸軍・海軍の枠を超えた、陸海軍民間共同の制作体制が整ったということは、当時の状況からすれば奇跡的なことであった。逆に言うと、陸海軍の意地を張る余裕もないほどにで日本は追い詰められていた状況であった。
機体の製作を海軍・海軍航空技術廠主導で、国産ロケットエンジンの開発を陸軍・陸軍航空技術研究所が主導、製造を三菱重工で実施。陸海民の連携であった。

秋水に搭載されるエンジン「特呂二号」の燃料は、2つの液体を化学反応させるものであった。
 酸化剤:濃度80%の過酸化水素、オキシキノリン・ピロリン酸ソーダ
 混合液:メタノール、水化ヒドラジン、水、銅シアン化カリウム
日本軍では前者を「甲液」、後者を「乙液」と呼称。(ドイツではT液とC液)
甲液の供給する酸素により燃料である乙液を燃焼させるシステムであるが、酸化剤(甲)と燃料(乙)の配合はデリケートなセッティングが要求され、また取り扱いが非常に難しい危険な劇薬でもあった。

昭和20年7月7日に、横須賀海軍航空隊追浜飛行場試製秋水(三菱第201号機)は試飛行するもエンジントラブルで墜落、テストパイロットの海軍三一二航空隊の犬塚豊彦大尉(海軍兵学校七十期)は殉職。

試製秋水生産2号機(三菱第302号機)が陸軍キ200として柏飛行場の飛行第70戦隊へ運搬され試験開始。しかしロケットエンジンが間に合わずに動力飛行を行うことができず、そのまま終戦を迎えた。

試作機製造とあわせて量産の準備も進んでいた秋水は、配備のための燃料タンクの準備も進められた。柏飛行場の地下燃料貯蔵庫も秋水配備のための準備であった。

秋水は、陸海軍共同開発機のため、それぞれに配備計画があった。
陸軍は、柏飛行場の「飛行第七〇戦隊」
海軍は、百里原飛行場の「第三一二海軍航空隊」
陸軍海軍ともに、秋水の実験部隊も兼ねていた。

以下の写真は、筑波海軍航空隊記念館の展示品。
陶器製燃料タンクは左が陸軍、右の錨印が海軍。

平成28年3月6日撮影 筑波海軍航空隊記念館が中心。 筑波海軍航空隊記念館(司令部庁舎) かえり雲(流政之さん)号令台慰霊碑滑...
平成28年6月撮影 位置関係 野島(掩体壕)夏島(掩体壕・地下壕)貝山(海軍航空発祥之地記念碑・甲種予科練鎮魂之碑・...
平成29年7月 平成29年7月30日。 茨城空港(百里基地)の近くに残されている「百里原海軍航空基地」の跡を偲びに脚を運んでみました...

位置関係

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-R393-117
昭和22年(1947年)10月23日、米軍撮影の航空写真を一部加工。


軍都「柏」

軍都柏とも軍郷柏とも称されることになった、千葉県柏市。
柏飛行場をはじめとし、多くの軍事施設が集まる地となっていた。

柏飛行場
昭和12年(1937)6月、近衛師団経理部は東葛飾郡田中村十余二に陸軍の新飛行場を建設する旨を決定。
昭和13年11月に「陸軍柏飛行場」(東部第105部隊)が完成。東京立川から「飛行第五戦隊」が移転してきたことにより、柏飛行場は、帝都防空の航空基地となり、軍都としての歩みもここからはじまった。

昭和20年4月には、ロケット推進戦闘機「秋水」開発のための陸軍の特殊部隊、陸軍航空審査部特兵隊が柏飛行場に進出。柏には、秋水の燃料貯蔵庫なども設けられた。

高射砲部隊
昭和12年10月、「飛行部隊」とは別に、帝都防空のもう一つの主役として「高射砲部隊」が千葉県市川市国府台に高射砲第二連隊が新設。
昭和13年11月に柏飛行場の完成とあわせて、柏(富勢)に「高射砲第二連隊」も移動。帝都防空の一翼を担うとともに、東葛地域の飛行場の防御も担当した。
昭和16年に東京に「高射砲第二連隊」主力が移動。その後、 高射砲第二連隊 の跡地には留守近衛第二師団の歩兵・工兵補充隊が駐留し、昭和20年に東京師管区第二補充隊(東部八三部隊)と同近衛工兵補充隊(東部一四部隊)となった。

その他
昭和12年11月、東京憲兵隊市川分隊柏分遣隊開設

昭和14年2月、第4航空教育隊(東部第102部隊)が開設。飛行機の整備に関する訓練や教育を担当した。
昭和14年4月、陸軍航空廠立川支廠柏分廠も開設され、飛行場に配備されていた飛行機や車両の整備・点検を行う補給機関を担った。
同じ 昭和14年4月には、陸軍柏病院が開設。
昭和20年6月には柏(鎌ヶ谷)に、陸軍藤ヶ谷飛行場が完成している。現在の海自下総航空基地となる。
また、昭和18年11月には、柏陸軍墓地忠霊塔も建設された。

ーーー

ファイル: USA-M29-58
昭和24年(1947年)2月8日、米軍撮影の航空写真を一部加工。

軍都柏の主要軍事施設を記載しておく。


ロケット戦闘機「秋水」地下燃料貯蔵庫(花野井)

柏警察署花野井交番の奥の住宅地におもむろにあらわれたコンクリート造形物。
コンクリート胴体が地下燃料貯蔵庫。現在は地上に露出しており、出入り口は塞がれている。

場所

「秋水」地下燃料貯蔵庫の出入口(花野井)

北上する。
台地の下には地下燃料庫が隠されている。台地縁辺には燃料庫出入口がいくつか見られる。3箇所は確認できた。

1つ目。

2つ目。むき出してる。近くで見てみたいが私有地のために近寄れず。

3つ目。わかりにくい。。。

「秋水」地下燃料貯蔵庫の通気孔(花野井)

畑に唐突にあらわれるコンクリート筒。連なる砲台のように見えるこの筒が、地下燃料貯蔵庫の通気孔であった。これは貴重な戦跡。地下の貯蔵庫とあわせてぜひとも史跡公園などに整備していただけると良いのだが、現実的にはいまのままの自然な保存が良いのかもしない。後世に残してほしい、いや、後世に残していかねばならない空間。

場所


柏飛行場の近くにも、秋水の燃料庫があった。柏飛行場は別記事でまとめるが、先に柏飛行場近くの燃料庫にもあわせて言及しておく。

ロケット戦闘機「秋水」燃料貯蔵庫(正連寺)

こんぶくろ池自然博物公園の南東側(一号近隣公園エリア)内にある、一号丘と二号丘に燃料庫が保存されている(現在は埋没保存のため、燃料庫そのものをみることはできない)

陸軍柏飛行場と秋水
 日中戦争(1937・昭和12年~)の開戦前夜から、帝都・東京の空を守る施設が東京周辺に建設され始めました。東京都心から30キロメートル圏にある柏でも、1938(昭和13)年11月頃、陸軍飛行場が完成しました。
 柏飛行場は第一線の飛行場でしたが、神奈川県の厚木飛行場とともに、有人ロケット戦闘機「秋水」の基地に予定されたことが特徴の一つです。秋水は、ドイツで開発されたロケット戦闘機をモデルに、B29迎撃用の新兵器として、陸海軍共同で開発されました。1944(昭和19)年夏から始まった開発は急ピッチで進み、年末には訓練用の軽滑空機「秋草」のパイロット訓練にこぎつけました。しかし、完成前に配線となり、柏飛行場にあった軽滑空機・重滑空機・実機の計4機とも、すべて燃やされてしまいました。
 秋水の燃料庫は柏市内の「飛行場隣接地」と。3~4キロメートル離れた「花野井・大室」に建設されました。まず飛行場東側の隣接地に、1944(昭和19)年末から建設。その地域が柏ゴルフ倶楽部(1961~2001年)となり、コンクリート製だったために、一部がコース小丘に埋められて破壊されず現在に至りました。
 図①内の赤丸が現在地で、2010年に柏歴史クラブが燃料庫5基を発見しました。公園内に保存されているのは、そのうち3基で、秋水の遺構は全国的に見ても少なく、大変貴重な戦争遺跡です。(ただし3号基は本体なし)

秋水燃料庫(1号基)
 柏飛行場東側の隣接地に造られた秋水燃料庫は、航空写真②のようにエル字型をしていました。飛行場隣接地では飛行訓練のため急いで燃料庫を造る必要があり、1944(昭和19)年末から、既製のヒューム管(下水道管)を利用・加工して建設されました。ヒューム管の長さは約2メートルで、9~10個つないだ燃料保管場所が、エル字の長い部分にあたります(柴田一哉氏)。
 この1号基は、戦時中と少し位置が変わって埋まっていました。写真①の「リング状の遺構」は、もともとは「煙突状の遺構」の上にあり、両者はつながっていました。柏ゴルフ倶楽部を造成するときに、コースに設ける丘の高さを調整するため、「リング状の遺構」を移動させたと思われます。
 柏歴史クラブは2010年の調査で、5か所の燃料庫跡を発見しました。そのうち1~3号基は、こんぶくろ自然博物公園内にあったため、柏市で保存してくれることとなり、一旦埋め戻されました。4・5号基は開発地域内にあったため、残念ながら撤去されました。

秋水燃料庫(2号基)
 この2号基は、戦時中の構造がそのまま残っている燃料庫で、柏市により保存、整備したうえで公開される予定です。
 柏飛行場東側の隣接地に造られた秋水燃料庫は、航空写真③のようにエル字型をしていました。柏市には、現在の地の「飛行場隣接地」と、3~4キロメートル離れた「花野井・大室」に燃料庫が建設されました。飛行場隣接地では、飛行訓練のため、急いで燃料庫を造る必要があり、1944(昭和19)年末から、既製のヒューム管(下水道管)を利用・加工して建設されました。ヒューム管の長さは約2メートルで、9~10個つないだ燃料保管場所が、エル字の長い部分にあたります(柴田一哉氏)。そこには写真④のように両側に店があり、過酸化水素20リットルを入れたガラス瓶(写真⑤)を並べて保管しました。
 また先端部分に、リング状の遺構が出土しました。このリングは、円筒状の消火用貯水槽の底部だったと思われます。その貯水槽とヒューム管は管でつながれ、過酸化水素の流出や火災の場合などに大量の水を流す仕組みでした。

現在地は森の中、立入禁止。丘の中に埋没保存されている。

場所

柏飛行場の記事等は、別途。

※撮影は2021年7月


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