サイトアイコン 近代史跡・戦跡紀行~慰霊巡拝

岩手護國神社

岩手県盛岡市。盛岡八幡宮と並んで、岩手護國神社が鎮座している。
立ち寄る機会がありましたので、参拝してきました。

御英霊に感謝を。


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岩手護國神社

岩手県ゆかりの殉国の御英霊を祀る。
約3万5800余柱。
岩手縣護國神社ではなく岩手護國神社。「県(縣)」がつかない社号は珍しい。
明治2年(1869年)11月2日創建。
明治39年(1906年)、岩手護國神社は岩手郡東中野村茶畑から盛岡八幡宮の境内に移設されている。

神前結婚式・お宮参りや七五三などの人生儀礼をはじめ、ご祈祷・お祝い・厄払い等承ります。盛岡八幡宮例大祭も秋の風物詩として盛岡に根付く行事です。

岩手護國神社
御祭神
岩手県ゆかりの殉国の御英霊
御由緒
当神社は、明治天皇の畏き思し召しのより、明治新政の夜明け勤王の大儀を固守し国事に殉ぜられた郷土の勤王の志士 目時隆之進命・中島源蔵命の二柱の御霊を祀る為明治二年十一月二日岩手郡東中野村茶畑の地に時の盛岡蕃知事南部利恭により創建されました。
その後、西南戦争、日清日露の両戦役、そして大東亜戦争等幾多の事変戦役で、我が国の平和と繁栄を念じつつ尊い生命を御国に捧げられた、岩手県ゆかりの御英霊三万五千七百余柱がお祀りされています。
 明治十四年、当時の内丸公園地に遷座されましたが、明治三十九年にはその社地を県社八幡宮の境内に求め遷座されました。更に、昭和十四年には境内地を拡張して、神明造様式による新たな大社殿が造営され、現在に至っております。
天皇皇后両陛下(昭和天皇)には、昭和45年10月13日、本県で開催された国民体育大会御臨場の行幸啓の砌り、畏くも当神社に幣饌料を御奉納の上、御親拝あらせられました。

岩手護國神社
御祭神
殉国の御英霊
(令和4年現在)
三万五千七百八十五柱
相殿一柱

広々とした境内

左の燈籠には「照闇(しょうあん)」
右の燈籠には「揚輝(ようき)」

昭和10年4月建立

照明燈
愛国婦人会解散記念として昭和18年3月31日に石灯籠、参道敷石、階段を奉納。

岩手護國神社

社号額

参拝

岩手護國神社御朱印
盛岡八幡宮で頒布しております。

東北3県、福島・宮城・岩手の護國神社の御朱印。


鎮魂
歩兵第三十一連隊戦歿者将兵一同之霊

鎮魂
南部ルソン島マニラ東・西地区 
 昭和20年1月~9月
振武集団第8師団
歩兵第三十一連隊戦歿者将兵一同之霊
 歩兵第三十一連隊岩手会

建立趣旨
 日本民族の繁栄と郷土の幸福を一途に遠くは日露戦争より太平洋戦争に到るまで散華された数多くの郷土出身戦死者の事蹟を永久に忘却してはならない。終戦五十周年にあたり御霊の奉安と恒久平和を祈念し関係諸団体と相謀り多くの御賛同と尊いご芳志により鎮魂の碑を護国の社に建立した次第であります。
 平成七年九月吉日
  歩三一岩手会


ビアク支隊戦歿者顕彰碑

ビアク支隊戦歿者顕彰碑
 内閣総理大臣 大平正芳 書

ビアク支隊戦史
 ビアク支隊は太平洋戦争のさなか北支山西省よりニューギニア、サルミ地区に派遣された第36師団(雪部隊)の中、ビアク島に分遣された歩兵第222連隊(雪3523部隊即ち葛目部隊)とその配属諸隊により構成された11,267名の混成部隊であり、葛目部隊と少数の海軍部隊の他は、飛行場設定隊、開拓勤務隊等の軍属を主とする非戦闘部隊であった。
その基幹を成す葛目部隊(3,815名)は、岩手県人を主体とし、青森・秋田・山形出身の東北健児並びに全国各県より選ばれた精鋭部隊であった。
 昭和14年3月雪部隊創建以来、幾多の輝かしい戦績を北支の山野に残して、戦雲急を告げる南海の要衝ビアク島に急遽派遣されるに至ったのは、戦局の頽勢いよいよ深まりつつあった昭和昭和18年の暮れのことであり、ガダルカナルに勝利を収めたマッカーサー麾下の連合軍が余勢を駆ってまさに怒涛の如くニューギニア北岸を西進北上中の時であった。
この優勢な連合軍の進攻正面に敢然と立ち向かったのが即ちビアク支隊である。
まる1ヶ月に亘る間断なき爆撃の後、連合軍は突如昭和19年5月27日の早暁約40隻の艦船と空を蔽う戦爆連合の大編隊支援の下に、水陸両用戦車を先頭に夥しい上陸用舟艇を連ねて雲霞の如くビアク島南岸に殺到した。 満を持して待機せる我が軍はこれを水際に邀撃し、随所に悽惨な白兵戦が展開され、ここに濃密なビアク攻防戦の幕が切って落とされたのであった。 以来制海権・制空権ともに無きビアク支隊が寡兵よく衆敵に抗し、用兵の妙を発揮して3万の敵大軍を小島の一隅に釘付けにして絶え間なき攻撃を敢行し、二度三度敵を海中に追い落としてその第一の目標とする飛行場の使用を許さなかった。  これがため、遂に敵将は戦闘のさなかに更迭されるに至りビアク支隊の目覚ましい勇戦敢闘は全軍の模範と謳われて度々感状を授与されたである。 しかし、戦力の消耗甚だしく、しかも援軍は続かず、遂に連日連夜の死闘に刀折れ矢尽きて部隊としての組織的戦闘は継続不能となり支隊長陸軍中将葛目直幸は、支隊本部の西洞窟脱出に当り軍旗を奉焼し、7月2日天水山に於て引責自決したのであった。
 同年7月25日「ビアク支隊は玉砕することなく極力ビアク島に健在し、現地自活を徹底しつつ次期攻勢を準備すべし」との持久命令を受け、生き残った将兵は「次期攻勢」を固く信じて、後日の再会を誓い、それぞれ生きんがための糧を求めて痩躯に鞭打ち、あてどなき密林に分散したのである。 しかしながら、生き残った者のすべては既に体力消尽し、熱帯病の患者たるか或は負傷者たるか、いずれも健全な者とては無く、執拗な敵の進撃と厳しい自然との闘いに、その殆んどがあたかも大地に吸われる水の如く戦場の土に帰したのであった。
かくして戦後生きて祖国の土を踏んだ者は、捜索隊により救出された者並びに戦中現地住民又は連合軍により救出収容された者、或は島外に分遣されて、ヌンホル島その他の地区に於て万死に一生を得た者、合わせて520名を数えるのみであった。
 戦後すでに34年、今や我が国が世界にその繁栄を誇り、平和と自由を謳歌出来るのも、前線に銃後に今次大戦の幾多数知れぬ尊い犠牲の上に築かれたものであることを忘れてはならない。
その一典型として、酷寒の北支に、はた又炎熱と瘴癘の南溟の孤島に精強なるが故に常に祖国防衛の最前線に身を挺して遂に護国の神と化したビアク支隊戦没諸氏の崇高な殉国の史実を記憶されんことを切に希うものである。
 これ、この度御遺族の御支援を忝うし、共に砲火を潜り、共に草の根をかじって辛くも生き残った戦友一同心から平和の尊さを思い、悲惨な過ちを二度と繰り返さざることを祈念し茲に碑を建立する所以である。
 ビアク島その名忘れそみちのくの
  ますらたけおの聖き奥津城
      昭和54年5月27日
         ビアク戦友会

西南太平洋図

戦歿者遺骨奉安殿


天皇陛下 皇后陛下 御親拝記念碑

昭和45年10月本県で開催された第25回国民体育大会秋季大会にご臨場のため両陛下が行幸啓の御砌り同月13日午前10時2分畏くも当岩手護國神社へ聖籠を進められ幣饌料を御奉納のうえ御親拝あらせられたことは千載一遇の栄誉であった
以ってここに無上の光栄を後世に伝えるためこの碑を建てたものである。
 昭和46年10月13日
  岩手護國神社宮司 北田喜七郎敬白


平和の塔


岩手県戦没者遺品館

残念ながら閉館中でした。


明治天皇像(盛岡八幡宮)

御聖像奉建之詞
謹んで顧うに 明治御維新の大業は洵に今日日本国進展の基礎である
明治天皇御歳16歳にして御即位あそばされ御在位46年常に御躬を以て衆に先んじ聖明親しく国運拓開の萬機を総攬せらる ご聖徳は赫々として日月の如く御聖訓は昭々として萬世を照させ給う 恪も明治9年7月7日東北巡幸の砌り畏くも
天皇親しく岩手県産馬御台覧の地盛岡八幡宮の境内に御聖像を奉建して永く御聖徳を景仰し奉らんことを希い奉ります
                       謹白再拝
昭和50年9月10日
 明治大帝聖像奉賛協会 会長 榊原孝

明治大帝聖像

明治天皇産馬展覧聖阯


盛岡八幡宮

旧社格は県社。現在は神社本庁の別表神社。
盛岡総鎮守。
創建は、康平5年(1062年)、源頼義の安倍氏討伐に際して、岩清水八幡宮を当地に勧請したことにはじまる。

※撮影:2023年8月


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