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「海軍無線電信所船橋送信所」と「無線電信所道」(船橋)

以前に記載した記事の内容が浅かったために、「海軍無線電信所船橋送信所」を中心に記事を再編集。再編集するに当たり、未掲載写真や新規取材分の写真を追加しました。

元記事:船橋西部の戦跡散策(2017年6月撮影)

平成29年撮影 船橋妙典駅から新船橋駅までの散策。スタート地点は「船橋妙典駅」 。中山競馬の最寄り駅。 競馬場と無線塔跡と工場跡と。...
追記の再々編集を2022年11月にさらに実施しました。

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船橋無線塔記念碑
(海軍無線電信所船橋送信所跡)

送信所は大正4年(1915年)完成。


昭和16年12月1日。柱島の連合艦隊旗艦「長門」から発信された電文は呉鎮守府を通じ海軍省を経て、12月2日に船橋送信所から無線にて南雲機動部隊を初めとする全艦隊に伝達された。
ちなみに、船橋送信所が艦船へ向けて短波・中波を送信し、依佐美送信所が潜水艦に向けて超長波を発信という。

現在は行田公園となっている。

船橋無線塔記念碑
ここ下総台地の一角にかつて無線塔が聳えていた。大正4年(1915年)に船橋海軍無線電信所が創設された。大正5年にはハワイ中継でアメリカのウイルソン大統領と日本の大正天皇とで電波の交信があった。広く平和的にも利用されたのでフナバシの地名がはじめて世界地図に書きこまれた。大正12年(1923年)の関東大震災の時には救援電波を出して多くの人を助けた。昭和16年(1941年)の頃には長短波用の大アンテナ群が完成し、太平洋戦争開幕を告げる「ニイタカヤマノボレ一二〇八」の電波もここから出た。船橋のシンボルとして市民に親しまれていたが昭和46年(1971年)5月解体され栄光の歴史を閉じた。

この記念碑以外には、往時を物語るものは残っておらず。あとは道路の円形の雰囲気をなんとなく楽しむぐらい。
(※道路の反対側に開設板が新設されました、後述)

しかし、記念碑以外、何もなくても、この船橋の地から「ニイタカヤマノボレ一二〇八」の無線が発せられ、日本の運命が決せられたと思うと感慨深い歴史の重みを感じてしまう。

場所

撮影:2017年6月


行田無線塔(船橋海軍無線電信所跡)

2022年11月に再訪してみたので、記事を追記。令和4年(2022年)3月に新たに設置された解説版もあった。

行田無線塔(船橋海軍無線電信所跡)
 大正4年(1915)この地(塚田村行田新田)に「船橋海軍無線電信所」が開設されました。当時最先端の通信技術の粋を集めた東洋一の施設でした。次年、逓信省(現:総務省)の「船橋無線電信局」を併設、日米通信をはじめ、世界各国との電信が、この行田無線塔を経由して行われました。無線施設は、敷地中央のレンガ造の局舎の脇に高さ200mの主塔が立ち、高さ約60mの副塔18基が周り(円形道路際)を取り巻き、アンテナ線がその間に36本張り巡らされ、あたかも笠の如しと評判でした。
 昭和16年(1941)頃、無線塔は高さ182mの自立式鉄塔6基に替えられました。この無線塔群は「行田の無線塔」として、船橋の目印として、永く市民に親しまれ、日本近代史の中で、重要な役割を果たしてきました、太平洋戦争後、アメリカ軍に接収されますが、昭和41年に返還され、昭和46年(1971)に解体されました。
 跡地は都市計画により、県立行田公園・行田団地・小学校などになりました。地図や航空写真でみると円形の道路に囲まれていますが、当初、副塔を管理する道路を外縁上に設置したためで、珍しい風景が今に残ることとなりました。
 なお、この説明板の左手(北側)にある石垣で囲われた四角い一角は、当初の無線塔の200m主塔が建てられた場所で、植え込みの下には無線塔の基礎部分が現在も残されています。
 令和4年3月 船橋市教育委員会

https://www.city.funabashi.lg.jp/gakushu/0005/p046654_d/fil/gyodamusentou.pdf

この石垣の場所に、200m主塔が立っていたという。

基礎跡は埋没されていると思われる。
現在はサツキが植樹されており、基礎は露出していない。

案内板は東側に新設されており、記念碑は道路の西側にある。

ニイタカヤマノボレ1208の箇所のみ、見やすくなっていた。


位置関係

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-M871-93
昭和23年(1948年)03月19日、米軍撮影の航空写真を一部加工。

中山競馬場の「楕円」
行田公園を中心とした「円」
新船橋駅となりの「四角」

円形は「送信所跡」で、四角は「軍需工場跡」。
どちらも海軍に関係した場所。

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-M860-62
昭和23年(1948年)03月29日、米軍撮影の航空写真を一部加工。

赤い丸の部分に182mの無線塔が6基。
これが 「ニイタカヤマノボレ一二〇八」 を発した「長短波用の大アンテナ群」。


周辺道路は円形。

上から見ないとわからない。


海軍境界標石

円周の東側、ちょっとへこみがあるところに「海軍境界標」がのこっている。ちょうど諏訪神社あり、この部分のみ、円周に凹みがあるのは、当時から諏訪神社があったことも意味している。

場所


日本建鐵船橋製作所跡

「船橋無線塔記念碑」のある行田公園から南東の方向、新船橋駅の近くの四角いエリアが「日本建鐵船橋製作所」跡地。
船橋送信所とは関係ないけど、近くなので、一緒に掲載。

「日本建鐵船橋製作所」跡地
現在は三菱電機管理地とイオン船橋を始めとする商業エリアとなっている。
(日本建鐵は三菱の完全子会社となり会社清算済)

三菱の下請けということで往時は三菱系の航空機部品も制作。

具体的には海軍局地戦闘機「雷電」部品を製造していたという。
バス停の名前は「日本建鉄前」であれど、既に工場撤退しているのでバス停名も変更される未来は近そうです・・・

場所:

撮影:2017年6月および2022年11月


無線電信道の道標

西船橋駅の北西。庚申塔などと一緒にまとめられている。
ここから東の道を北上すれば「 海軍無線電信所船橋送信所 」の行田公園に到達できる。文字通り、無線電信所への道。

無線電信所道

東 船橋方面ニ至ル
西 市川方面ニ至ル

従是北八百餘間至無線電信所
大正六年行啓ヲ奉迎ニ付國縣郡費補助ヲ受耕地會沿道民ノ寄附並村費等金四千餘円ヲ以テ葛飾村ニ於テ大改修工事ヲ施行セル記念ニ建之

もとは違う場所にあったようだ。

場所

撮影:2022年1月


海軍境界標

船橋法典駅の東側。七面堂というお堂の境内に、海軍境界標石があった。
ちょうどこの場所から南に行けば、行田公園の円の中心に到達できる。

ここも、無線電信所への道の目印。

場所

撮影:2022年1月


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