浦和飛行場跡(埼玉第一飛行場跡)

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令和2年2月。

荒川横堤(宗岡第二横堤) 昭和6年竣工
飛行場施設は横堤の南側にあった(写真右手)

1938年、首都圏近郊の「浦和飛行場」「調布飛行場」「砂町飛行場(東京市飛行場)」の3つの飛行場建設が承認された。

そのうち、調布飛行場は昭和14年(1939)に建設着手。昭和16年(1941)竣工。
砂町の東京市飛行場は現在の「夢の島公園」のあたり。埋め立て途中での戦時下の物資不足で工事は中断。竣工することはなかった。

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浦和飛行場
(埼玉第一飛行場)

昭和14年(1939)に「浦和飛行場」の建設が承認。
この地には、すでに戦時下防空やグライダー育成を目的とした「埼玉第一飛行場」が起工しており、昭和12年(1937)頃にはすでに滑走路が出来上がっていたという。埼玉第一飛行場の設置者は埼玉義勇飛行会で、当時は「秋ヶ瀬飛行場」とも「秋ヶ瀬浦和飛行場」と呼称されていた。
昭和15年(1940)に「浦和飛行場」と名称変更され、拡張工事が始まるも、最終的には完成を見る前に終戦。跡地は放置。
戦後、荒川の直線化工事に伴い、当時の面影は残されていない。

当時と変わらずに残っているのは「荒川横堤」。
浦和飛行場の北側にある「宗岡第二横堤」は昭和4年(1929)着工、昭和6年(1931)竣工。当時は、この宗岡第二横堤の南側に飛行場施設が建設されていた、という。
荒川横堤は、日本では荒川のみの独特な堤防として土木遺産に選定されている。

また、荒川直線化工事の影響は、市境にも残されている。
志木市とさいたま市(旧浦和市)の屈折した市境は荒川が曲線だったときの名残。「浦和飛行場」(埼玉第一飛行場)は「浦和」と言いつつも、浦和側ではなく現在の志木市(当時の宗岡村)側であった。

位置関係

国土地理院航空写真(写真ファイル名:891-C2-66)
1944年9月28日-大日本帝国陸軍撮影

上記航空写真を拡大のうえ加工

横堤(宗岡第二横堤)の下流に「飛行場施設」
荒川の曲線の内側に「飛行場」
その下流には「秋ヶ瀬橋」

横堤と秋ヶ瀬橋の間に当時「浦和飛行場」(埼玉第一飛行場)があった。

戦後の航空写真。
あまり変わっていないようだけれども、飛行場跡地が開拓されているのがわかる。

同じく国土地理院航空写真より(写真ファイル名:USA-M675-55)
1947年11月28日-米軍撮影

現在の様子。
GoogleMAPS航空写真を加工。
荒川の直線化により、飛行場のあった場所の大部分が川の中に。
横堤は往時から変わらずに。

志木市とさいたま市(旧浦和市)の市境。荒川の東側に志木市の飛び地が残っている。この飛び地は、往時の飛行場跡地でもあり荒川が曲線であった頃の名残でもある。

浦和飛行場跡
(埼玉第一飛行場跡)

秋ヶ瀬河川敷
実際のところ、当時の遺構は残っていない。

飛行場跡地は、荒川の水の下に。

横堤(宗岡第二横堤)

昭和4年(1929)着工、昭和6年(1931)竣工。
当時は、この宗岡第二横堤の南側に飛行場施設が建設されていた、という。
荒川横堤は、日本では荒川のみの独特な堤防として土木遺産に選定されている。

このあたりに、当時は飛行場施設があったと思われる。

横堤の端。

ちょうど横堤の端には、不正投棄を監視する防犯カメラ。
河川敷には不正投棄が多いとのことで。

横堤の堤防上。

秋ヶ瀬取水堰

現在は、独立行政法人水資源機構の管轄。荒川で最も下流に位置する取水堰。

飛行場があった当時は、この取水堰があった場所が滑走路の中心地点。
今ではここに飛行場があったとは信じられない光景。

宗岡取水口

秋ヶ瀬取水堰

ここに、飛行場があったとは今では信じられない場所。
住宅地や工業団地になった飛行場は多いが、「浦和飛行場」は、まさか川になってしまった場所でした。

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