サイトアイコン 近代史跡・戦跡紀行~慰霊巡拝

海軍下瀬火薬製造所跡地散策(北区西ヶ原)

平成30年2月撮影

東京都北区西ヶ原及びその周辺の散策記録。

明治時代。日露戦争にて大日本帝国海軍が採用し大勝利の一因ともなった「下瀬火薬(下瀬爆薬)」の製造がこの地で行われていた。
東京都北区に僅かに残る「海軍」痕跡探しの散策をしてみます。

東京都北区にある海軍境界石

周辺の参考情報をメモしておきます。

今回は「今昔マップ on the web」さん(大正6年製図)をベースに。 http://ktgis.net/kjmapw/kjmapw.html?lat=35.74723041858054&lng=139.73424168496706&zoom=15&dataset=tokyo50&age=0&map1type=roadmap&map2type=roadmap&dual=true&mapOpacity=10&overGSItile=no&altitudeOpacity=2 …

現在の「西ヶ原みんなの公園」を中心とした場所が、かつての「海軍下瀬火薬製造所」。
その北西には「東京第一陸軍造兵廠」などもある場所。こちらも火薬がメイン。

「下瀬火薬」
大日本帝国海軍技師 下瀬雅允 (しもせ まさちか)が実用化したピクリン酸を成分とする爆薬(炸薬)。
明治26年(1893)下瀬雅允は下瀬火薬を完成させ下瀬火薬製造所長となる。 日清戦争(1894-1895)には間に合わなかったが、日露戦争(1904-1905)で使用され日本海軍大勝利の一因となる。

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「下瀬火薬製造所」跡

現在は東京都北区「西ヶ原みんなの公園」(2010年開園)
下瀬火薬製造所(海軍爆薬部)が移転後の昭和19年に「東京外事専門学校」(東京外国語学校、のちの東京外語大学西ヶ原キャンパス)がこの地に移転。 平成12年(2000)に東京外語大学は府中に移転し、公園として再整備された。

「下瀬坂」

下瀬雅允の名を冠し、下瀬製作所の名を残す坂。

場所→
https://www.google.co.jp/maps/place/%E4%B8%8B%E7%80%AC%E5%9D%82/@35.7412439,139.7355041,18z/data=!4m8!1m2!6m1!1s10Eq3VaKbm1RN8QosP52Fpi9tNlk!3m4!1s0x60188d839a3a453f:0x7595b6053c60adf7!8m2!3d35.7410061!4d139.7361964

この坂名は、明治32年(1899)、ここに設けられた「海軍下瀬火薬製造所」に由来します。戦前に製造所は舞鶴(京都府)へ移転し、跡地は東京外語大学のキャンパスとなりました(現在は移転)。このあたりは、江戸時代に幕府の御薬園があり、谷田川の水源となる湧水もありました。
平成20年3月 北区教育委員会 設置

「西ヶ原みんなの公園」から南に赴くと「染井霊園」があります。
そこに下瀬さんのお墓があるのでお参りをしてきましょう。

奇しくも下瀬火薬製造所の直ぐ近くに下瀬雅允が眠っている。
下瀬雅允墓の座標は「1種ロ2号4側」

「下瀬雅允墓」(染井霊園)

従四位勲二等工学博士下瀬雅允之墓
安政6年12月16日(1860年1月8日) – 明治44年(1911)9月6日。
享年53歳。

染井霊園には、 海軍軍人として 樺山資紀も眠っているので一緒に参拝してきた。

「樺山資紀墓」(染井霊園)

樺山資紀 海軍大将
天保8年11月2日(1837/12/9) – 大正11年(1922)2月8日。享年86歳。
警視総監(第3代)、海軍大臣(第4・5代)、海軍軍令部長(第6代)、台湾総督(初代)などを歴任。日清戦争時の海軍軍令部長

「西ヶ原みんなの公園」に戻ってきて、公園の東側に。

住宅地に幾つか海軍の痕跡が残っていますので散策を。

前述の今昔マップ(http://ktgis.net/kjmapw/kjmapw.html?lat=35.74444395470832&lng=139.73628016381838&zoom=16&dataset=tokyo50&age=0&map1type=roadmap&map2type=roadmap&dual=true&mapOpacity=10&overGSItile=no&altitudeOpacity=2 …)で分かりやすく黄色線を追記。ここが海軍敷地の東の境界線の目安。2枚目の地図でいうと紫印ポイントに標石が残ってますので巡ってみましょう。

「西ヶ原みんなの公園」の東側に。
住宅地の角地にひょこんとたっている石。 摩耗しておりますが、きっと(たぶん)海軍境界石。境界石の周辺はコンクリでガードされてますね。

こちらは「西ヶ原みんなの公園」の北側。

(だいたいの場所→https://goo.gl/maps/LYHf6hqT1No …)

住宅の中に突然現れる標石
海軍標石(海軍境界石)

この境界石から奥は戦前は海軍敷地(下瀬火薬製造所)であった名残。
東京都内に「陸軍標石」は幾つか有るが、こうして沿岸部ではない都下に「海軍標石」が残っているのは珍しく感慨深い。

この路地には幾つかの標石が残ってました。
こちらは「海軍用地」と記載のある海軍標石(海軍境界石)
半分埋もれてますね。

「海軍用地」と記載のある海軍標石(海軍境界石)
戦前は「海軍用地の境界石(標石)」として、
戦後は気がつけば「北区の地籍調査」の目印として今も役に立っているようです。

「海軍用地」と記載のある海軍標石(海軍境界石)
けっこう目立ってますね。

あぁ、これは折れてしまったようです。
(折れた標石はどこに行ってしまったんだろう・・・

右側に。民家の軒先で植木が置かれている石は・・・海軍標石(海軍境界石)ですねえ。
「海軍用地」とはっきり読み取れます。

何気ない小道ですが、なかなか濃厚な海軍境界石ロード。
「海軍下瀬火薬製造所」跡地散策、坂と公園と標石から感じる散策から海軍史を堪能できました。オススメ。

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