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「帝国海軍きっての知性」最後の海軍大将・井上成美

井上成美海軍大将。
日本帝国海軍史上、最後に海軍大将に昇進した軍人は二人いた。
ひとりは、塚原二四三、そしてもうひとりが井上成美、であった。


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井上成美(いのうえ・しげよし)

1889年〈明治22年〉12月9日 – 1975年〈昭和50年〉12月15日
日本帝国海軍の海軍大将。

海軍兵学校第37期。
卒業順位は2位であったが、明治43年(1910)に海軍少尉に任命され最先任者(クラスヘッド)となる。
通常は同期生は揃って少尉任官するものであるが、第37期のみは唯一、任官が揃わなかった。37期席順1位の小林万一郎は病気のために任官が遅れ、そのために2番の井上成美がクラスヘッドとなている。
兵37期は、井上成美が大将となったほかは、大川内傳七・ 小沢治三郎・ 草鹿任一などが中将となっている。

昭和4年、海軍大佐に任命。
昭和5年、海軍大学校教官。
昭和7年、海軍軍務局第一課長。
昭和8年、練習戦艦「比叡」艦長に就任。
昭和10年、海軍少将に任命。横須賀鎮守府参謀長に就任。横須賀鎮守府長官は米内光政。二・二六事件を対処。
昭和12年、海軍省軍務局長に就任。米内光政が海軍大臣、山本五十六が海軍次官。米内光政・山本五十六・井上成美の三人を「海軍省の左派トリオ」「海軍左派三羽烏」などと称した。
米内・山本・井上の海軍省は日独伊三国同盟に反対するも時勢の流れは変えることはできなかった。
昭和14年、支那方面艦隊参謀長に就任。海軍中将に任命。支那方面艦隊司令長官は嶋田繁太郎中将。
昭和15年、海軍航空本部長に就任。このときの海軍大臣は及川古志郎。

昭和16年(1941)、第四艦隊司令長官(4F長官)に親補される。トラック「夏島」を拠点とする第四艦隊旗艦は「鹿島」。
昭和16年 12月8日に太平洋戦争が開戦。第四艦隊は第一段作戦において、ウェーク島攻略を担当。第一回の攻撃(12月11日)は、大発動艇の発進に手間取るうちに夜明けとなり、陸上砲台と残存航空部隊の反撃により駆逐艦2隻(疾風、如月)を喪失して失敗。真珠湾攻撃から帰投する途中の南雲機動部隊から分派された(重巡2、空母2(蒼龍・飛竜、駆逐艦2)の協力で、同島上空の制空権を確保しての第二回攻撃(12月23日)を」行い攻略に成功。

昭和17年5月7日、第四艦隊(南洋部隊)はMO作戦を担当し、珊瑚海海戦が発生。空母「祥鳳」を失い、「戦下手」を自認することとなる。
7月、海軍料亭「小松」の支店がトラック島に開業。これは、井上が横須賀で「小松」を経営する山本直枝夫婦に出店を依頼したものであった。(敗戦時にトラック島の小松は消滅し、女子従業員6名が犠牲となり、井上は戦後、小松に謝罪をしている)

昭和17年10月、海軍兵学校長に就任。トラックから内地に帰還。英語教育廃止論を退け、「自国語しか話せない海軍士官などは、世界中どこへ行ったって通用せぬ。」として英語教育を推進。

昭和19年7月、サイパン失陥により東條内閣は崩壊。予備役であった米内光政が現役に復帰し、小磯内閣副総理格で海軍大臣に就任。米内光政海軍大臣の懇請で井上成美は海軍次官に就任。海軍省人事局の高木惣吉少将を、海軍省出仕とし、米内ー井上ー高木のラインで、終戦のための研究・海軍の終戦工作が行われた。

昭和20年5月15日、海軍大将に親任され海軍次官を免じ、軍事参議官に親補された。
昭和20年8月10日、ポツダム宣言を受諾。
井上成美海軍大将は、海軍での最後の仕事として9月10日付けで司令官宇垣纏を失った第五航空艦隊の「査閲」を実施し、各基地において終戦処理を推進し、帝国海軍の有終の美を飾るように説いて回った。
昭和20年10月15日、予備役となり39年間の海軍生活を終えた。満55歳であった。

戦後は、横須賀長井に隠棲し、近所の子供達に、得意の英語を教えるなどして余生を過ごしていたが困窮していた。戦前は海軍料亭として賑わっていた料亭「小松」の山本直枝も、井上の支援を行い、小松従業員に英語指導を依頼するなどして、井上の生活を支えていた。

1975年(昭和50年)12月15日午後5時過ぎに老衰で死去。86歳没。
最期の言葉は、「海が…、江田島へ…」だったという。


井上成美墓

多磨霊園に眠る。場所は21区1種3側。

井上成美
ここに眠る

1889-1975
 井上成美伝記刊行会

合掌

井上家家之墓

昭和13年5月
 井上秀二建之

井上秀二は井上家の長兄。土木技師。
井上家は13人兄弟(12男1女)であり、夭折などもあり事実上の長男が4男の秀二であった。井上成美は11男。

墓誌

父、井上嘉矩や成美の最初の妻であった井上喜久代、最後を看取った二番目の妻である井上富士子、兄である井上秀二などの名が刻まれている。

つまり、井上本家(井上秀二)の墓に、弟の井上成美と二人の妻も一緒に眠っているということになる。

場所

※参拝・撮影は2021年9月


井上成美旧宅(井上成美記念館・閉館)

かつての井上成美邸宅は、損傷が激しかったために改装がおこなわれており、井上が住んでいた頃の名残をとどめるのは、暖炉などの一部だけとなっている。
小規模ながら「井上成美記念館」として公開されていたが、東日本大震災の被害により閉館。現在に至る。

閉館中のため、敷地外より遠望。敷地内は立入禁止。

井上記念館は
閉館
しました!

ここが井上成美記念館であった、わずかな証。

今も昔も、井上提督が愛した海を望む高台。窓から見える風景は変わっていないという。

場所


※撮影は2018年8月

昔の写真が出てきました。以下は2009年の撮影。。。

このときもすでに閉館でしたが。


軍艦鹿島 有終之碑

呉海軍墓地にて。
井上成美は、太平洋戦争開戦時に、第四艦隊司令長官であった。
「鹿島」は、開戦時はトラック泊地で南洋部隊の全作戦を指揮する第四艦隊の旗艦を務める。

関連

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※撮影は2017年3月


料亭 小松

全焼する前に来たかった場所でした・・・

海軍料亭「小松」
平成28年(2016)5月16日、火災により全焼。
板塀と看板が残る空間が苦しい…

横須賀の海軍ゆかりの料亭「小松」の母屋から出火、正面左手の奥「松風の間」を残し、木造母屋全焼…
海軍提督の書、あるいは海軍、海自からの記念品は、残念ながらほとんど焼損してしまった。

井上成美は、小松の女将・山本直枝とは親しく、山本直枝は、困窮する戦後の井上成美を支えた一人でもあった。

場所

※撮影は2018年4月


井上成美
井上成美伝記刊行会

井上成美の伝記。1982年刊行。

題字は、井上成美の筆。

海軍中将時代の井上成美。
自ら進級に反対していたため、海軍大将として独りで撮影された写真は無い。

横須賀鎮守府時代。
鎮守府長官は米内光政。参謀長が井上成美。


井上成美の肉声

海自第2術科学校には井上成美の肉声テープが保管されている。

2術校では、機関、電機、応急工作等及び情報、技術、電子計算機、外国語といった特殊な部門の専門教育や、調査研究を行っています。

海自第2術科学校、オープンスクール。

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海上自衛隊第2術科学校オープンスクール(2019年)

海自第二術科学校の「井上成美」公開講座が2019年にありました。

「井上成美のしおり」を戴きました。
挟むべき「本」を迷います・・・

偲ぶ
IN LOVING MEMORY OF
May He Rest In God’s Loving Arms
海軍大将 
井上成美
1889年12月9日~1975年12月15日(86歳)

英語教育廃止論を退けた人

明治22年 仙台市に出生
明治42年 海軍兵学校卒業
昭和 2年 イタリア駐在武官
昭和10年 横須賀鎮守府参謀長
昭和12年 海軍省軍務局長
昭和17年 海軍兵学校長
昭和19年 海軍次官
昭和20年 海軍大将、軍事参事官
8月終戦  横須賀市長井の自宅に隠棲後英語塾を始める
昭和50年12月15日 長井の自宅で死去

日本海軍きっての知性といわれた最後の海軍大将。
戦後30年間、清貧を貫いて逝ったこの人の先見性、識見の高さ、事績の正しさは歴史が証明した。
敗戦前夜一億玉砕を避けるべく終戦工作に身命を賭した井上成美だった。
開戦前、米内光政、山本五十六とともに日独伊三国同盟に反対し、無謀な対米戦争回避を主張、戦時下にあっては兵学校長として英語教育廃止論を退ける等、時流に抗して将来を見通す全人教育を目指した。
 阿川弘之

井上成美が艦長を務めた練習戦艦「比叡」


二・二六事件と井上成美

井上成美が横須賀鎮守府参謀長の際に、二・二六事件が勃発。
米内井上コンビが横須賀から陸軍に対抗する。

「二・二六事件と海軍」

平成29年2月投稿 突然ではございますが、なんとなく表題の件「二・二六事件と海軍」と題して、かなりざっくりとまとめてみたいと思います...

小沢治三郎(小澤治三郎)

小沢 治三郎(小澤 治三郎, おざわ じさぶろう)
1886年(明治19年)10月2日 – 1966年(昭和41年)11月9日)
日本の海軍軍人。最終階級は海軍中将。
第31代となる最後の連合艦隊司令長官を務めた。

海軍兵学校37期生。卒業順位は45番。 井上成美と同期。

平成30年5月撮影 世田谷の寺院に眠る海軍軍人の墓詣でをしていることに気がついたので、以下に記録しておきたいと思います。 浄真...

塚原二四三

塚原 二四三 (つかはら にしぞう)
1887年(明治20年)4月3日 – 1966年(昭和41年)3月6日)
日本の海軍軍人。海兵36期・海大18期。最終階級は海軍大将。
日本海軍で最後に大将に昇進したのが、井上成美と塚原二四三の二人であった。

墓は井上成美と同じく多磨霊園にある。


阿川弘之

「井上成美」
昭和五十年暮、最後の元海軍大将が逝った。帝国海軍きっての知性といわれた井上成美である。彼は、終始無謀な対米戦争に批判的で、兵学校校長時代は英語教育廃止論をしりぞけ、敗戦前夜は一億玉砕を避けるべく終戦工作に身命を賭し、戦後は近所の子供たちに英語を教えながら清貧の生活を貫いた。「山本五十六」「米内光政」に続く、著者のライフワーク海軍提督三部作完結編。

昭和五十年暮、最後の元海軍大将が逝った。帝国海軍きっての知性といわれた井上成美である。彼は、終始無謀な対米戦争に批判的で、兵学校校長時代は英語教育廃止論をしりぞけ、敗戦前夜は一億玉砕を避けるべく終戦工作に身命を賭し、戦後は近所の子供たちに英語を教えながら清貧の生活を貫いた。「山本五十六」「米内光政」に続く、著者のライフ...
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