サイトアイコン 近代史跡・戦跡紀行~慰霊巡拝

戦前日本第四位の航空機メーカー「立川飛行機」の跡地散策(立川立飛)

戦前日本の航空機メーカーのトップスリーは、中島・三菱・川崎。この大手三社に続く四番手が「立川飛行機」。
戦後、航空機産業の道は閉ざされ、航空機メーカー各社は、それぞれの道を歩むことになる。そんな中で、立川飛行機は、今も色濃く立川の街に溶け込んでいくことになる。
そんな立川飛行機の名残を立川に散策してみる。


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位置関係

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-R556-No1-15
昭和22年(1947年)11月14日、米軍撮影の航空写真。

立川飛行場周辺

わかりやすく、区画が残っている。

南地区。

ほとんどの建屋が、位置が変わらずに今も使用されているような感じで残っている。
これはすごい。。。

西地区。こちらも一部の建屋が位置も変わらずに、今も使用されている。


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石川島飛行機
1924年(大正13年)、石川島飛行機製作所(石川島飛行機)が設立。これは東京石川島造船所(現在のIHI)が中心となって出資設立されたものであった。
1930年(昭和5年)、立川陸軍飛行場のある立川に移転。
1934年(昭和9年)、陸軍の依頼で中等練習機を開発。陸軍主力中等(初等)練習機「九五式一型練習機」として正式採用され、「赤とんぼ」として親しまれた。

立川飛行機の戦前
1936年(昭和11年)、陸軍省の要請により、工場所在地の地名を取り込んで「立川飛行機」と改称。中堅航空機メーカーとして、
ロッキードよりL-14 スーパーエレクトラのライセンス生産権を購入して「ロ式輸送機」として生産し、また「九八式直協偵察機」・「九九式高等練習機」・「一式双発高等練習機」等の開発・生産を行いつつ、中島飛行機が開発した一式戦闘機「隼」の大規模な移管生産を行っていた。
一式戦「隼」二型(キ43-II)は約1000機、三型(キ43-III)は約1500機が立川飛行機で量産されている。
昭和19年、軍需会社指定。
昭和20年三月及び4月の大空襲で立川飛行機立川工場の施設大破。

「新立川飛行機株式会社」
敗戦後、工場は進駐軍によって接収。1949年には立川飛行機株式会社の出資によって第二会社である「タチヒ工業株式会社(立飛工業株式会社)を設立。
1952年には、戦後国産第一号機となる「R-52型軽飛行機(練習機)」を開発。
立飛工業株式会社は、「新立川航空機株式会社」と改称し、「R-53型軽飛行機」「R-HM型軽飛行機」も開発。日本の航空機開発は戦後の断絶があったことから時代遅れな技術であり、量産には至らなかった。

「たま電気自動車」から「プリンス自動車」
1947年、飛行機の開発を禁じられた立川飛行機の元従業員ら約200名が「東京電気自動車(たま電気自動車)」を設立。世界初の量産された電気自動車を生み出す。当時はガソリン流通に制限がある一方で、多くの工場が空襲被災し電気が余っている情勢であり、電気自動車が最適な選択肢であったが、1950年の朝鮮戦争勃発で鉛が高騰し、電気自動車の製造を終了させている。
その後、立川飛行機の流れをくむ「たま自動車」は、「プリンス自動工業(プリンス自動車)」となり、中島飛行機系の「富士精密工業」と合併。
1966年、「プリンス自動車工業」は、日産自動車に吸収合併となる。

「立川飛行機」本家の戦後
本家の立川飛行機は、戦後の1955年に「立飛企業株式会社」に改称。主力事業は不動産賃貸となる。
2012年、「株式会社立飛ホールディングス」を設立。現在に至る。


立川飛行機の給水塔(南地区)

昭和13年(1938年)建築。立川飛行機時代の名残。以前は周辺に建屋があったが、2022年6月現在は、給水塔の周りの建屋が解体されており、全景をよく見ることができる。
4階建ての建屋で、上部は給水槽となっている。

多摩モノレールの高松駅から給水塔を観察。

高松駅を降り、地上から。給水塔の脇に、記念碑がある。

立飛企業株式会社発祥之地碑

昭和45年11月建立。
統治が米軍に接収されていたため、記念碑設置当初は、別の場所(新立川ビル)に建立されていたが、その後に米軍から土地返還され、平成17年に本来の地に記念碑が移設されている。

南地区の敷地をぐるっと回ってみる。

建屋が解体され、いまなら給水塔がよく見える。

場所


立川飛行機(南地区)

南地区の建屋。立川飛行機時代の戦前建造建造物の様相を残す。

南地区を外周から建屋観察。

のこぎり屋根、ですね。

だいたい、戦前からの建屋。。。

立川飛行機南地区の入り口。

一周して、多摩モノレール高松駅に戻ってきました。


多摩モノレールから見る立川飛行機(南地区)

モノレールからみる工場敷地。
上から全体的に見ることができるので、おすすめ。


多摩モノレール高松駅から立川飛行機(南地区)

ホームからも。

場所


立川飛行機(西地区)

多摩モノレール立飛駅。
立飛駅の東側は再開発されて、「ららぽーと立川立飛」。西側には「アリーナ立川立飛」や「TACHIHI BEACH」などもある。
文字通りに立飛の街。立川飛行機の街。

こちらにも「給水塔」が残っているが工場敷地なので望遠で。
立川飛行機の給水塔(立飛の給水塔)。

場所

給水塔の手前にある管理事務所も、往時からの建屋だろう。

西地区は近寄れなかったので、望遠で。

工場のノコギリ屋根が見える。


多摩モノレールから見る立川飛行機(西地区)

同じく、モノレール車中から観察。


多摩モノレール立飛駅から立川飛行機(西地区)

ホームから、西地区を観察。

立川飛行機の名残を散策してみましたが、思っている以上に当時の建屋が残っていることを実感しました。
しかし、南地区の給水塔の近くにあった建屋は解体されており、今後も解体が増えていく可能性も否定できません。給水塔は残してくれるかとは思いますが、それ以外の建屋に関しては見れる間に、早めに見に行ったほうがよいかもしれません。

※撮影:2022年6月

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