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「はじまりの日」昭和16年12月8日(太平洋戦争開戦の日)

80年前の節目を偲び、先人たちの生き様に想いを馳せる。
また、この日がやってくる。

はじまりの日。

大東亜戦争に散りし英霊たちに… 感謝を。 哀悼を。

憂国の想いを胸に抱き英霊に感謝する。
素晴らしき祖国・日本の為に、未曾有の国難に殉じた英霊に哀悼の誠を捧げ、今日の我が国の安泰と繁栄に感謝する。

12月8日。


忘れてはいけない「節目の日」。


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昭和16年12月
「ヒノデハヤマガタ」(陸軍)
「ニイタカヤマノボレ一二〇八」(海軍)

開戦の詔勅に先立つ12月1日に開戦を決意する「帝國國策遂行要領」が可決。
翌日12月2日には開戦日を伝える、「ヒノデハヤマガタ」(陸軍)「ニイタカヤマノボレ一二〇八」(海軍)が発令。


昭和16年12月8日
対米英宣戦の詔勅(米國及英國ニ對スル宣戰ノ詔書)

昭和16年12月8日。
「米國及英國ニ對スル宣戰ノ詔書」(開戦の詔勅)が公布。

米國及英國ニ對スル宣戰ノ詔書
天佑ヲ保有シ萬世一系ノ皇祚ヲ踐メル大日本帝國天皇ハ昭ニ忠誠勇武ナル汝有衆ニ示ス
朕茲に米國及英國ニ對シテ戰ヲ宣ス朕カ陸海將兵ハ全力ヲ奮テ交戰ニ從事シ朕カ百僚有司ハ勵精職務ヲ奉行シ朕カ衆庶ハ各々其ノ本分ヲ盡シ億兆一心國家ノ總力ヲ擧ケテ征戰ノ目的ヲ達成スルニ遺算ナカラムコトヲ期セヨ
抑々東亞ノ安定ヲ確保シ以テ世界ノ平和ニ寄與スルハ丕顯ナル皇祖考丕承ナル皇考ノ作述セル遠猷ニシテ朕カ拳々措カサル所而シテ列國トノ交誼ヲ篤クシ萬邦共榮ノ樂ヲ偕ニスルハ之亦帝國カ常ニ國交ノ要義ト爲ス所ナリ今ヤ不幸ニシテ米英兩國ト釁端ヲ開クニ至ル洵ニ已ムヲ得サルモノアリ豈朕カ志ナラムヤ中華民國政府曩ニ帝國ノ眞意ヲ解セス濫ニ事ヲ構ヘテ東亞ノ平和ヲ攪亂シ遂ニ帝國ヲシテ干戈ヲ執ルニ至ラシメ茲ニ四年有餘ヲ經タリ幸ニ國民政府更新スルアリ帝國ハ之ト善隣ノ誼ヲ結ヒ相提攜スルニ至レルモ重慶ニ殘存スル政權ハ米英ノ庇蔭ヲ恃ミテ兄弟尚未タ牆ニ鬩クヲ悛メス米英兩國ハ殘存政權ヲ支援シテ東亞ノ禍亂ヲ助長シ平和ノ美名ニ匿レテ東洋制覇ノ非望ヲ逞ウセムトス剩ヘ與國ヲ誘ヒ帝國ノ周邊ニ於テ武備ヲ増強シテ我ニ挑戰シ更ニ帝國ノ平和的通商ニ有ラユル妨害ヲ與ヘ遂ニ經濟斷交ヲ敢テシ帝國ノ生存ニ重大ナル脅威ヲ加フ朕ハ政府ヲシテ事態ヲ平和ノ裡ニ囘復セシメムトシ隱忍久シキニ彌リタルモ彼ハ毫モ交讓ノ精神ナク徒ニ時局ノ解決ヲ遷延セシメテ此ノ間却ツテ益々經濟上軍事上ノ脅威ヲ増大シ以テ我ヲ屈從セシメムトス斯ノ如クニシテ推移セムカ東亞安定ニ關スル帝國積年ノ努力ハ悉ク水泡ニ歸シ帝國ノ存立亦正ニ危殆ニ瀕セリ事既ニ此ニ至ル帝國ハ今ヤ自存自衛ノ爲蹶然起ツテ一切ノ障礙ヲ破碎スルノ外ナキナリ
皇祖皇宗ノ神靈上ニ在リ朕ハ汝有衆ノ忠誠勇武ニ信倚シ祖宗ノ遺業ヲ恢弘シ速ニ禍根ヲ芟除シテ東亞永遠ノ平和ヲ確立シ以テ帝國ノ光榮ヲ保全セムコトヲ期ス
 御名御璽
昭和十六年十二月八日

米國及英國ニ對スル宣戰ノ詔書(国立公文書館)

※国立公文書館にて撮影

昭和16年12月8日
大詔を拝し奉りて

『大本営陸海軍部発表 十二月八日午前六時』
帝国陸海軍は本8日未明、西太平洋において米英軍と戦闘状態に入れり。

昭和16年12月8日
大東亜戦争(太平洋戦争、アジア・太平洋戦争)開戦に際し、
昭和天皇の名により「対米英宣戦の詔勅(米國及英國ニ對スル宣戰ノ詔書)」が渙発されたことを受けて、同日午後7時過ぎ、内閣総理大臣・東條英機がラジオ放送を通じて日本国民に向けて戦争決意表明演説を実施。

大詔を拝し奉りて
「只今宣戦の御詔勅が渙発せられました。精鋭なる帝国陸海軍は今や決死の戦を行いつつあります。東亜全局の平和は、これを念願する帝国のあらゆる努力にも拘らず、遂に決裂の已むなきに至ったのであります。・・・(略)」

只今宣戦の御詔勅が渙発せられました。精鋭なる帝国陸海軍は今や決死の戦を行いつつあります。東亜全局の平和は、これを念願する帝国のあらゆる努力にも拘(かかわ)らず、遂に決裂の已(や)むなきに至ったのであります。
過般来政府は、あらゆる手段を尽し対米国交調整の成立に努力して参りましたが、彼は従来の主張を一歩も譲らざるのみならず、かえって英、蘭、支と連合して支那より我が陸海軍の無条件全面撤兵、南京政府の否認、日独伊三国条約の破棄を要求し帝国の一方的譲歩を強要して参りました。これに対し帝国は飽(あ)く迄(まで)平和的妥結の努力を続けましたが、米国は何ら反省の色を示さず今日に至りました。若(も)し帝国にして彼等の強要に屈従せんか、帝国の権威を失墜し支那事変の完遂を期し得ざるのみならず、遂には帝国の存立をも危殆に陥らしむる結果となるのであります。
事茲(ここ)に至りましては、帝国は現下の時局を打開し、自存自衛を全うする為(ため)、断乎として立ち上がるの已むなきに至ったのであります。今宣戦の大詔を拝しまして恐懼(きょうく)感激に堪(た)えません。私は不肖なりと雖(いえど)も一身を捧げて決死報国、唯々(ただただ)宸襟(しんきん)を安んじ奉らんとの念願のみであります。国民諸君も、亦(また)己が身を顧みず、醜(しこ)の御楯(みたて)たるの光栄を同じうせらるるものと信ずるものであります。

およそ勝利の要訣(ようけつ)は、「必勝の信念」を堅持することであります。建国二千六百年、我等は、未だ嘗(か)つて戦いに敗れたことを知りません。この史績の回顧こそ、如何なる強敵をも破砕するの確信を生ずるものであります。我等は光輝ある祖国の歴史を、断じて、汚さざると共に、更に栄ある帝国の明日を建設せむことを固く誓うものであります。顧みれば、我等は今日まで隠忍、自重との最大限を重ねたのでありまするが、断じて安きを求めたものでなく、又敵の強大を惧(おそ)れたものでもありません。只管(ひたすら)、世界平和の維持と、人類の惨禍の防止とを顧念したるにほかなりません。しかも、敵の挑戦を受け祖国の生存と権威とが危うきに及びましては、蹶然(けつぜん)起(た)たざるを得ないのであります。

当面の敵は物資の豊富を誇り、これに依て世界の制覇を目指して居るのであります。この敵を粉砕し、東亜不動の新秩序を建設せむが為には、当然長期戦たることを予想せねばなりません。これと同時に絶大の建設的努力を要すること言を要しません。かくて、我等は飽くまで最後の勝利が祖国日本にあることを確信し、如何(いか)なる困難も障碍も克服して進まなければなりません。是(これ)こそ、昭和の御民(みたみ)我等に課せられたる天与の試錬であり、この試錬を突破して後にこそ、大東亜建設者としての栄誉を後世に担うことができるのであります。

この秋(とき)に当り満洲国及び中華民国との一徳一心の関係愈々(いよいよ)敦(あつ)く、独伊両国との盟約益々堅きを加えつつあるを、快欣とするものであります。帝国の隆替(りゅうたい)、東亜の興廃、正に此(こ)の一戦に在り、一億国民が一切を挙げて、国に報い国に殉ずるの時は今であります。八紘を宇と為す皇謨(こうぼ)の下に、此の尽忠報国の大精神ある限り、英米と雖も何等惧るるに足らないのであります。勝利は常に御稜威(みいつ)の下にありと確信致すものであります。

私は茲に、謹んで微衷を披瀝し、国民と共に、大業翼賛の丹心を誓う次第であります。

東条英機  大詔を拝し奉りて
日本ニュース第79号
https://www2.nhk.or.jp/archives/shogenarchives/jpnews/movie.cgi?das_id=D0001300464_00000&seg_number=001

開戦時の内閣

内閣總理大臣
内務大臣
陸軍大臣
 東條 英機
文部大臣
 橋田 邦彦
國務大臣
 鈴木 貞一
農林大臣
拓務大臣
 井野 碩哉
厚生大臣
 小泉 親彦
司法大臣
 岩村 通世
海軍大臣
 嶋田繁太郎
外務大臣
 東郷 茂德
逓信大臣
 寺島 健
大藏大臣
 賀屋 興宣
商工大臣
 岸 信介
鐵道大臣
 八田 嘉明


昭和16年12月8日
ハワイ真珠湾

昭和16年(1941)12月8日。
米国ハワイ真珠湾。
ハワイ時間12月7日7時53分(日本時間12月8日3時23分)。

帝國海軍航空隊より無電が発信される。
「トラトラトラ」「我、奇襲に成功せり」
連合国との長き戦争の始まりであった。

昭和16年12月1日。
柱島の連合艦隊旗艦「長門」から発信された電文は呉鎮守府を通じ海軍省を経て、12月2日に船橋送信所から無線にて南雲機動部隊を初めとする全艦隊に伝達された。

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平成29年撮影 船橋妙典駅から新船橋駅までの散策。スタート地点は「船橋妙典駅」 。中山競馬の最寄り駅。 競馬場と無線塔跡と工場跡と。...

ハワイ沖合

東京時間12月8日午前零時
ハワイ時間7日午前4時30分、ワシントン時間7日午前10時)。
南雲忠一中将率いる「機動部隊」は、全てが順調に予定通りにオアフ島北方230マイルの地点に到着していた。

南雲中将直率の空母「赤城」「加賀」「飛龍」「蒼龍」「瑞鶴」「翔鶴」
支援部隊は、三川軍一中将率いる戦艦「比叡」「霧島」重巡「利根」「筑摩」
警戒隊は大森仙太郎少将率いる軽巡「阿武隈」と駆逐隊群。
周辺海域には哨戒のための潜水艦も張り巡らされていた。

ハワイ時間7日5時30分(東京時間12月8日1時)
「利根」「筑摩」のカタパルトから零式水上偵察機が一機ずつ直前偵察を開始。
偵察の結果、ハワイ真珠湾には戦艦8隻、重巡2隻、軽巡6隻を初め大小94隻が在泊。
しかし戦艦は全隻揃っていたが、空母は在泊していなかった。

ハワイ時間12月7日6時。 (東京時間12月8日1時30分)
南雲長官率いる機動部隊では戦闘ラッパが鳴り響き、第一次攻撃隊の出撃準備。
「発艦はじめ」の合図と共に次々と飛行機が舞い上がる。

第一次攻撃隊の総指揮官は淵田美津雄中佐。
制空隊零式艦上戦闘機43機、
九九式艦上爆撃機51機、
九七式艦上攻撃機89機。
うち九一式魚雷搭載40機、250キロ爆弾搭載51機、800キロ徹甲爆弾搭載49機。
しめて攻撃隊140機であった。

第一次攻撃隊発艦後の1時間15分後。
島崎重和少佐率いる第二次攻撃隊が発艦。
九九式艦爆78機、
九七式艦攻54機、
零式戦闘機35機。
第二次攻撃隊は魚雷を持たず、250キロ爆弾搭載105機、60キロ爆弾搭載27機であった。

真珠湾上空に向け飛び立った瞬間であった。
全てが幸運に恵まれていた。
単冠湾出港後、艦隊の航路を遮るものはなく、無謀とも危惧されていた米国ハワイ真珠湾を攻撃するという破天荒な目標は遂に実現の時が迫っていた。

実はこれより前に既に作戦行動は開始されていた。
ハワイ時間1941年12月6日23時。
日本海軍潜水艦5隻が真珠湾内の艦艇を攻撃するために、特殊潜航艇5隻を発進させていた。

ハワイ時間7日3時42分。
米国哨戒艇が特殊潜航艇の1隻を発見。

ハワイ時間7日6時45分(東京時間8日1時15分)。
警戒中の米駆逐艦ウォードが特殊潜航艇(甲標的)1隻を発見し撃沈。
彼ら特殊潜航艇5隻は未帰還となり、のちに九軍神として祀られる。

米駆逐艦ウォードが甲標的を撃沈したのは、南雲機動部隊航空隊が真珠湾攻撃を開始する1時間ほど前のことであった。
この事実は時を移さずに司令部に連絡され、それらの情報が司令長官キンメル大将に電話連絡されたのが7時40分(東京8日2時10分)であった。

そのまったく同じ時間。
ハワイ時間7時40分。(東京12月8日2時10分)
オアフ島上空に到達した淵田隊長が「展開命令」である信号弾を発射し攻撃態勢に入った瞬間でもあった。

7時49分「ト連送」(全軍突撃せよ)
7時53分「トラトラトラ」(我、奇襲に成功せり)

ハワイでの「はじまりの日」
日本側 搭乗員戦死54名 (一次攻撃20名・二次攻撃34名) 、甲標的戦死9名
米国側 2,345名戦死
合掌…


昭和16年12月8日
マレー半島

昭和16(1941)年12月8日。
戦争は真珠湾だけではなかった。
いや、全作戦の中心はマレー半島にあった。

主力艦隊で構成されていた真珠湾攻撃部隊に比べて、輸送部隊で構成され警戒厳重の中を進むマレー作戦の方が一層の危険を宿していた。

昭和16(1941)年12月4日午前7時。
日時をさかのぼる。
昭和16(1941)年12月4日午前7時。
開戦日を伝える「ヒノデハヤマガタ」の電報を受けた山下奉文陸軍中将率いる第二十五軍が乗船する輸送船団は、集結していた海南島を抜錨してマレー半島に向かっていた。

※山下奉文の墓は多磨霊園にある。 

東京時間12月6日13時45分。
輸送船団は仏領インドシナ・カモー岬南方の洋上を航行。
この地点からまっすぐに突き進めばマレー半島。作戦では輸送船団は数時間後に行動欺瞞の為に、バンコク・タイ湾に向かうかのごとく変進する予定になっていた。

マレー半島上陸部隊の上空に航空機による爆音が鳴り響く。
周辺警戒にあたっていた小澤治三郎海軍中将率いる護衛艦隊に警戒ブザーとラッパが鳴り響く。
予想された事態が遂にやってきた瞬間。当然、予想はしていた。しかし出来ることなら想定したくはなかった事態。

この時、マレー半島上陸輸送船団の上空に現れたのは、大型双発機イギリス空軍ロッキードハドソン爆撃機。
ハドソン機は上空で大きく旋回し輸送船団の規模を測るように飛行。
この英国機による輸送船団発見はバンコクに向かうと見せかける変針前のことであった。

どう見てもマレー半島に直進しているようにしかみえない船団。偵察を許すわけにもいかず撃墜するわけにもいかず、旗艦「鳥海」に置かれた南遺艦隊司令部は大混乱となる。
ここで、小澤治三郎南遺艦隊司令官は毅然と命令を発した。
「触接中ノ敵機ヲ撃墜セヨ」

平成30年5月撮影 世田谷の寺院に眠る海軍軍人の墓詣でをしていることに気がついたので、以下に記録しておきたいと思います。 浄真...

触接中ノ敵機ヲ撃墜セヨ
南遺艦隊各艦の高角砲が一斉に火を吐く。
同時に連絡を受けた南部仏領インドシナ駐留の海軍第二十二航空戦隊からも英国機撃墜のために零式戦闘機が離陸。 ここで危険を察知した英国機は西方に機首を返し、そのまま零戦の追跡を振り切り遁走に成功した。

開戦の火蓋を切る
対英米戦の最初の一発は、小澤治三郎中将(のちの「最後の連合艦隊司令長官」)によって撃たれたのであった。
南遺艦隊司令部は輸送船に乗船している陸軍第二十五軍司令官山下奉文中将に対して「輸送船団ハ本六日英飛行機ニ依リソノ全貌ヲ発見セラレタリ」と伝達。

小澤長官は戦後、「マレー作戦で奇襲はもちろん望ましいが敵機が我が方を発見し触接をつづけるなら我が方の企図はすべて暴露してしまうであろう。それなら撃墜すべきだ。あまり心配しすぎて敵機をそのまま行動させておけばその結果はもっともっと重大なことになっただろう」と語っている。

ここで予定日より早く戦闘が始まっては、すべてが崩壊する。
「真珠湾に向かっている艦隊は?」
「マレー半島の輸送船団は大丈夫か?」
「フィリピンや香港やシンガポールの動きは?」
作戦中枢部はただ祈る思いで経過を見守るしかなかった。

南遺艦隊旗艦「鳥海」艦橋内の司令部でも、幕僚一同が不安に包まれていた。
すでに日は没していた。翌日には英米海軍が押し寄せるかもしれないという不安とともに・・・。
そんな中ただ一人、小澤治三郎中将だけは泰然自若と構え何も変わらぬ顔つきをしていた。

翌日にはプリンス・オブ・ウェールズを旗艦とする英国東洋艦隊を中心とした英米蘭連合艦隊も総出撃してくるに違いなかった。このプリンス・オブ・ウェールズに対抗できる戦艦は「長門「陸奥」しか日本海軍にはまだ存在しておらず、重巡主体の南遺艦隊では心許なかった。

※
開戦時には戦艦「大和」型は竣工前。 
戦艦「長門」は連合艦隊旗艦(山本五十六GF長官)として、姉妹艦「陸奥」とともに呉近海に待機中。 
大和・昭和16年(1941)12月16日竣工 
武蔵・昭和17年(1942)8月5日竣工 
「大和」は開戦12月8日の8日後に竣工したのだ。
昭和20年(1945)4月7日を偲ぶ。 戦艦大和が沈没した節目の日に。 昭和20年4月7日14時23分。 大日本帝国海軍の...

遂にサイゴンに拠点を置く南方軍総司令官寺内寿一陸軍大将は悲痛な決断をせざるをえなかった。
「翌七日早朝ヨリ敵機ノ反復来襲ノ虞大ナルト認ム」という判断報告につづいて敵海空兵力の攻撃を受けた場合には海軍と協力して航空機による進行作戦を開始する、と…

東京の大本営は強烈な衝撃をうけた。
開戦日時は8日午前零時であるというのに、南方軍は7日早朝から戦闘開始は決定的だと伝えてきている。しかし寺内大将の判断は状況を鑑みて妥当なものではあるし、攻撃を受けた場合の航空機による進行作戦も当然なことであった。

そもそもマレー半島上陸作戦は当初から哨戒厳重な危険海域を航行するため、奇襲などがそう易々とできる場所ではなかった。
英国機に発見されるのも当然であったし充分予測されていたことでもあった。
大本営中枢では諦めの色も浮かびはじめていた…

マレー半島上陸部隊を乗せた輸送船団は12月6日午後7時、西北方に変針し予定通りに「欺瞞」のためバンコク・タイ湾方面に向かった。
この欺瞞行動が既に意味があるかどうかの疑問符が漂う中で、闇夜の海を輸送船団はただただ作戦遂行の為に進むだけであった。

昭和16年12月7日
緊張の12月7日がやってきた。
早朝から味方航空機が輸送船団上空掩護を行い、空気の緊迫さが一般の兵士にも伝わってきた。
たしかに昨日のイギリス機による日本軍輸送船団の偵察結果はシンガポールに置かれていた英国極東軍司令部に伝えられていた。

英軍はマレー防衛用対日作戦「マタドール作戦」を兼ねてから準備していた。
しかし、12月6日の時点では英国司令部は開戦を予期せず日本軍の行動目的がはっきりしない為に日本軍はタイに向かうものとして「マタドール作戦」の発動は行われず何の処置もとらなかった。


当時のタイ王国は日本同様にアジアにおける独立国。
日本(大日本帝国)とは友好国の関係にあった。
タイ国は開戦時は中立。
開戦後の1941年12月21日に日泰攻守同盟条約が締結。
タイ政府は1942年1月25日に英米に対して宣戦布告。条約破棄は1945年9月2日。

この時、英国東洋艦隊司令官のフィリップス大将は、米国アジア艦隊司令長官ハート大将との打ち合わせのためシンガポールを離れてフィリピンマニラにいた。
フィリップス大将は、日本艦隊・輸送船団発見の報を受け、急遽7日にシンガポールに引き返すことになっていた。

昭和16年12月7日9時50分
小澤提督率いる南遺艦隊所属特設水上機母艦「神川丸」から偵察のために発艦していた零式水上偵察機が、輸送船団にかなり近い上空で不意にイギリス空軍機コンソリデーテッドPBYカタリナ飛行艇と遭遇。

英軍カタリナ飛行艇が、そのまま真っ直ぐに飛行すると間違いなく輸送船団を発見してしまう、という状況の中で零式水上偵察機は必死の進路妨害と誘導を行うも上手くいかず。
英軍カタリナ飛行艇は日本輸送船団の方向へとなおも近づこうかと直進飛行を始めてしまう。

昭和16年12月7日10時15分。
前方から飛行してきた陸軍九七式戦闘機中隊が海軍零式水上偵察機と英国飛行艇が繰り広げていた異変に気づき援護を開始。
一方でカタリナ飛行艇は銃撃を加えて逃げようとした為、陸軍戦闘機隊は散開し飛行艇を撃墜してしまう。

英国飛行艇撃墜
陸軍機による英国飛行艇撃墜の報は、海軍南遺艦隊・陸軍南方軍総司令部に緊急報告された。
撃墜した事は輸送船団への偵察行為を阻止したという意味では大成功ではあったが、既に昨日に引き続く攻撃行動は8日の開戦日以前に既に戦闘が開始されたということでもあった。

昭和16年12月7日 10時30分
小澤治三郎南遺艦隊司令長官から、山下奉文陸軍第二十五軍司令官に対して「上陸ハ予定ノ如ク決行ス」の信号伝達。 予定海域に到達した船団は進路を変えコタバル・シンゴラ・パタニー等の上陸地点に向けて、英国軍の待ち構える海域へと航行を開始した。

英国極東司令部の決断
既に予定日より1日早い7日開戦の覚悟を決めた日本。
しかし、英国は未だにマタドール作戦を発動していなかった。
飛行艇一機が消息を絶ったという情報(撃墜されたとは想像できなかった)がシンガポール極東司令部には届いていたがまだ決断ができなかった。

英国極東司令部には、続々と日本軍の動きが伝えられる。
午後5時30分「輸送艦一隻、巡洋艦一隻、コタバル北方一一〇マイル。シンゴラニ向カウ」
午後6時30分「駆逐艦四隻、パタニー北方六〇マイル、海岸沿ニ南下中」
しかし英国は動かなかった。

イギリス極東軍司令部ブルックポーハム総司令官は、フィリップス東洋艦隊司令長官と協議を行った結果、12月8日早暁の偵察結果を待ってから作戦行動の判断することを決定。

12月7日23時20分。
英国は「マタドール作戦発動準備」の命令を下した。

昭和16年(1941)12月8日 午前0時45分
マレー半島上陸
佗美浩少将第二十三旅団がコタバル上陸開始。
続いて午前1時40分、山下奉文中将率いる第二十五軍司令部と第五師団主力がシンゴラ上陸。
午前2時、第五師団歩兵第四十二連隊他がパタニーに上陸。

昭和16年(1941)12月8日
マレー半島上陸作戦は、真珠湾攻撃に先立つ2時間前のことであった。
この報を受け、香港・フィリピン・グアム・ウェーキ等へ攻略部隊が一斉に活動を開始。

ここに「戦争」の火蓋が切られた…

この日よりシンガポールを攻略するまでマレー作戦は続く。
10日には英国東洋艦隊の戦艦プリンス・オブ・ウェールズ及び巡洋戦艦レパルスをマレー沖海戦にて沈め、山下奉文将軍は「マレーの虎」の勇名をはせ、翌年42年1月31日に極東英国軍は降伏する。

マレーでの「はじまりの日」
マレー作戦での日本側の犠牲は、戦死1,793名。
英国側(インド・オーストリア兵)含む犠牲は、戦死約5,000名とされている。
合掌…


節目の日「12月8日」

私たちの先祖が 祖国の安寧と発展を願い 祖国を護るために戦った その節目の日 「12月8日」
この節目の日ぐらいは、ご先祖様が、文字通りに命がけで戦った時代を振り返り往時を偲ぶよすがとしたい。

海行かば 
水漬く屍 山行かば 
草生す屍 大君の 
辺にこそ死なめ
かへり見はせじ

うみゆかば 
みづくかばね やまゆかば 
くさむすかばね おおきみの 
へにこそしなめ
かへりみはせじ

※80年後の令和3年12月5日夕刻に。

参考文献

『昭和16年12月8日 日米開戦・ハワイ大空襲に至る道』児島襄著 文春文庫 1996年9月
『史説 山下奉文』児島襄著 文芸春秋社 昭和44年5月
『太平洋戦争(上)』児島襄著 中公新書 昭和40年11月
『大本営が震えた日』吉村昭著 新潮文庫 昭和56年11月
『昭和史の謎を追う(上)』秦郁彦著 文芸春秋社 1993年3月
『最後の連合艦隊司令長官-勇将小沢治三郎の生涯』寺崎隆治著 光人社 1997年12月
『日本海軍総覧』 別冊歴史読本戦記シリーズ26 新人物往来社 1994年4月
『太平洋戦争海戦ガイド』福田誠・牧啓夫共著 新紀元社 1994年2月
『 歴史と旅・日米開戦50周年記念号 特集真珠湾奇襲攻撃』  秋田書店 平成3年12月号
※雑記のため、参考文献が「一次資料」ではないことをお詫びいたします。


そして、私は当たり前の事に気がついてしまったのです。


「はじまりの日」12月8日から、毎日が「節目の日」を迎えるということを。

命がけの日々がはじまったということを。

日々に感謝をしつつ、 日々を過ごして参ります…

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