寺内正毅像台座跡と三宅坂

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令和元年9月

現在の三宅坂小公園 (東京都千代田区隼町4)
最高裁判所付近にある三宅坂交差点の三角エリアの公園

立派な台座の上には 「3人の裸婦像」銅像が建っている。
アンバランスな台座と銅像。
それもそのはず。
もともとこの台座は「陸軍元帥」のためのものであった。


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寺内正毅像台座跡
 現・広告記念像(平和の群像)

大正12年(1923年)5月建立。
ここには北村西望作「寺内元帥騎馬像(寺内正毅像) 」があった。
しかし、戦時下体制の昭和18年(1943年)の金属供出により撤去され鋳潰される。

戦後、1950年に 株式会社日本電報通信社 が創立50周年を記念して3人の裸婦像を設置。
3人の裸婦は、それぞれ愛情・理知・平和を表現しているという。この像をきっかけに全国各地で「平和の象徴=裸婦、平和祈念の像=裸婦像」の図式ができあがったとされている。

なお、台座は「寺内正毅像」時代から「裸婦像」に変わった際に、半分ほどの高さに削られている。威風堂々とした軍人騎馬像を見上げる時代は終わり、裸婦像が平和を訴える時代へと変遷したのだ。

 広告がわが国仁平和産業と産業文化の発展に貢献した事績は極めて大きい。わが社は昭和25年(1950)7月1日その創立50年を自祝し過去半世紀を回顧してこれを記念するに当り、平和を象徴する広告記念像を建設して東京都民に贈り、広告先覚者の芳名を記録してその功労を永久に偲ぶこととした。
 西暦1950年 
 株式会社 日本電報通信社

(略)

     建設者 株式会社日本電報通信社
            社長 吉田秀雄
     制作者 菊池一雄
     鋳造者 伊藤忠雄
     施工者 松井建設株式会社


寺内正毅

1852年2月24日‐1919年11月3日
銅像は寺内正毅没4年後に建立

長州出身
元帥陸軍大将
第7代陸軍大臣、第18代内閣総理大臣、第19代大蔵大臣、初代朝鮮総督などを歴任。「ビリケン宰相」の異名を持つ。
日露戦争時(第一次桂内閣)の陸軍大臣。(児玉源太郎の後任)


北村西望作品 > 寺内正毅元帥騎馬像


三宅坂

江戸時代には三河国田原藩・三宅家の上屋敷があったことから「三宅坂」と呼称されてきた。
この三宅坂に沿って三宅家があり。そして現在の国会前庭や憲政記念館のあるあたりには彦根藩井伊家上屋敷があった。

明治期に井伊家・三宅家の屋敷用地は新政府の手に移り、そして陸軍中枢の「陸軍参謀本部」「陸軍省」などが置かれる。

いつしか「三宅坂」といえば「陸軍参謀本部」を指す代名詞となっていたが、開戦の昭和16年(1941年)12月に、陸軍省・参謀本部・教育総監部・陸軍航空総監部が三宅坂から市ヶ谷台に移転している。

寺内正毅像のあった場所は、田原藩上屋敷跡にして渡辺崋山誕生の地。
寺内正毅像の後方は「 陸軍航空本部 」があったという。現在は最高裁判所。

奥に国会議事堂が見える。
三宅坂の交差点

場所

今昔マップにて位置関係を。

青線で囲った場所が「寺内正毅像」のあった場所。

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