サイトアイコン 近代史跡・戦跡紀行~慰霊巡拝

静岡縣護國神社(駿府静岡の戦跡散策・その3)

静岡県静岡市。
東海地区の要所である駿府城を中心とした静岡市内の戦跡散策をしてみました。

本編は、「その3」です。静岡縣護國神社に赴きました。

その1はこちら。

静岡県静岡市。東海地区の要所である駿府城を中心とした静岡市内の戦跡散策をしてみました。 本編は、「その1」です。 ...

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靜岡縣護國神社(静岡縣護國神社・静岡県護国神社)

静岡縣護國神社は明治32年11月13日「共祭招魂社」として静岡市北番町に創立.。
明治維新から大東亜戦争(太平洋戦争)に至る国事にたおれた静岡県出身者並びに縁故ある戦没軍人、軍属の英霊7万6千余柱を祀る。
昭和14年4月1日に靜岡縣護國神社と改称、昭和17年10月8日に現在地に移転。

御英霊に感謝を。
ありがとうございます。

御朱印。

平和の道標

ありがとうございます

社号標は、昭和17年の建立。

陸軍大将 鈴木孝雄の謹書。


静岡県戦没戦災死者慰霊標(納骨堂)

明治維新から大東亜戦争に至る、静岡県戦没者7万6千余柱の慰霊顕彰の碑と納骨堂。

この霊域は明治維新以来太平洋戦争に至る間に国のために命を捧げたもの及び戦禍のために倒れた人々の霊を慰めその遺芳を後世に傅えるために
県民の総意によって構想せられたものである
 こヽに戦争によるあらゆる思出を収めこれに参するものに新らたな愛國の精神を振い起たせ平和日本興隆の象徴としたい念願である
 昭和二十七年十一月三日
  財団法人 静霊奉賛會長  静岡縣知事 齊藤寿夫誌

終戦50周年平和祈念事業改修記念碑  
 平和への誓い
  平成7年4月  静岡県知事 石川嘉延

総務省>


嶽南神社の鳥居と社号標
(静岡歩兵第三十四聨隊内神社)

駿府城址に駐屯してた陸軍第三十四聨隊の嶽南神社の鳥居と社号標。社号標は近年の調査で見つかった模様。
無事に静岡県護国神社に移築となったのは、よかったです。

太平洋戦争中に駿府城公園(静岡市葵区)に駐屯していた旧日本軍が建て、戦後になくなった神社の石柱が、同公園内に放置されている。旧日本軍は...

鳥居について
この鳥居は駿府城跡に駐屯していた陸軍第三十四聨隊(静岡三四聯隊)の隊舎横に鎮座した嶽南神社の鳥居だったものです。
聯隊将兵はこの神社で武運長久と戦勝を祈願して出征、特に数万の兵士達の素朴な願いと心のよりどころの神社でありました。
昭和20年に長く激しい戦いが終わり、駿府城址も一変して都市公園として新時代の姿へと移り変わることとなり、中町及び神社地元世話人有志によって、終戦三十周年を記念して鳥居がこの招魂場前に移築されました。

社号標(遺物)について
終戦後に役目を終えた嶽南神社は廃祀されて社殿は他に転用とも伝わり、右のとおり鳥居はこの場所に移築、「嶽南神社」の社号標は行方が詳らかではなく、駿府城址の調査で発見されて、このたび由来を同じくする鳥居の脇に移設いたしました、
戦時中のこと、嶽南神社や招魂場と戦没将兵のことを偲んでいただけますと幸いです。

嶽南神社

一八八二年発布の「軍人勅諭」の下賜五十年を記念し、一九三二年に建立された社号標

勅諭下賜五十年記念
 昭和7年4月24日建之

荒木貞夫 敬書

狛犬の台座には、昭和14年の記載あり

昭和14年10月


招魂場(招魂斎場)

招魂場について
静岡縣護國神社の御祭神である戦没者の御霊は、御羽車をこの招魂場に安置し、淨闇の中で招魂祭を斎行して本殿へ奉遷します。
昭和十七年当神社が移転遷座してより毎年、招魂祭を斎行してきたところです。

今日でも当時の死亡や時間が経ってからの病没などを「戦没」と認定される方があり、合祀祭が執り行われるが、社殿に一隅を仮招魂場として祭祀を行っており、招魂場の使用は無くなっている。

神池


拓魂碑

満州開拓の犠牲者慰霊顕彰

あゝ拓魂
 民族の悲劇に散った 満州開拓の霊やすかれと祈りをこめて護国の英霊を祀る神域に拓魂の碑を立つ
 五族協和道義世界建設の理想のもとに永遠の平和を希がった君たちは国家と運命を共にし国策に殉じたのである
 かって日本の生命線とまで叫ばれた赤い夕陽の満州に眠る君たちを憶うとき雄図空しく歴史の断層に斃れた非命の痛恨の涙はつきない
 日本人として この前に ぬかずくとき新たな民族の使命を感じ君たちの遺志を無にするなく自由と平和の道を拓くことを誓うものである。
 開拓精神は創造発展の真髄真理探究の道である 君たちの永遠の生命を信じ冥福を祈る
  昭和四十九年四月二十三日 
   静岡県知事  竹山 雄太郎

建立の由来
 満州開拓とは現在の中国東北地区に五族協和王道楽土道義世界創建の大理想のもとに生まれた満州国に国造りの基盤としてこの地に眠る広大なる未墾の沃野に大量の移民送出が国策として推進された大規模農業開発の事である。
 満州建国より太平洋戦争の終結に至るまでの十有三年間全国から実に三十二万余人本県から開拓団・満州開拓青少年義勇隊併せて六千五百二十余名の入植を見たが昭和二十年八月十五日祖国日本の無条件降伏、満州国の崩壊により悲運の幕を閉じたのである。
 農は善なりの素朴な哲学に徹し聖業の名のもとに土の戦士として不撓不屈の開拓精神をもって村創りに精進これに努めたのであるが、あたらその血と汗と涙の成果は歴史の断層に難民と化し非命に斃れた者約八万有余人 本県人も千六百七十余名に及び 実に世界植民史上空前のj悲惨たる終末を迎えたものである。
 時流れて二十八春秋日中国交正常化を契機に昭和四十八年九月合同慰霊祭並びに総決起大会を県の後援を得 駿府会館に於て挙行し大会決議によって拓魂碑を建立することになった。
 爾来相寄り回を重ね慎重に協議の結果護国神社静霊奉賛会の厚意と県当局県下市町村の協賛助成を賜り一般多数の協賛浄財と会員の拠出金により本県送出の全物故者を奉祀し永く拓魂を顕彰し 併せて慰霊供養の誠を捧げ不滅の開拓精神を後世に伝え 戦争なき真の平和への希いをこめて茲に拓魂碑も建立を見たのである。
  昭和五十年四月二十日
    拓魂碑建立委員会

大陸は呼ぶ
一、
俺も行くから君も行け
北満州の大平野
広漠千里果てしなき
自由の天地我を待つ
二、
望む彼方は高梁の
丘吹く風となるばかり
あゝ大陸の空を飛ぶ
捨て身の雲の翼かな
三、
生きて帰らぬ命ぞと
誓いてかたきこの胸に
高鳴り躍る大和魂
熱血今ぞ溢れける


愛の灯

日本赤十字社静岡県支部救護員戦没者の慰霊顕彰

昭和十二年以降の戦時事変等に際し赤十字の旗のもとに日本赤十字社静岡県支部救護員として応召し国の内外において傷病者の救護に献身し博愛と奉仕の使命に殉ぜられた方々の遺徳を偲び その御霊のとこしえに安かれと祈りてこの碑を建立しました
平和のいしづえとして尊い命をささげられた私どもの同胞がこよなき誇りを抱きつつかかげた愛の灯の偉大さをしのび ふたたびこのような悲惨なことがないようにと念願しこれを後世に永く伝えようとするものであります。
 昭和五十年十月吉日建立
 日本赤十字社静岡県支部長 山本敬三郎
 日本赤十字社看護婦同方会静岡県支部長 小山シヅ
  殉職救護員芳名(25名の御芳名)

捧従軍看護婦戦没者霊  大野恵造
 朔北僻南砲煙間 
 看護傷兵自亦散 
 殉国婦是万輪花 
 気魄凛凛似白梅

詩意
 従軍看護婦は北方へ南方へと派遣され、大砲の弾幕の中で、傷ついた兵隊さんの救護にかいがいしくあたった。しかし、その中で万輪の花が散るように、お国の為に多くの看護婦がむなしく散っていった。その気力はりりしく強く、寒風に芽を吹き美しく花を咲かせる白梅のようであった。

愛の灯
 この詩は、従軍看護婦として南北戦線へ派遣され傷病将士の救護にあたり、人道的任務に尽し、不幸にして戦死或は戦病死していった人々をたたえた詩で、静岡県護国神社境内にある「愛の灯・殉職救護員慰霊碑」の除幕式並びに慰霊祭執行にあたり、詩吟朗詠錦城流流祖・山本錦城先生が大野恵造氏に作詞を依頼、流祖作曲の上、昭和五十年十一月二十三日碑前に於いて吟詠された。
 日本赤十字社看護師同方会静岡県支部長
  長嶋芳子
   平成15年11月2日


鎮魂碑(比島派遣)

鎮魂
比島派遣独立歩兵第百六十四大隊
元独立守備歩兵第三十二大隊

 顧みれば昭和十七年春のころ祖国をあとに征途につき比島セブ島攻略戦に参加以来ヒサヤ諸島、ミンダナオ島各地に転戦昭和二十年四月本軍のダバオ来攻より半年ダバオ平地北部山岳地に死闘を重ね部隊の大部を失いて遂に終戦詔勅を拝す。我等死すべき命を永らえて俘囚の身となり、國に殉ぜし戦友をマツキンレト麓野に残して故国に送還されしより三十有余年を経たり。
 時は流れせば移りて今や日本は先進国と称せられ平和国家として繁栄しり。今にして昔日を偲び将に隔世の感甚だし。身を安寧に置きて帰らざる戦友を憶い遺族の身の上におもいをいたすとき断腸の念切なり。往年我等嘗ての戦場たりもセブホホールミサミス等に旅してこの地に散華せし英霊の安らからんことを祈り更にダバオの地に草むす屍を故国に迎えんとしてインダガンウラ、ギャンカ、ベリサリオラサソン等ダバオ平地を始め遠くクモガン草原、ウピヤンバルマの山岳地にバコボ族アタ族等現地住民の協力を得て野山を分ち探し求るも、二十余年の歳月は当時と著しく趣を異にしてその収集は意の如くならず。
 悄然としてタモガン草原に立ち戦友の名を呼べど応えるものとてなく慟哭して踵を返さんとすればモントーの山波に雨雲の去来するあり。我等徒に歳を重ねて既に秋露梧桐葉落つる時。英霊に応えんとして力及ばず。
遺族に酬いんとして才足らず。ただ愛惜の情切々として胸に迫るのみ 茲にその壮烈を永く世に伝えんことを願い英霊の異境に彷徨して鬼哭啾啾することなくこの地に鎮まらんことを希いてこの碑を建つ。
  昭和五十七年三月十四日
   独立歩兵第百六十四大隊戦友一同

部隊の略歴


慰霊碑ノモンハン事件

ノモンハン事件
慰霊碑
元第二十三師団参謀陸軍大佐 鈴木善康書

鈴木善康は、静岡出身。陸軍大佐。士候33陸大専科5。
第23師団はノモンハン事件で壊滅的な損害を被った。

慰霊碑の由来
 この碑はノモンハン事件に従軍して散華した戦友の慰霊のために建立したものである。
 ノモンハン事件は昭和十四年五月中旬、旧満州国興安北省ハイラル南方ノモンハンにおけるソ蒙軍の越境に端を発し、紛争が拡大して平原の砂丘を血に染め日満・ソ蒙両軍が激しい砲火を交えた日本戦史に特筆される事件である。直接戦闘に参加した部隊はハイラルに駐屯の第二十三師団隷下の将兵であった。この戦闘は関東軍の作戦予測に反しソ蒙軍の近代兵器を投入しての猛攻を受け、寡兵肉弾をもってこれに応戦し悪戦苦闘の連続であった。特にノロ高地における凄惨苛烈な死闘は後日の戦訓となるほどであた。同年九月十六日停戦協定が成立したが、この間実に一万一千百二十四名の犠牲者を出したことは痛恨未だ極まりないものがある。
 ここに幾度かの死線を乗り越えてきた静岡県の生存者を中心に、広く関係者の賛同を得て宿願を達成することが出来関係者一同の感激もまた大である。願わくは一身を顧みず祖国防衛の大任を全うし殉国散華された将兵の崇高な精神と武勲を後世に伝え以って平和への祈願としたい。
 幾久しい悲願実りてこの聖地 
  今ここに立つノモンハンの碑
    昭和五十四年九月十六日建立
     ノモンハン事件従軍生存者有志一同
       献歌 中村双葉
       揮毫 渡邊墨仙


鎮(満州第五七四部隊)慰霊碑

グアムで玉砕した静岡出身の満州第五七四部隊

大東亜戦争熾烈なる昭和十九年二月十九日 元満州遼陽に駐屯せる我が満州第五七四部隊(静岡県出身者)は風雲急を告げる南方諸島の大宮島(グアム等)に転進しましたが、同年七月二十一日連隊長末永大佐以下で最後の突撃を敢行遂に玉砕しました。又、各地に転戦して護国の礎となられた幾多の戦友の霊、永しえに安かれと、ここに慰霊碑を建立し、此の貴い武勲を永く後世に伝えるものであります。
 昭和五十一年十月吉日
  慰霊碑建立世話人会


内匠部隊之碑

ミンダナオ島における戦没者千数百柱の慰霊顕彰

内匠部隊之碑

 昭和十七年三月二十日内匠部隊長以下七百三十八名中部第三十六部隊にて編成、三月二十日宇品港出港、バターン半島に直行攻撃参加、四月二十一日ミンダナオ島に転進、八月よりコタバト州警備戡定作戦参加、十二月二十日第三より充足更に一八、一九年現役兵入隊在留邦人現地入隊等最大兵力千八百名となる。十九年九月部隊は米機約七十機によりコタバト地区で爆撃さる。敵機を撃墜し師団長より感状を受く。以後サルナヤン、ミラヤ地区に転進、二十年四月一七日、米八軍コタバト地区に上陸、部隊はこれを迎撃奮戦し壊滅す。英霊千数百名ここに祀る。


副碑「由来」
 終戦三十年余を経た現在ミンダナオ島コタバト地区は、遺骨収集に対し厚生省の認可をを得られず有志により再度の収集にて二十数体を収集したのみ。月日を経過するに従い地形の変化と風化により益々困難となる為、コタバト平和の塔の分骨をし茲に建立す
  昭和五十一年三月二十一日
   コタバト静岡県人会  同遺族会


御手洗石

 この御手洗石は九州福岡県博多在の産で当神社が昭和17年10月現在地に御遷座のとき静岡市本通り1丁目の手塚六郎治氏より奉納されたものであります。
 当時は大東亜戦争苛烈下で運搬は容易でなかったが陸軍大臣の命によって汽車で輸送され約14平方米(畳9畳半)あり全国で最大の御手洗石であります。


工学士 市川紀元二銅像

日露戦役にて戦死した東大出身の工学士、学徒の亀鑑、市川工学士の慰霊顕彰の銅像。
市川紀元二の弟はスエズ運河設計に携わった青山士。
日露戦争で最初の学徒出身兵の戦死であった。

東京帝国大学工学部に学び電気工学を修め、京浜電鉄の技術部長を務めるが、明治37年日露戦争に第6連隊(名古屋)に所属、歩兵少尉として出征。
満州に出征し、明治37年8月31日首山堡の激戦に歩兵6連隊小隊長として先登し第一の戦功を立て軍司令官より感状を受け、全軍布告、上聞に達し特進して歩兵中尉となった。明治38年3月7日の奉天会戦で戦死。
の東大総長山川健次郎は「その忠勇義烈、学徒の亀鑑となすべし」して、市川紀元二銅像を東大構内に建立。
大戦末期、東大職員により金属類供出から免れ、戦後は地下室に隠されていた。戦後、出身地が中泉(磐田市)だったことに因り静岡県護国神社に再建された。

なお、日本陸軍で生存中に特別進級した人は、陸軍創設以来終戦まで、市川紀元二中尉だけだという。

工学士 市川紀元二銅像
設計意匠 塚本靖 
製作 新海竹次郎 
篆額 奥保鞏
明治41年11月11日 東京帝国大学構内竣工
昭和33年8月31日 静岡県護国神社境内移転

躍動感にあふれる銅像。


長島銀蔵翁之壽像

戦没者遺族の父

長島銀蔵先生は、若くして父業を継ぎ、勤勉努力精進は、今日広く世界各国に知られている塗料ラッカーを創製するに至ったのである。
尚先生は貴族院議員、次で参議院議員等に当選されて、政界に活躍された。
大東亜戦争は、国力を消耗し盡して終戦を告げ、混迷の世相の中に戸惑う戦没者遺族の悲境を目前に、強く胸を打たれ、これを黙視するに忍びず、幸いに中央政界にあった先生は一方に於て、県内遺族の基礎を固め、他方東奔西走して全国に同志を糾合し、遺族会の統合団結を図り、昭和22年11月遂に日本遺族厚生連盟を結成し、推されて理事長に就任されたのである。
時恰も終戦後日浅く、占領軍政下の厳しい国内情勢下にあって、物心共に言語に絶する苦難の継續であったが、先生の強固なる決意は之に屈せず、多額の私財を投じて、初心を貫徹されたのである。
この苦闘の事蹟は本県はもとより、我が国戦没遺族会史の上に特筆すべき成果であると確信するものである。
茲に於て長島銀蔵先生を遺族の父と仰ぎ永くその徳を称えんが為に、本県遺族会は、日本遺族会並びに全国各都道府県遺族会の御協賛のもとに、全会員の赤誠と、国土安穏世界平和の祈願を込めて、此の胸像を建立した。
 昭和48年9月28日
  財団法人静岡県遺族会
   長島銀蔵先生胸像建立委員会


慰霊碑(伊藤部隊・歩兵第118聯隊)

義烈日月と共にあり 昭和十九年五月十日 サイパン島方面へ出陣せられし歩兵第百十八聨隊 殉国将士三千有余柱の慰霊之碑を建て永久のご冥福を祈る
   昭和六十年九月二十二日
     歩兵第百十八聨隊  生存者有志建立

記念植樹趣意
 過ぐる大戦において静岡聯隊最後の部隊である伊藤豪大佐以下三千有余名の将兵は昭和一九年五月勇躍南方戦線に出陣した
 然るに戦局囘天の雄図空しくサイパン島およびその周辺海域に華と散った 現在の平和豊な生活を感謝し その志と事実を永く憶えんがため桜の若樹を植え記念とする  春ごとに爛漫と咲きもって英魂を慰めよ
   昭和五十二年八月十四日
     遺族代表 伊藤 小夜
     伊藤部隊付陸士第五十八期士官候補生一同

百日紅(さるすべり)
終戦七十周年記念献木
元歩兵第118連隊伊藤部隊は昭和18年7月 第43師団下の第118連隊として静岡市に於いて3300名の兵士(静岡県出身者)により新に編成された。
昭和19年5月29日サイパン島守備のため横浜港を出港同年6月5日、米潜水艦の魚雷攻撃で3分の2が海没戦死、残る兵士は上陸するも3週間にわたる激戦の末、陸海軍守備隊約4万1千名は全員玉砕した。終戦70周年の節目の年に現地での御英霊の面影を偲びサイパン島に咲くフレイムツリー(南洋桜と言われる)に良く似た百日紅を植樹することにした。
 平成27年7月18日
  元歩兵第118聯隊伊藤部隊遺族会


西村直己先生顕彰像

終戦時の鈴木貫太郎総理秘書官

明治38年10月8日東京に生まる
天稟の資質に恵まれ東京帝国大学卒業後官界に入る
終戦時鈴木貫太郎総理秘書官
戦後吉田茂総理主席秘書官を勤め国存亡の激動期に国政に盡瘁す
昭和24年1月静岡県第1区より衆議院議員に初当選
爾来連続10期28年に亘り国地方の発展に盡す
この間農林防衛の各大臣自由民主党政調会長等を歴任
特に戦歿者遺家族の援護等その功は枚挙に遑なし
清廉高邁な人格を賛仰し郷党追慕の至情を此処に表す
 昭和58年7月28日
  福田赳夫 撰
  荻野準平 書


殉國碑(泉第五三一六部隊之碑)

レイテで玉砕。
昭和三十三年九月二十三日建立。

泉第五三一六部隊ハ関東軍ニ属セル独立混成旅団トシテ支那事変ノ擴大トトモニ熱河ヨリ中国ニ進出 長城線ヲ突破シ 昭和十二年十月張家口ニ於テ第二十六師団独立歩兵第十三聨隊トシテ編成セラレ 内蒙古ニ進駐 同年十一月二十六日軍旗ヲ奉ス
爾後 綏遠周辺ノ警備ニ任ジ 五原 中支 中原 浙贛 河南等幾多ノ作戦ニ其ノ赫赫タル戦績ハ威勲ヲ四圍ニ輝カセリ
 時恰モ 大東亜戦酣ナル昭和十九年七月 比島方面ニ急派セラレ昭和十九年八月十九日未明バシー海峡ニ於テ魚雷攻撃ヲ受ケ 無念ニモ聨隊本部 第二大隊ハ軍旗トトモニ海没 第一 第三大隊ヲ主力トシテ最激戦地 レイテ ノ決戦ニ参加 戦力ヲ物量ニ頼ル優勢ナル敵ト死闘半歳有余 此ノ間 忠烈ニシテ勇猛果敢ナル奮闘ハ全軍ノ亀鑑トシテ上聞ニ達セルモ 遂ニ全員玉砕ス 嗚呼
 今茲ニ殉國ノ至情ヲ讃エ 大陸ノ山野ニ 或ハ南海ノ孤島ニ散華セル我ガ勇士ノ霊ヲ慰ムルトトモニ栄誉輝ク部隊ノ偉績ヲ永遠ニ伝ヘンガ為 建立
 昭和三十三年九月 
  支那派遣軍總司令官 畑 俊六 篆額
  泉第五三一六部隊初代部隊長 久野村桃代 謹書

 去る太平洋戦争において 主として本県出身者により編成された泉第五三一六部隊(独立歩兵第十三聨隊)は 内蒙古(モンゴル)の厚和(綏遠)に在って幾多の作戦警備に任じ 昭和十九年七月フィリッピンに転戦した 途中 部隊の一部バシ―海峡において魚雷攻撃を受け軍旗とともに海没 残る主力はレイテ島の決戦に臨み死闘すること半歳 矢附盡き刀折れレイテの地を朱に染め遂に全員玉砕した
 遠い異郷の地に飢えと疲労に耐えながら散華された我が勇士ゆかりの地に何かを遺し 永遠にこれを顕彰したい心が結集され 昭和三十三年二月泉五三一六会を結成し会員の一致協力により同年九月ここに念願の殉國碑を建立し 毎年秋分の日にこの碑の前で慰霊祭を行っている 

「殉国碑」の扁額は、支那派遣軍總司令官 畑 俊六 書


遺品館

遺品館は、令和元年(2019)に新設。
ただ、参拝が年末ということもあり、全体的にバタバタしていたので、未見学。再訪します。


移築の元将校集会所の跡地

歩兵第三十四聯隊跡地から移築された将校集会所だった建物が、神社境内にありましたが、2021年に解体済み。。。


天皇陛下 皇后陛下 御参拝記念碑

昭和32年。昭和天皇の御親拝があった。

※撮影:2023年12月

※場所

「その4」へ


護國神社関連

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