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五所神社境内社「頌徳社」・湯河原小学校奉安殿(湯河原)

湯河原に鎮座する「五所神社」(旧社格は郷社)の境内に鎮座する「頌徳社」は、かつては「奉安殿」であった。


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奉安殿(御真影奉安殿)

奉安殿とは、戦前において
天皇陛下
皇后陛下
の御真影(お写真)と教育勅語を納めていた建物。
当初は職員室や校長室に奉安所が設けられていたが、被災による危険を防ぐために、金庫型や独立した奉安殿としての建設がはじまった。小型ながらに耐火耐震構造とされてものも多く、威厳を備えた荘厳重厚なデザインの建造物が多い。
戦後、奉安殿は廃止され解体や撤去が行われるが、その頑丈な建造物が戦災で焼失した神社社殿などに再活用もされ、現在に残っている例もある。


湯河原頌徳社

元は、湯河原小学校の奉安殿であったという。奉安殿としての由来は不詳。
昭和21年9月24日、奉安殿を移設し、祖霊社として創立された。
旧湯河原及び熱海市泉から出征した戦没者301柱と郷土の自治功労者200余柱を祭神としている。

湯河原頌徳社

湯河原頌徳社
神奈川県足柄下郡湯河原町宮下三五九-一

一、祭神
明治以来郷土湯河原(旧湯河原町=奥湯河原、湯河原、宮上、宮下、城堀、門川)及熱海市泉(本区、五軒町、中沢)より出征し祖国防衛に挺身、散華した殉国の士三〇一柱と郷土の発展に尽した先賢(自治功労者)二〇〇余柱

一、由緒
大東亜戦終結直後の昭和二十一年九月二十四日心ある有志の熱意により祖霊社として創立、昭和二十五年三月二十一日奉賛会を結成、同年五月十九日五所神社境内社として神社本庁の認証を受く、昭和五十一年八月十九日創立三十周年を記念して大忠魂碑の東側より現在地に社殿を移転、頌徳碑及社号標を建立、大忠魂碑並頌徳碑裏面に祭神名を刻みその栄誉を称え境内外の整備拡充をした

一、例祭並合祀祭
毎年四月二十九日(以前は春分の日・昭和五十二年より四月中、下旬の日曜日)

14弁の菊の御紋。十四菊。

頌徳碑


忠魂碑(五所神社境内)

大きな忠魂碑が、隣接して鎮座している。

灯籠には文字が刻まれている。

千載不朽
芳名萬古
陸軍大将男爵本庄繁書

千年ののちまで朽ちない、永久に名を残す、の意味。
本庄繁が、侍従武官長時代の昭和10年の建立。

忠魂碑
陸軍大将本庄繁書

昭和10年5月27日に軍友会によって建立。日露戦争の戦没者を祀る忠魂碑。
のち、昭和51年5月19日にその後の大東亜戦争の戦没者が追記され合祀されている。

明治三十七八年役戦歿者碑


以下は付記として。

五所神社(湯河原)

ご本殿は、神奈川県指定重要文化財
元和七年棟札

明神の楠

五所神社のクスノキ、御神木。


湯河原駅


土肥氏館跡

湯河原駅前。
源頼朝の石橋山の戦いに参じた土肥実平ら一族。


養生園の碑(東郷平八郎)

湯河原の熊野神社の境内に。

養生園の碑
明治38年、日本海海戦でロシアのバルチック艦隊に完勝しその名を世界に知られた東郷平八郎は、帰国後、湯河原の大倉孫兵衛の別荘に滞在し、温泉療養をしながら別荘の庭園「養生園」で英気を養いました。
東郷は、養生園について漢文で次のような感謝の意を表し、孫兵衛に残しました。
 大倉翁孫兵衛自ら資を投じて、此の仙境を開き、
 衆と之を楽しむ。
 余既に園の風勝を愛し、
 今又翁之人となりの淡雅なるを喜び、
 遂に筆を抽きて之の為に記す。
石碑上部の横書きの「養生園」の文字は東郷の真筆を刻し、本文は高千穂学園教官・丹所啓行の書による楷書体を刻しています。

東郷平八郎筆の「養生園」


熊野神社

湯河原温泉の神様。

手水は温泉源泉。


湯河原温泉

湯河原温泉は万葉集に、「足柄の 土肥の河内に 出ずる湯の 世にもたよらに 子ろが言はなくに」と詠まれている古い温泉。

万葉歌碑

湯河原温泉街を流れる藤木川。

湯河原町町営の「こごめの湯」。
2・26事件の光風荘の近く。

温泉タヌキ
湯河原温泉の伝説。

狸福神社

温泉タヌキを祀る神社。


坦々焼きそば

湯河原温泉の伝説から生まれた、湯河原名物の坦々焼きそば。

撮影:2023年2月


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