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「走水低砲台跡」散策(横須賀)

横須賀の走水。
古くは、日本武尊と弟橘媛命の伝説の地「御所ヶ崎」(旗山崎)として知られている当地は、江戸期には「走水番所」が置かれ、そして幕末には「旗山崎台場」が設けられた。
明治19年(1886)には、陸軍によって半円形の低砲台が築かれ「走水低砲台」として跡が残っている。
近年、横須賀では今まで未公開であった砲台跡の整備がすすみ、一般公開・見学ができるようになったので足を運んでみた。


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御所ヶ崎

横須賀風物百選

日本武尊 弟橘媛命 伝説の地 御所ヶ崎
古事記・日本書紀によれば日本武尊(やまとたけるのみこと)が東国征伐のおり、走水から上総(千葉)へ船で渡ろうとした時、海が荒れて進めず弟橘媛(おとたちばなひめ)は海神の怒りを静めるために身を投じ荒れ狂う海を鎮めました。
地元伝承によれば武尊がこの地に臨時の御所を設け軍旗を立てたことから御所ヶ崎、旗山崎と呼び弟橘媛は御所ヶ崎先端の「むぐりの鼻」 に次女たちと共に身を投じたと伝わります。港には尊が海を渡るときに乗船したといわれる寺島(御座島)の名があります。
《古東海道》
日本武尊の東征の道は古東海道といわれ足柄峠を越えて相模国に入り三浦半島を横切って衣笠宗源寺・天神坂辺りから安房口神社、小原台・走水から上総へ渡る道順と考えられています。
 大津行政センター市民協働事業・大津深訪くらぶ

走水番所・旗山崎台場跡
天正18年(1590)徳川家康が関東に入封しました。
その後、船手衆である向井一族に明治走水に御船番を置き、向井政良は御船番、走水奉行を務め、後に三崎奉行・向井忠勝が兼任しました。三崎では上り船を、走水では江戸に下る船を検査しました。今も同心町海岸の名があります。
天保14年(1843)川越藩が江戸湾海防のため台場を築いた所で、六挺の大砲を配備し異国船の侵入に備えました。
明治19年(1886)旧陸軍によって築かれた半円形の低砲台が前方の松の木に現在も残されています。
旗山崎の名は日本武尊(やまとたけるのみこと)が上総(千葉)に渡る時海が荒れて進めず臨時の御所を設け軍旗を立てたことに由来します。
 大津行政センター市民協働事業・大津深訪くらぶ


走水低砲台跡

走水低砲台跡
走水低砲台跡とは?
 走水低砲台は、明治18年(1885年)から19年(1886年)に陸軍によって建設された砲台です。27cm可農砲4門を備え、東京湾要塞を構成する砲台の一つとして首都東京を守る任務にあたりました。
 日清、日露戦争とも交戦することはなく、また関東大震災で被害を受けましたが、その後、横須賀重砲兵学校の演習用砲台として復旧し、終戦まで稼働状態にありました。現在も良好な状態でほとんどの遺構が残っています。
 走水周辺は東京湾の内湾が房総半島と近接して最も狭くなる場所に位置し、江戸時代後期には旗山崎台場が築かれ、明治時代には低砲台のほかにも走水高砲台、小原台堡塁、花立台砲台が築かれるなど海防の重要地点でした。走水低砲台が建設された丘を含む岬一帯を示す「御所ヶ崎」や丘の周辺を指す「旗山崎」という地名は、古事記・日本書紀に伝わる日本武尊と妻の弟橘媛の伝説に由来しています。
 横須賀市の歴史、文化、自然を「ルート」でつなぎ、市内全体を大きな「ミュージアム」として楽しむ「よこすかルートミュージアム」のサテライト施設でもあります。

兵舎の左右に弾薬庫がそれぞれ。
弾薬庫の左右に、砲座(第一から第四まで)がそれぞれ。
そして左翼観測所の遺構が残されているようだ。

一般公開は祝日と土日のみ、門扉が開放される。


弾薬庫(左翼)

まずは最初に弾薬庫が見える。
左翼の弾薬庫の奥には第四砲座と第三砲座がある。

走水低砲台の構造
 海岸に突出した海抜約20mの低丘上に4つの砲座が並び、27cm加農砲が設置されていました。
 4つの砲座の中央には地下式の兵舎(掩蔽部)を設け、第一砲座と第二砲座の間に共通の地下式の弾薬庫、第三砲座と第四砲座の間に同じく共通する地下式の弾薬庫が設置されています。

砲弾供給の仕組み
 砲座間の横檣(=防弾用の土塁)の下に設置された弾薬庫からは、左右の揚弾井を使用して地上の砲座に砲弾を供給しました。引き揚げられた砲弾は各砲座の弾室に納められ、射撃に備えました。
 2つの砲座は高塁道で連絡し、その中間には小隊長掩壕が造られ、両側の砲座に指示を出すことができました。

左翼の弾薬庫は、外からの見学のみ。


兵舎(兵員棲息部)

左右の弾薬庫の間には、兵舎がある。中に入れます。

ここに兵隊さんが待機していたのだろうが、収容人数はどのくらいなのだろうか。

左右の砲座と弾薬庫に繋がる道。


弾薬庫(右翼)

右側の弾薬庫。開放されている。

内部は、左右にわかれている。
右側は第一砲座、左側は第二砲座。

揚弾井
弾薬をここから引き揚げる。

弾薬を引き揚げる場所。
揚弾井
揚弾機の金具も残る。


第一砲座

砲座を第一から順番に見ていく。
見学用に見事に整備されている。

中央に、27cm加農砲が置かれていた。

海が見える。


速射加農砲座

9cm速射加農砲のアンカーボルト。4つ残っている。
横須賀陸軍重砲兵学校の演習用として、南門砲台(観音崎・関東大震災で大破除籍)の九糎速射加農砲4門が移設されたという。

1つ目。

東京湾要塞の砲台。
竣工順に32砲台が記載されている。走水低砲台は7番目。


第四砲座

見学用にきれいに整備されている。


左翼観測所

左側の観測所の基礎が残っている。
左翼があるなら右翼もと思いたいが、右翼は消失したのかな、、、。


第三砲座

樹木に覆われているが、第三砲座。


第二砲座

基本的には、同じ作り。

4つの台座と、2つの弾薬庫と、兵舎と、とても綺麗にのこっている、大変貴重な空間。ゆっくりと見学できたということもあり、ここは必見ですね。

撮影:2022年8月


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東京湾防衛ラインの一翼を担っていた砲台

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