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「陸軍重砲兵学校」跡地散策・その1(横須賀)

横須賀の防衛大学校の手前、馬掘小中学校や馬掘自然教育園のあるエリアは、かつて陸軍の重砲兵学校があった場所。昭和40年代に海岸線を埋め立てる前は、この地が海岸線の南西端でもあった。
そんな馬掘の陸軍重砲兵学校関連戦跡を散策してみる。

その2(馬掘自然教育園)はこちらから。

馬掘小学校・中学校の東の坂道を進む。馬掘自然教育園へ向かう。往時から残る道。 本記事はその2となります。その1はこちらから。...

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陸軍重砲兵学校

明治22年(1989)。要塞砲兵幹部練習所が市川市の国府台に創設。
明治29年(1896)に、陸軍要塞砲兵射撃学校と改称。翌年明治30年に横須賀馬堀の新校舎に移転。明治41年(1908)に陸軍重砲兵射撃学校と改称し、大正11年(1922)に、陸軍重砲兵学校と改称した。

陸軍重砲兵学校跡
 現在の馬堀小・中学校は戦前に旧陸軍重砲兵学校が置かれていた所です。
 明治8年(1875)浦賀に海軍の兵士を育てる屯営が置かれ、その後、要塞砲兵幹部練習所・要塞射撃学校と変遷しました。大津練兵場に一時移転しましたが、明治30年(1897)馬掘の地に重砲兵学校を設置しました。
 この学校は砲術の訓練と発達に寄与し、養成した将兵は3万人を超えました。終戦後の一時期、浦賀が陸軍の復員手続きや馬堀援護所として使用されました。
 現在も校庭西側の丘に「重砲兵発祥の地」の碑があります。
 大津行政センター市民協働事業・大津探訪くらぶ

現在の馬掘小学校の入り口に、跡地の案内板が立っている。


位置関係

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-M46-A-7-2-122
昭和21年(1946年)2月15日、米軍撮影の航空写真。

一部拡大の上、加工。
当時は、重砲兵学校のすぐ先が海岸線であったた。現在は海岸線が埋め立てられていることが分かる。


重砲兵発祥地の碑

馬掘小学校の校庭西側の丘のうえに、重砲兵発祥の地の記念碑がある。
小学校の校庭内になるためにご注意下さい。私は校庭開放日に見学をさせていただきました。

この地は、重砲兵学校将校集会所前庭であったという。

重砲兵発祥地 
永持源次謹書

永持源次の最終階級は陸軍中将。
陸士15期、砲兵畑をすすみ、陸軍要塞砲兵射撃学校教官、陸軍重砲兵射撃学校教官、陸軍野戦砲兵学校教官、横須賀重砲兵連隊長、造兵廠大阪工廠長、砲工学校長、造兵廠長官などを歴任した。
昭和13年(1938年)、予備役。除隊後は、日本製鐵常務や日本特殊鋼社長、全国軍人恩給連合会長を務め昭和53年に94歳で没している。

(裏面)
当処は明治二十二年創立せる陸軍重砲兵学校の旧址なり本校は重砲兵の進歩発展に貢献し昭和二十年迄に三万の将兵を練成す正に重砲兵発祥の地と謂うへし 然るに往時の施設は逐年改廃せられ近くその姿を没せんとす全国同憂の士深く之を惜しみ由緒ある遺跡を永く顕彰する為明治百年に方り此の碑を建つ
昭和四十三年十一月 重砲校遺跡顕彰会

本記念碑本体は富士の溶岩塊により築かれていたが、この度の修復に当たり保全上堅固な伊達冠石に交換した。
 平成十九年八月
 重砲会碑修復事業協力者一同


行幸之地碑

重砲兵発祥地記念碑の隣には、行幸の記念碑がある。
昭和天皇は、この地に2回、行幸されている。

行幸之地

昭和天皇当地行幸記録
昭和三年五月二十四日 陸軍重砲兵学校時代
昭和二十一年二月二十日 浦賀引揚援護局時代
右の碑は浦賀引揚援護局が建立したものを、平成十九年八月重砲会が修復しこの記録を刻した。
重砲会碑修復事業協力者一同

場所

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※撮影:2022年5月


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