サイトアイコン 近代史跡・戦跡紀行~慰霊巡拝

錦着山護国神社(栃木市)

栃木駅から、歩いていける場所に、ちょっと気になる神社があったので、足を運んでみた。

社殿の脇にたつ記念燈台がひときわに存在感を放つ錦着山護国神社。


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錦着山護国神社

栃木県の初代県令鍋島幹が、戊辰戦争・西南戦争(明治10年)の戦死者を祭り、忠魂を慰めるために、招魂社(栃木招魂社・私祭招魂社)の建立を検討。
明治11年(1878)に起工し、明治12年9月に社殿・社務所が完成。
明治17年(1884)に、栃木県庁が栃木町から宇都宮町に移転するとともに、管理は栃木県から下都賀郡へ移管となり、その後は栃木町への移管となっている。
大正10年(1921)に、栃木町長と帝国在郷軍人会栃木町分会で協議の結果、日清戦争日露戦争の下都賀郡出身の英霊を合祀。
昭和14年(1939)に、招魂社制度の改正となり「錦着山護国神社」と改称。
その後、上海事変・満州事変・支那事変・大東亜戦争の英霊も合祀し、下都賀郡の8300余柱を祀っている。
なお、招魂社としての官祭招魂社は、宇都宮招魂社(栃木県護国神社)と黒羽招魂社の2社のみ。
栃木招魂社(錦着山護国神社)は、私祭招魂社とされる。

ちなみに、錦着山とは、巾着の形ににているからとも、つつじが満開の頃は錦を着ているように美しいことからとも名前がつけられたとされている。

栃木市観光協会

栃木県観光物産協会

大鳥居は、大正12年(1923)11月帝国在郷軍人会下都賀郡連合分会の建立。

社号標は一度折れてしまったようです。

「錦着山護國神社」名称での社号標

参道途中の鳥居。

神額には「招魂社」と記載あります。謹書が誰かは読み取りできず。

両脇には、「獅子の子落とし」の阿吽の狛犬。
帝国在郷軍人会栃木市総合分会の奉納。昭和13年8月。

錦着山護國神社御社殿(拝殿)

合掌

至誠の扁額。謹書は読み取れず。

錦着山護國神社御社殿(ご本殿)

錦着山護國神社社務所。年季が入っている。


日露戦争記念燈台

社殿の向かって右隣りに高くそびえる「燈台」。
詳細は不明であるが、日露戦争を記念して建てられたものという。


栃木市海友会の碑(同期の桜碑)

昭和46年5月27日の建立。海軍記念日の建立ですね。

大日本帝国海軍
貴様と俺とは同期の桜
同じ海兵団の庭に咲く
栃木市海友会

錨と桜

海軍旗(旭日旗)

碑のことば
我々は日本の海を護って戦った。平和のために。
貴様と俺と呼びあい相擁して戦いの歌を若い血潮のたぎりの中に歌いあげた。
はげしく厳しかった、その道を何時も我々は支え堪えた。
眼を閉じるとその励まし慰めあいの戦いの日々が胸を往き来して果てしない。
平和が続いている。何時までも続けなければならない。
其の為にあの嵐の中に命を賭けてかち得た、ちえを感激にとかして持ちよろう。
関東の山野に風薫る朝、同期の桜、相寄りて此の碑を建つ。
 昭和46年5月27日
  栃木市海友会会長 森戸清一郎


栃木市海友会の碑(七つの海は桜に錨碑)

栃木市海友会
創立15周年記念
昭和52年五月27日設置
七つの海は桜に錨
海友会長 森戸清一郎かく

海行かば
 水漬く屍
山行かば
 草むす屍
大君の辺に
 こそ死なめ
返り見はせじ


奉祝 御大典紀念碑

下都賀郡傷痍軍人會
昭和3年閏戊辰11月10日建之


日露戦役忠魂碑

伏見宮貞愛親王殿下謹書。
明治41年12月20日竣工。


支那事変大東亜戦争 戦歿者慰霊碑

栃木市青年学校同窓会
昭和38年9月24日建之


記念塔

詳細不明。銘板等は外されたような形跡あり。

ちょっとした山。
三等三角点がある。
標高80.45m

記念燈台は、道路からもよく見える。

栃木駅からは、徒歩約20分。

場所

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