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「軍都・平塚」海軍火薬廠の跡地散策・その1

平塚市は、海軍火薬廠や海軍工廠科学実験部、そして関連する軍需工場などが集中する一大軍事拠点、「軍都・平塚」であった。そんな平塚の街をざっと散策をしてみる。

本編は「その1」となります。

かつての横須賀水交社平塚集会所(現在の旧横浜ゴム平塚製造所記念館)。


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位置関係

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-R227-A-3-13
1946年08月15日、米軍撮影の航空写真。

平塚八幡宮の北側に軍需工場が展開されていた。

第二海軍火薬廠
平塚市役所、平塚博物館、横浜ゴム平塚製造所、パイロットコーポレーション平塚工場、平塚市総合公園、など
第二海軍火薬廠第六工場
三菱ケミカル平塚工場
相模海軍工廠科学実験部
平塚市美術館、不二家平塚工場、平塚合同庁舎、平塚警察署、など
平塚海軍共済病院
平塚共済病院
日本国際航空工業
日産車体湘南工場、ららぽーと湘南平塚など
第二海軍航空廠補給部平塚補給工場
湘南倉庫運送、JT平塚工場跡など
横須賀海軍工廠造機部平塚分工場
平塚競輪場、三興製鋼など
平塚自動車部品製作所(平塚傷兵工場)
平塚金属工業

ファイル:USA-M46-A-7-1-152
1946年02月15日、米軍撮影の航空写真。

ファイル:USA-M64-A-6-13
1946年083月05日、米軍撮影の航空写真。

ファイル:USA-R227-A-3-160
1946年08月15日、米軍撮影の航空写真。

ファイル:USA-M46-A-7-1-104
1946年02月15日、米軍撮影の航空写真。

現在のイメージ範囲。一部推測です。


海軍火薬廠(第二海軍火薬廠

海軍省直属の海軍工廠。
1905年(明治38年)9月 英国アームストロング、ノーベル、ヴィッカースの3社によりイギリス帝国に本社が設立された「日本火薬製造株式会社平塚製造所」を前身とする。
1919年(大正8年)4月 「海軍火薬廠令」に基づき日本海軍により買収され、「海軍火薬廠」発足。
海軍の爆薬・火薬の製造、研究開発拠点となる。
1929年(昭和4年)に爆薬部が舞鶴に移転。
1939年(昭和14年)、海軍火薬本廠に改編。海軍火薬支廠が宮城に増設。
昭和16年(1941年)、東から順番に宮城船岡支廠が「第一海軍火薬廠」、平塚本廠が「第二海軍火薬廠」、舞鶴爆薬部が「第三海軍火薬廠」に改編されている。

昭和20年(1945)8月の終戦とともに火薬廠は廃廠。
火薬廠は戦後は米軍により接収。
昭和25年、横浜ゴム株式会社が、一部敷地の払い下げを受け、現在に至る。

第二海軍火薬廠の各工場
第一工場 各種砲用及びロケット用無煙火薬の製造
第二工場 各種綿薬(硝化綿)の製造 各種混酸の調製
第三工場 各種酸の製造 廃酸の回収 石炭ガスの製造
第四工場 設備の設計、据付及び補修 ユーティリティの管理
第五工場 各種機銃火薬の製造 溶剤の回収
第六工場 無煙火薬の貯蔵 砲用無煙火薬の選別以降の作業
第七工場 ニトログリセリンの製造
     第一工場関係の火薬の配合混餅作業


平塚大空襲(平塚市博物館

平塚地区には、第二海軍火薬廠のほかにも横須賀海軍工廠造機部平塚分工場、第二海軍航空廠補給部平塚補給工場、日本国際航空工業などの軍需工場が集まっていた。
平塚市は、昭和20(1945)年2月16日以降、艦載機等による空襲を受けていた。
昭和20年7月16日深夜から17日未明にかけて、B29爆撃機133機による大空襲を受け、「平塚空襲」として特に大規模な空襲であった。人的被害は死者328名以上という。

7月16日の平塚空襲で被災を逃れた日本国際航空工業や横須賀海軍工廠平塚分工場など軍需工場は、2週間後の7月30日の空襲で被災した。

以下は平塚市博物館の展示物。

平塚空襲に関する展示など。

平塚市博物館

海軍火薬本廠

火薬廠門柱札
海軍火薬本廠は昭和14年から16年にかけての名称。

中央の筒は、「火薬缶」

相模海軍工廠で作っていた防毒面。

戦争関連は、ほんのすこしだけですが一見の価値あり。

書籍も入手できます。

場所


さて、ここからは順不同で、平塚の戦争関連の遺跡(戦跡)を散策していきます。まずは、平塚駅からスタート。

平塚駅と柳の木

平塚駅北口のロータリーにある柳の木。明治20年に平塚駅が開業したことを記念して植樹された柳の木は、現在は3代目という。

平塚駅と柳の木
 明治20年(1887年)7月11日、平塚駅の開業を記念して、駅舎正面に一本の柳の木が植えられた。この木は、大正12年(1923年)に発生した関東大震災や、太平洋戦争の終結年である昭和20年(1945年〉の平塚大空襲による駅舎の全壊にも耐えてきたが、惜しくも、昭和31年(1956年)、歳月とともに枯れてしまった。
 幸いにも、当時の駅員がその柳の枝を挿し木にしており、平塚市の限りなき発展を祈念し、平塚駅開業70週年記念に駅前に栽培され、柳の木は引き継がれてきた。
 平成21年(2009年)の北口駅前広場バリアフリー化工事により、柳の木の移植が必要となったが、老齢化が著しいため、挿し木にして生長させた後、平成22年(2010年)2月にこの地へ植栽した。
平塚市観光協会

脚下には、二代目を引き継いて植樹した当時の平塚市長であった戸川貞雄氏の碑文が摩耗しながらも残っている。作家でもあった戸川貞雄氏の文は短いながらも趣がある。

平塚駅の柳の木 碑文
 明治二十年七月十一日平塚停車場が開驛し驛舎の入口に一本の柳の木が植えられた。それから七十年柳の木はいくたびか受難しつつ世界につらなる平塚の動きをじっとみつめていた。その下を往来した多くの人たちからながくしたしまれてきた柳の老木もとうとう枯れた。しかし昨年の春地に挿されたそのひと枝があらたに芽をつよく吹きはじめた。昭和三十一年七月十一日のこされたたったひと枝の生命をわたくしはここに植えた。生長をかぎりなき生長を市民とともに祈らずにはおれない。
         戸川貞雄文
         田中真門書

場所

平塚空襲を経て、復興した平塚市。
フェスタロードと東海道が交わる歩道橋から。


平塚八幡宮

祭神:応神天皇・神功皇后・武内宿禰

旧県社・相模国一国一社八幡宮・相模五之宮ともいう。
仁徳天皇68年、相模地方に地震があり人民の苦難のさまを伝え聞いた仁徳天皇が、国土安穏祈願のために応神天皇を祀るように勅されたのが当社の起源という。
古くは鶴峯山八幡宮と称した。
当社は一国一社の八幡宮としてあつく崇敬され、総社六所神社の「国府祭」にも参加する神社。
明治6年に政府の指示により「八幡神社」と改称。昭和53年に「平塚八幡宮」の旧名に復した。
明治社格では県社。現在は神社本庁別表神社。平塚市総氏神。

仁徳天皇68年、相模地方に地震があり人民の苦難のさまを伝え聞いた仁徳天皇が、国土安穏祈願のために応神天皇を祀るように勅されたのが当社の起源という。
古くは鶴峯山八幡宮と称した。
当社は一国一社の八幡宮としてあつく崇敬され、総社六所神社の国府祭にも参加する神社。
明治6年に政府の指示により「八幡神社」と改称。昭和53年に「平塚八幡宮」の旧名に復した。
明治社格では県社。現在は神社本庁別表神社。平塚市総氏神。

ちょうど参拝時は4月末だったため。国府祭を控えていました。
毎年、五月五日に相模国の一宮から五宮までの五社と総社六所神社の神輿が集う祭事。

場所


忠魂碑と明治三十七八年戦役記念碑(平塚八幡宮)

平塚八幡宮の境内に戦争関連の石碑がある。

忠魂碑
元帥伯爵東郷平八郎書

明治三十七八年戦役記念
 希典書

忠魂碑は「西南戦役」「明治二十七八戦役(日清戦争)」「明治三十三年事変(北清事変)」「明治三十七八年戦役(日露戦争)」にまつわる。
東郷さんと乃木さんの石碑。


八幡山公園

平塚八幡宮が鎮座する八幡山。
公園としては、八幡山の洋館(旧横浜ゴム平塚製造所記念館)、平和の慰霊塔や戦災復興事業完成記念碑、「平和の慰霊塔」や「戦災復興事業完成記念碑」などがある。

場所


横須賀水交社平塚集会所
旧横浜ゴム平塚製造所記念館(八幡山の洋館)

国登録有形文化財(建造物)。愛称が「八幡山の洋館」

砲用発射無煙火薬
日露戦争当時、日本海軍は爆薬として「下瀬火薬(下瀬爆薬)を用いていたが、発射推進火薬としての砲用発射無煙火薬は、同盟国の英国からの輸入に頼っていた。
日露戦争後に、無煙火薬国産化の必要性が急務となり、その新設火薬製造所建設の地に平塚が選定された。
選定理由として、東海道線を用いた資材輸送の利、軍港横須賀との地の利、相模川等の豊富な水資源、広大な国有の遊休地があったことなどがあげられている。

日本火薬製造株式会社(日本爆発物製造株式会社)
明治38年12月、日本火薬製造株式会社(明治40年日本爆発物製造株式会社と改称)が、日英同盟のもと日本海軍とアームストロング社、チルウォース社、ノーベル社の英国三社の合弁会社として設立。
八幡山の洋館は、その際に英国人支配人の執務室あるいは住居として建設された、という。

海軍火薬廠
大正8年(1919)、日本海軍が全施設を買収し、海軍火薬廠が発足。海軍の爆薬・火薬の製造、研究開発拠点となる。
昭和14年、海軍火薬本廠に改編。
昭和16年、第二海軍火薬廠に改編。
火薬廠の発足後、「八幡山の洋館」建物は横須賀水交社平塚集会所(海軍の将校クラブ)として使用された。

昭和20年(1945)8月の終戦とともに火薬廠は廃廠。
火薬廠は戦後は米軍により接収。
昭和25年、横浜ゴム株式会社が、本建物を含む一部敷地の払い下げを受け、主に応接室や会議室として使用。
平成16年、本建物は横浜ゴム株式会社より平塚市へ無償贈与され、八幡山公園に移築され、現在に至る。

八幡山の洋館 旧横浜ゴム平塚製造所記念館は国の登録有形文化財に登録された明治期の木造建築物です。会議室やレンタルスペースとしてもご利用いただけます。

昭和10年頃の海軍火薬廠正門

昭和5年、南ベランダ前
昭和5年、玄関前

海軍火薬廠時代の応接室。

沿革

第二海軍火薬廠略図。この位置関係情報が、あとあとでかなり重要になりました。

内装。

場所


煉瓦積基礎の遺構

国の登録有形文化財(建造物)「旧横浜ゴム平塚製造所記念館」
煉瓦積基礎の遺構
 この煉瓦積は、「旧横浜ゴム平塚製造所記念館」を当地に移築する際に基礎を全て鉄筋コンクリート造に改めたため、移築前の旧い煉瓦積基礎(布基礎)の一部分を、その遺構として保存したものです。
 この建物は、海軍火薬廠の前身となる英国法人:日本火薬製造株式会社(The Jpanese Explosives Company Limited)の英国人宿舎の中心的建物で、明治44年に前身建物が火災で焼失した際に再建されました。
 この基礎の元の位置は、塔屋がある棟の正面(南)側西より部で、煉瓦の積み方はイギリス積(English Bond)、厚みは一枚半で15段積です。この基礎は、再建時に新しい間取りに合わせて新規に積まれた部分ですが、建物全体の基礎の6割にあたる部分では、前身建物(明治39年建設)の基礎フーチングをそのまま再利用して、その上に積まれていました。
 使用される煉瓦は、およそ巾10.9cm(0.35尺)、長さ22.1cm(0.73尺)、厚6.0cm(0.20尺)で、一部の煉瓦の平の面には図のような刻印が見られました。
  平成21年4月 平塚市教育委員会


平和慰霊塔

平塚八幡山公園にある、慰霊塔。

平和慰霊塔

平和慰霊塔の記
本市は明治以来幾たびかの戦争において尊い生命を捧げられた犠牲者のみ霊を慰めその冥福を祈るために昭和三十八年一月平塚市戦没者慰霊施設建設準備委員會を設けここに市民の浄財と市費をもってこの慰霊塔を造立した
ねがわくは諸霊この塔にあつまり給いて市民に誠意に應え永く世界の平和を護持されんことを祈る
 昭和四十年晩秋 
  平塚市長 加藤一太郎謹書

寄贈 平塚市遺族會 
会長 宮川惣次郎 
副会長 根岸勘次郎 副会長 安村惠三

合祀碑

 戦災による殉難の諸霊を平和慰霊塔に合祀し
 つつしみて短歌三首を捧ぐ

米軍の 空襲の日に 被弾して 
 倒れし市民(とも)の 霊(たま)を弔う
この塔に あわせまつりし 悲しみの 
 市民のみ霊よ 永久にやすかれ
戦いは 地獄なりけり つぎの世に 
 このかなしみを またあらしめじ
   平塚市長加藤一太郎

昭和四十七年十月十二日

水流れて滄海に帰す

翔和四十四年十月 平塚市遺族會婦人部

平和慰霊塔と八幡山の洋館

場所


平塚戦災復興事業完成記念碑

八幡山公園の西端にある。

平塚戦災復興事業完成記念

神奈川県知事 内山岩田郎書

平塚市は昭和20年7月16日の空襲により市の中心部と工業地帯を含む 314ヘクタールが被災しました。
この壊滅的な打撃を受けた平塚市を再建するため昭和21年9月県市をあげて 平塚都市計画事業土地区画整理事業に着手以来、復興の意欲に燃える市民各位を中心に関係者協力一致、 多くの苦難を克服し、21年の歳月と総工費11億円を費やして、ここから南に展開する新しい平塚市が誕生いたしました。昭和42年3月記

場所


第二海軍火薬廠正門門柱

現在の横浜ゴム株式会社平塚製造所の正門は、当時の第二海軍火薬廠の正門跡。

なお、横浜ゴム敷地内には、正門門柱のほかには、奉安殿・地下壕入口・貨車引込線・鉄筋コンクリート建屋など一部現存しているというが通常非公開。
コロナ禍以前は、「Think Ecoひらつか」で公開もあった。

場所


海軍火薬廠の跡

横浜ゴムの南の公道側に、跡地碑がある。

海軍火薬廠の跡
 岸本肇書
ここを正面に 四十余万坪の地は海軍火薬廠の跡である
同廠は明治三十八年日本政府と英国アームストロング  ノーベル チルウォースの三会社との契約により設立された日本爆発物製造製造株式会社 を 大正八年海軍省が買収したものであって 爾来昭和二十年まで日本海軍の火薬 技術の中心として 数多い功績を残すと共に 平塚市の発展と文化に多大の貢献をしたところ である
ここにその事績を偲びこの碑を建てる
  昭和四十九年秋日   
  海軍火薬廠跡の碑建立の会  
   水島英耀書

場所


横浜ゴム株式会社平塚製造所東門

東門の門柱も雰囲気がある。
当時からのものかは不詳。

場所


平塚海軍共済病院(平塚共済病院)

海軍火薬廠の職域病院として、横須賀海軍共済組合病院平塚診療所が1919年(大正8年)に開院したことにはじまる。
現在の平塚共済病院。
平塚海軍共済病院本館が、旧外来棟として現存している。

平塚海軍共済病院本館
昭和7年 (1932)竣工。

防火水槽
平塚海軍共済病院本館の手前に、防火水槽も残っている。

白鷺塚と白秋歌碑
近くには、北原白秋の白鷺の和歌碑もある。

白鷺塚

平塚市長 戸川貞雄

北原白秋
白鷺の 白鷺の
飛べば夕日の高麗寺 
月になるやら 風じゃやら

平塚海軍共済病院軍用地境界柵
軍用地境界柵が東側の境界に残る。

平塚海軍共済病院通用門跡

平塚共済病院

平塚海軍共済病院軍用地境界壁
軍用地境界壁も残る。駐車場の隅。

平塚海軍共済病院軍用地境界柵
軍用地境界柵が駐車場にも残っていた。

煙突
神奈川県立平塚盲学校の敷地内にある煙突。
当時からの雰囲気を感じる煙突であるが、「解体」とのこと。。。

2022年9月再訪時したら、解体進行中でした。。。

場所


第二海軍火薬廠 寄宿舎正門跡
(県立ろう学校)

現在の県立ろう学校の西側の壁。この飛び出た柱が、火薬廠寄宿舎の正門門柱であったという。

場所


中原御林(平塚市総合公園)

徳川家康が鷹狩の折に宿泊所としていた中原御殿があった場所。
このあたりも海軍火薬廠の用地でした。

場所


鷺塚(平塚市総合公園)

海軍火薬廠の敷地内になっていた松林。そこには多くのシラサギやゴイサギが生息していたが、昭和13年の暴風雨で多くの鳥たちが亡くなってしまったという。そこで海軍火薬廠の従業員が慰霊の塚を建立したという。

昭和13年8月31日夜半暴風にて9月1日払暁に至り大暴風雨のため惨死せる白鷺及び五位鷺五百数十羽の霊を弔うものなり
昭和14年二月建之 火薬部第一工場

往時はコンクリート製の鷺塚であったが、市制50周年を記念し、総合公園再整備事業にて、鷺塚も御影石で復元したという。

場所


第二海軍火薬廠 第二工場 綿薬精製場
(富士チタン工業)

現在の富士チタン工業。
第二海軍火薬廠の建物が、最もよく残されている場所。
綿薬精製場の建物がほぼ完全に残されている。

参考

平塚市博物館 Hiratsuka City Museum「相模川流域の自然と文化」をテーマに活動している地域博物館

場所


第二海軍火薬廠 第一工場 実験場
(パイロット蒔絵工房NAMIKI)

現在はパイロット蒔絵工房NAMIKIは、海軍火薬廠の建物。
第九実験場であったという煉瓦建造物。

見学は事前申し込み、平日のみ。。。

パイロットコーポレーションでは、大正15年(1926年)より、日本が世界に誇る伝統工芸のひとつである、蒔絵を施した高級万年筆を欧米で展開しました。その後、更なる発展を求め、後に人間国宝となる蒔絵師・...

場所


第二海軍火薬廠 第七工場
(クミアイ油脂)

北側に位置する第七工場。クミアイ油脂敷地内の建屋も、往時のものと思われる佇まい。

場所


第二海軍火薬廠 境界塀
(北西部)

北西部の高橋工業所の前に、境界塀が残っている。

場所


第二海軍火薬廠 第六工場 砲台跡
(松が丘公民館・殉国碑)

松が丘公民館の敷地がかつての第六工場の砲台跡であった。
いまは、「殉国碑」が建立されている。(昭和31年建立)

場所


第二海軍火薬廠 境界塀
(北東部)

北東部の外郭にあたる場所。このあたりも往時の境界塀と思われる。色は白く塗られているが。

場所


第二海軍火薬廠引込線跡

駅から伸びていた引込線のあと。なんとなく線形が追える。

場所


※撮影は2022年4月及び9月

つづきは、「その2」にて。

平塚市は、海軍火薬廠や海軍工廠科学実験部、そして関連する軍需工場などが集中する一大軍事拠点、「軍都・平塚」であった。そんな平塚の街をざっと...

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