「戦争に負けて外交に勝つ」吉田茂

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吉田茂像と吉田茂墓を巡ってみましたので、以下に掲載を。大磯の吉田茂邸は未訪問。


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吉田茂

言わずと知れた吉田茂。
1878年〈明治11年〉9月22日 – 1967年〈昭和42年〉10月20日)
日本の外交官、政治家。位階は従一位。勲等は大勲位。
外務大臣(第73・74・75・78・79代)、貴族院議員(勅選議員)、内閣総理大臣(第45・48・49・50・51代)、第一復員大臣(第2代)、第二復員大臣(第2代)、農林大臣(第5代)、衆議院議員(当選7回)、皇學館大学総長(初代)、二松学舎大学舎長(第5代)などを歴任。

戦前は、外交官として陸軍と対立。
吉田茂は親英米派として戦前から開戦回避を図り、開戦後も岳父であった牧野伸顕、元首相の近衛文麿、外務次官時代の上司であった幣原喜重郎や鳩山一郎、西園寺公望秘書の原田熊雄、米内光政らの海軍穏健派とネットワークを構築し、東條内閣倒閣運動や戦争終結工作などを進めていた。

吉田茂は近衛文麿と協議し、「近衛上奏文」を作成。近衛文麿が参内の際に 昭和天皇に戦争の早期終結の訴える上奏を実施。
しかし吉田茂の動きを 「 ヨハンセングループ 」としてマークしていた憲兵隊は、吉田茂の身元にスパイを送り込んでおり、上奏文の写しを入手し「造言飛語罪」として昭和20年4月に吉田茂を逮捕。
ちなみに 「 ヨハンセングループ 」 とは首謀者であった吉田茂の「吉田反戦」(しだはんせん)の意味をもった憲兵隊当局の符丁(暗号)。
しかし、吉田茂の容疑を立証することができず、親交のあった阿南惟幾陸相の裁断により吉田茂は不起訴処分として釈放された。
このときに投獄されたことが、「反軍部」の象徴となり、戦後はGHQの信用を得たきっかけにもなっている。

戦後は東久邇宮内閣・幣原喜重郎内閣で外務大臣に就任。鳩山一郎が公職追放されたあとに、昭和21年5月に、第一次吉田内閣として総理大臣に就任。大日本帝国憲法下での 天皇陛下組閣命令下での最後の首相。選挙を経ていない国会議員(貴族院議員)としも最期の首相であった。
戦後日本の礎を築いた吉田茂は、 和製チャーチルとも称された 。

昭和26年9月8日、吉田茂首相はサンフランシスコ平和条約(日本国との平和条約)を締結。第二次世界大戦・太平洋戦争後に関連して連合国諸国と日本との間に締結された平和条約となり、この条約を批准した連合国は日本国の主権を承認した。そして国際法上、この条約により日本と多くの連合国との間の「戦争状態」が終結した。


吉田茂像

北の丸公園の一角に、吉田茂像が建立されている。北の丸公園の清水門近く。
昭和53年に吉田茂生誕百年を記念して記念事業実行委員会が各界から寄付を募って昭和56年に閣議の了解を得え建立されたものという。

吉田茂像は、東京以外には、高知や大磯にもあるというが未見。

吉田茂

吉田茂像碑文
「昭和の黒幕」と称された、安岡正篤氏が作文なされたのが趣深い。

吉田茂
古来各國史上名相賢宰星羅照映スト雖モ昭和曠古ノ大戦ニ社稷傾覆生民塗炭ノ苦悩ニ方リ萬世ノ為ニ太平ヲ開クノ聖旨ヲ奉シ内外ノ輿望ヲ負ウテ剛明事ニ任シ慷慨敢言英邁洒落能ク人材ヲ舉用シ民心ヲ鼓舞シ以テ復興ノ大義ニ盡瘁セシコト公ノ如キハ實ニ稀代ノ偉勲ト謂フベシ
後人相謀ツテ茲ニ厥ノ像ヲ建テ長ク高風ヲ仰カント欲ス亦善イ哉
昭和五十六年九月
 船越保武 作
 安岡正篤 文
 桑原翠邦 書

木々に囲まれた吉田茂像は、ノンビリとした穏やかな空間の中に佇んでいた。

吉田茂といえば、ステッキですね。

※吉田茂像の撮影は2021年5月


吉田茂之墓
(久保山墓地)

横浜の久保山墓地に眠っている。
昭和42年(1967)10月20日、大磯の自邸で死去。享年90(満89歳没)。
10月31日に戦後初の国葬が執り行われた。
戒名は叡光院殿徹誉明徳素匯大居士。
遺骨は、当所は青山霊園の一角において娘婿の麻生太賀吉らと並んで葬られたが、2011年に神奈川県横浜市の久保山墓地に改葬された。久保山墓地には、吉田家一族の墓もある。

吉田茂之墓

昭和42年10月20日薨

明治42年(1909)に牧野伸顕の長女雪子と結婚。
昭和16年(1941)10月、日米関係が悪化するさなかで、吉田茂夫人の吉田雪子は51歳で死去。

吉田雪子之墓


吉田健三之墓
吉田健一之墓
(久保山墓地)

同じく、横浜の久保山墓地に吉田茂一族の墓がある。吉田茂の墓とはだいぶ離れている。
もっとも吉田茂の墓が久保山に改装されたのが2011年と最近ではあるが。

吉田健三之墓・吉田士子之墓

吉田茂の養父。吉田茂は吉田健三の養子であった。
吉田健三は越前福井藩士であったが、実業家として成功し、横浜有数の富豪であった。
吉田茂の実父、竹内綱とは昵懇の間柄であり、1881年(明治14)に、実子に恵まれなかった吉田健三は、竹内綱の五男の茂を養嗣子とした。
吉田健三は40歳で急死し、吉田茂は11歳で、莫大な遺産とともに吉田家を継いだ。
吉田士子(ことこ)は、吉田健三の儒学者佐藤一斎の孫。吉田茂の養母。

吉田健一之墓

吉田茂の長男。
1912年(明治45年)4月1日 – 1977年(昭和52年)8月3日)
日本の文芸評論家、英文学翻訳家、小説家。
父は吉田茂、母・雪子は牧野伸顕(内大臣)の娘で、大久保利通の曾孫にあたる。吉田健三の養孫。

吉田茂の長男ではあるが、吉田茂の墓とは一緒ではなく、養祖父の吉田健三と一緒の墓地。
吉田健一の母親であった吉田雪子の死去、父の吉田茂が新橋の芸者であった喜代子を事実上の後妻として迎えたことに反発があった、とも。

久保山墓地からは、横浜ランドマークタワーが望める。

吉田健一之墓から、吉田茂之墓の方向を望む。

灯籠から覗くと、この位置に「吉田茂・吉田雪子」の墓がある。
吉田健一の両親の墓。

吉田健三君碑

明治24年建立。

※久保山墓地の撮影は2021年3月


以下は、場所は変わって青山霊園。
※青山霊園の撮影は2021年5月


麻生太賀吉之墓
麻生和子之墓
(青山霊園)

青山霊園にて。
麻生和子は、吉田茂の三女。
麻生太賀吉は、実業家・麻生セメント会長。

麻生太賀吉と麻生和子の長男が、麻生太郎。三女は、寬仁親王妃信子様。

麻生和子は、1951年(昭和26年)9月8日のサンフランシスコ講和条約締結の会議に、総理大臣の父・吉田茂の私設秘書として随行している。そして、1967年(昭和42年)10月20日、吉田茂の死を看取っている。

麻生太賀吉之墓・麻生和子之墓の隣が更地になっている。
久保山墓地に改装される前、青山霊園時代は、この場所に吉田茂之墓があった。


牧野伸顕夫妻之墓
(青山霊園)

同じく青山霊園に牧野伸顕の墓がある。
吉田茂夫人であった吉田雪子は、牧野伸顕の長女、であった。

牧野伸顕から見ると、大久保利通は父、吉田茂は娘婿、寬仁親王妃信子と麻生太郎は曾孫にあたる。
そして、牧野伸顕夫人の牧野峰子は、三島通庸の次女であった。

大久保利通之墓
(青山霊園)

牧野伸顕は大久保利通の次男であった。

三島通庸之墓
(青山霊園)

牧野伸顕夫人の牧野峰子は、三島通庸の次女であった。

明治の偉人は、青山霊園に集中している。青山霊園はまだまだ参拝しきれていないが、それはまた別記事にて。


吉田茂記念資料特別展示場

外務省外交史料館別館は、吉田茂記念資料特別展示場も設けられており、一見の価値あり。
ただし、基本開館は平日のみ、、、

※ 吉田茂記念資料特別展示場の撮影は2015年9月

平成27年 この年(平成27年・2015年)は戦後70年目の節目でした。昭和20年9月2日。第二次世界大戦での日本の降伏調印。日本帝...

昭和26年9月8日、サンフランシスコ平和条約で吉田茂全権が読み上げた対日平和条約受諾演説の原稿はまるでトイレットペーパーだと称された。

日米安全保障条約に、吉田茂は同じく昭和26年9月8日調印している。

吉田茂のパスポートは、サンフランシスコ講和会議に首席全権として参加のために発行されたもので、戦後発行第一号のパスポート。

吉田茂のステッキ
昭和40年に米寿祝いとして御下賜された鳩杖。吉田茂遺品として展示されている。

外交史料館別館
開館は、月曜日から金曜日の10時~17時30分。


大磯にも行かねば・・・(まだ行っていないので宿題)

旧吉田茂邸は戦後の内閣総理大臣を務めた吉田茂(1878-1967) が暮らしていた邸宅です。もとは明治17年(1884) に吉田茂の養父・吉田健三が土地を購入し、別荘を建てたのがはじまりです。養父亡きあと吉田茂が邸宅を引き継ぎました。昭和20 年(1945) より大磯の邸宅を本邸とし、晩年を過ごしました...

吉田茂関連

「七士之碑」は吉田茂の謹書。
吉田茂は、広田弘毅の外交官時代の同期でもあった。

静岡県熱海市伊豆山。太平洋を望む風光明媚な伊豆山鳴沢山の中腹。陸軍大将 松井岩根が願主となって支那事変戦歿者を「怨親平等」わけへだてなしに...

近衛文麿の荻外荘。戦後の一時期、吉田茂が居住していたこともあった。
吉田茂が首謀であったヨハンセングループは、近衛文麿が昭和20年2月に上奏した「近衛上奏文」にも関わりがあった。

平成30年撮影 現在、杉並区によって「荻外荘公園」として再整備中。豊島区に移築されている建物( 荻外荘の一部 )も、杉並区に...

昭和26年10月。
吉田茂内閣直属の「秘密組織」として「海軍再建」を検討した組織がY委員会。

Y委員会での検討がすすみ、結果として1952年(昭和27年)には第3次吉田内閣の下で、より軍事組織に近い海上警備隊(沿岸警備隊)が海上保安庁附属機関として組織。その後まもなく「海上警備隊」として海保より分離され、これが後の「海上自衛隊」となった

横須賀田浦海自第2術科学校(2術校) 一般公開・オープンスクール(平成28年9月) 海自第2術科学校一般公開 9月10...

特攻観音堂
門標 「世田谷山観音寺」、石碑「世界平和の礎」は、吉田茂の謹書となる。

(特攻観音堂は平成30年5月撮影 ) 世田谷観音 (世田谷山観音寺) 江戸三十三観音第32番札所 昭和26年...

久保山火葬場では、吉田茂の外交官同期であった広田弘毅を始めとする七士の火葬が行われた。

東京裁判と殉国七士 巣鴨プリズン昭和23年(1948年)12月23日、 当時、皇太子であった 上皇陛下の15歳の誕生日であった。12...

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