サイトアイコン 近代史跡・戦跡紀行~慰霊巡拝

興亜神社(亜細亜大学)

令和元年九月参拝・武蔵野市

友人より「亜細亜大学に興亜神社という神社があって・・・」と貴重な情報を耳にしたので、足を運んでみました。

スポンサーリンク

興亜専門学校から亜細亜大学へ

昭和16年(1941)に設立された旧制専門学校。亜細亜大学の前身。

昭和16年4月財団法人興亜協会が創設。
同時に協会付属の専門学校として「興亜専門学校」が現在地に設立。
「大東亜共栄圏」建設のための有為な人材を養成する目的として開校。

終戦後の昭和20年9月25日に開かれた興亜協会理事会で「財団法人興亜協会」は「財団法人日本経済専門学校」となり「興亜専門学校」は「日本経済専門学校」と改称。
興亜専門学校大陸科と南洋科は廃止され、内地科を拡充した経済科が設置。その後、亜細亜大学へと変遷する。


亜細亜大学武蔵野キャンパス
体育館と8号館の裏にひっそりと佇む神社があった。

興亜神社

興亜専門学校(亜細亜大学)の戦没者97柱を祀る。
毎年11月3日に例祭が斎行されている。
例祭は同じ武蔵野市内の杵築大社の神職が御奉仕されている。

神社敷地は施錠されておりましたので、敷地外より遥拝。
施錠が日曜日だからか、普段からなのかは不詳。
敷地外より撮影。

戦没校友銘
97柱の御名と戦没地が記銘されている…

合掌


せっかくなので亜細亜大学構内を散策すると、なにやら銅像が目にとまる。

太田耕造初代学長胸像

太田耕造先生 岸信介 書
自助協力 大田耕造 書

大田耕造
1889年(明治22年)12月15日-1981年(昭和56年)11月26日
亜細亜大学の創立者のひとり。

東京帝国大学法学部英法科卒業の弁護士として活躍。
一方で平沼騏一郎主宰の国本社に参加し幹事を務める。
五・一五事件、血盟団事件にて被告弁護士。
1939年(昭和14年)1月発足の平沼騏一郎内閣では首相秘書官を務め同年4月には内閣書記官長(現在の官房長官相当)に就任。平沼内閣総辞職直前に貴族院勅選議員に勅任。公職追放される1945年まで貴族院議員。
1941年(昭和16年)興亜専門学校設立に関与。
1945年(昭和20年)鈴木貫太郎内閣では文部大臣を務める。
戦後は戦犯容疑を問われ巣鴨プリズンに勾留されるも不起訴出所。
その後は興亜専門学校の後進である亜細亜大学学長として活躍。
墓所は多磨霊園。


興亜神社
(亜細亜大学サイトより例祭の様子など)
例祭では、「海ゆかば」「第一学生歌」を献歌として斉唱しているという。

モバイルバージョンを終了