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護れ傷兵 忘るな武勲「傷兵院」(巣鴨公園)

平和元年7月

先日、巣鴨に用事があった際に、ちょっと脚を伸ばして訪れてみました。

大塚駅と巣鴨駅の中間に位置する公園「巣鴨公園」。
ここに、かつて傷兵軍人のための療養所があった。

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傷兵院跡地(廃兵院跡地)
巣鴨公園

傷兵院舊址
護れ傷兵 忘るな武勲
陸軍大将男爵本庄繁書

関東軍司令官や侍従武官長を歴任した本庄繁は、二・二六事件後の1936年(昭和11年)3月、待命となり翌4月に予備役編入。軍を退いてからは1938年(昭和13年)4月に新設の傷兵保護院総裁、1939年(昭和14年)7月から軍事保護院総裁に就任している。


「廃兵院」は、日露戦争により、四肢の欠損や脊髄損傷などの重傷を負い、社会復帰が困難で身寄りのない者を収容する施設であった。

日露戦争直後の明治39年(1906)に、「廃兵院法」によって戦傷病兵を国で扶養することを決定し、明治40年に東京予備病院渋谷分院の一画に「廃兵院」が設立。明治41年(1908)に渋谷から巣鴨に移転。

大正12年(1923)、廃兵院法の改正が行われ、陸軍省から内務省に移管。
昭和9年(1934) 、「廃兵院」は「傷兵院法」により「傷兵院」と改称。
昭和11年(1936)、巣鴨の地から現在の小田原市風祭へと移転。東京巣鴨周辺の都市化が進み、療養環境が維持できなくなったための移転という。
昭和13年(1938)、厚生省の設置とともに、傷兵院は厚生省の外局として発足。「傷兵保護院」に所属。
昭和14年(1939)、傷兵保護院は事業拡大し、「軍事保護院」と改称。

昭和15年(1940)、軍事保護院は「傷痍軍人箱根療養所」を併設。当時、臨時東京第1病院に入院していた支那事変による戦傷脊損患者を収容した療養所であり、国内唯一となる脊髄損傷専門の「療養所」であった。
これは、箱根病院が、全国唯一の「国立精髄療養所」に分類されている由来でもある。

昭和20年(1945)、終戦とともに傷痍軍人箱根療養所は厚生障害教区の医療局に所属。「国立箱根療養所」と改称。軍事保護院(傷兵院)は廃止。「国立箱根療養所」が所管を継承した。

昭和39年(1964)、東京パラリンピック開催。
箱根療養所からは日本代表選手53名のうち19名もの選手が出場。
そのうち傷痍軍人(傷病兵)出身は7名であり、選手宣誓を行った青野選手も戦地で傷つき箱根療養所で療養していた御方であった。

昭和50年、「国立療養所箱根病院」と改称。
平成16年、「独立行政法人 国立病院機 構箱根病院」に組織変更。
平成20年(2008)、最後の傷痍軍人の入院が終了となった。


時系列地形図閲覧サイト「今昔マップ on the web」より。

時系列地形図閲覧サイト「今昔マップ on the web」は、新旧の地形図を多数収録し、並べて比較するWeb地図サービスです。

大塚巣鴨界隈。


巣鴨公園には、ここが旧跡であったという石碑のみが残る。

本庄繁の書。


しょうけい館
(戦傷病者史料館)

戦傷病者が体験した戦中・戦後の労苦を語り継ぐ施設。巣鴨の「廃兵院」から箱根の「傷兵院」「箱根病院」へと連なる戦傷病者の記録が展示されております。無料であれど充実した内容は一見の価値あり。
九段下駅すぐ近く。「しょうけい館」「昭和館」「靖國神社・遊就館」とあわせて見学するのも良いかと思います。

しょうけい館は、戦傷病者とそのご家族等が戦中・戦後に体験したさまざまな労苦についての証言・歴史的資料・書籍・情報を収集、保存、展示し、後世代の人々にその労苦を知る機会を提供する国立の施設です。

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