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海軍水雷学校と海自第2術科学校

令和元年11月・横須賀 JR田浦駅近く。

現在の「海上自衛隊第2術科学校」は、海軍水雷学校の敷地を受け継いでいる。

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海軍水雷学校

大日本帝国海軍の水雷術(魚雷・機雷・爆雷)指揮官・技官を養成する教育機関であった。
明治26年(1893)12月2日に水雷術練習所が設置。
明治40年(1907)4月20日に海軍水雷学校に改編。
水雷学校から、海軍通信学校、海軍機雷学校(海軍対潜学校)が派生増設。
昭和20年の終戦までこの地で海軍教育が行われてきた。
歴代校長に著名人が多く、岡田啓介・鈴木貫太郎・南雲忠一・小澤治三郎など。

術科学校

第1術科学校・江田島 機関科を覗く水上艦艇術科教育
第2術科学校・横須賀 機関・電機・情報・外国語等の特殊部門専門教育
第3術科学校・下総  航空機整備員・航空基地員養成機関
第4術科学校・舞鶴  業務管理・経理・補給関係術科教育訓練

海上自衛隊第2術科学校、すなわち「2術校」

http://www.mod.go.jp/msdf/twomss/

機関、電機、応急工作等及び情報、技術、電子計算機、外国語といった特殊な部門の専門教育や、調査研究を主体とする機関

戦前の水雷教育から戦後の特殊専門教育へとつながる、そんな「海自2術校」にて、当時の姿を残すものなどを。



海軍水雷学校 圧縮ポンプ室
 (旧整備科倉庫)

第2術科学校は海軍水雷学校の敷地を受け継いでいます。この建物はS9年に建てられた木造建築で、現存する唯一の帝国海軍水雷学校当時からの建物です。

オープンスクール(一般公開)時に見学

うしろの建屋は、「日立パワーソリューションズ田浦工場」
手前には海保のPM14たかとり(てしお型巡視船)

海上自衛隊第2術科学校のある田浦は、海自と海保の共同使用地。全国でも共同使用地は、ここだけだという。


位置関係

国土地理院航空写真「USA-M46-A-7-2-77」より。
1946年02月15日 米軍撮影

一部加工
ポンプ室のみが現在も残る水雷学校の遺構。

田浦駅北部の海軍軍需部倉庫も数棟が現存している。

拡大


近くにはロ号艦本式ボイラーが展示してあった。(別記事にて掲載)

令和元年11月・横須賀・海上自衛隊第2術科学校 ロ号艦本式ボイラー 昭和15年に舞鶴工廠が製造したボイラー。現在は水管がむき出...

歴史保存エリア

第2術科学校内に「歴史保存エリア」がある。

海軍水雷学校跡碑

海軍水雷学校跡碑

海軍水雷学校 跡
 明治26年12月2日水雷術練習所が設置されました。明治40年4月20日海軍水雷学校となり、昭和20年の終戦まで教育が行われました。
 昭和50年5月、水雷学校の歴史を後世に残すため、第二術科学校に隣接する関東自動車株式会社本館前に設置されていましたが、関東自動車株式会社の移転により、平成21年、この血に移設されました。

沿革
明治三年十一月四日
 海軍兵学寮に水雷火設置
明治七年九月二十日
 海軍兵学寮にて水雷術伝習開始
明治十二年八月二十三日
 水雷術練習所横須賀に開所
明治十六年二月六日
 水雷術練習所を廃止し水雷局を長浦に設置
明治十九年一月二十九日
 水雷局廃止水雷術練習艦設置(迅鯨)
明治二十年十一月十六日
 水雷術練習工概則制定(水雷術練習生の起源)
明治二十二年十二月二十三日
 水雷術練習艦で下士官、兵に掌水雷兵教育開始
明治二十六年十二月一日
 水雷練習艦を水雷練習所に改める(迅鯨)
明治三十九年十二月一日
 同右を長浦の陸上に移転
明治四十年四月二十日
 海軍水雷学校条例制定
明治四十年四月二十二日
 海軍水雷学校田浦に開校
 電気器具、防御水雷、攻撃水雷、通信術の四科目伝習開始
昭和五年六月一日
 海軍通信学校分離独立
昭和九年五月二十三日
 航空魚雷練習生制度設置
昭和十年七月
 航空兵器術練習生のなかに魚雷爆撃専修の練習生制度設置
昭和十五年六月二十日
 雷撃員制度設置雷撃練習生教育開始
昭和十六年四月一日
 海軍機雷学校分離独立
昭和一九年三月一五日
 海軍対潜学校と改称
昭和二十年七月十五日
 同右を廃止海軍水雷学校久里浜分校となる
昭和十八年六月十七日
 海軍水雷学校魚雷艇訓練規則制定
昭和十九年四月一日
 海軍水雷学校川棚魚雷艇訓練所開始、
 魚雷艇、特攻兵器、震洋艇の教育訓練実施
昭和二十年八月十五日
 終戦閉校

昭和五十八年五月八日
 海軍水雷学校跡碑建設委員会
  委員長 有田雄三
   他八七三名を以って建立
    兼平芳雄謹書

海軍通信教育発祥記念碑

海軍通信教育発祥記念碑

海軍通信教育発祥記念碑
 明治三十六年、この地にあった海軍水雷術練習所で無線電信術教育が開始されたことを記念し、昭和四十五年十一月に建立されました。
 海軍水雷術練習所は、明治四十年、海軍水雷学校になりましたが、通信術の教育所要が増大したため、昭和五年同地の一部に海軍通信学校が海軍水雷学校から分離独立しました。 海軍通信学校は、昭和十四年に現在の陸上自衛隊久里浜駐屯地がある地に移転し、終戦を迎えました。

海軍無線通信教育の沿革
明治三十六年二月
 この地海軍水雷術練習所で無線電信術教育開始
大正七年八月
 海軍水雷学校に通信部設立
昭和五年六月
 この地に海軍通信学校として独立
昭和十四年十一月
 神奈川県久里浜に移転
昭和十七年五月
 横須賀海軍通信学校と改称
昭和十七年五月
 山口県防府に防府海軍通信学校を増設
昭和十九年九月
 神奈川県藤沢に海軍電測学校設立
昭和二十年七月
 各学校教育中止

   昭和四十五年十一月 
    海軍通信同窓有志建立

海軍上等兵曹上崎辰次郎之碑

海軍上等兵曹上崎辰次郎之碑
海軍中将従三位功三級男爵伊藤雋吉君題碑

「上崎上等兵曹之碑」の由来
 上崎上等兵曹は青森県上北郡の人旧会津藩士であり、万延元年(1880年)岩代国若松城下で出生した
 十四歳で海軍に入り水雷術を専攻した
 征藩の役 西南の役に従軍し 明治二十二年上等兵曹に任ぜされ 二十七年勲七等に叙せられ瑞宝章を賜った
 明治二十七年日清戦争が起こるや第六号水雷艇に乗り戦地に赴く 艇長は海軍大尉鈴木貫太郎(後に大将 終戦の時の内閣総理大臣)であった
  明治二十八年二月四日夜 わが水雷艇隊は威海衛の夜襲を決行 第六号水雷艇もこの中にあって港内に突入 はげしい敵弾をうけながら敵艦鎮遠に近迫まさに水雷を射出して敵艦を粉砕しようとしたところ はからずも厚い氷が発射管を閉鎖し水雷が出なかった 上崎上等兵曹はこの責任を感じ 敵降伏後の三月十四日 従容として艇内において自刃した ときに三十六歳であった  鈴木艇長をはじめ艇員はその忠誠を永久に伝えるために横須賀竜本寺にこの碑を建てた  昭和三年田浦(田浦交番隣)に移してあったものを昭和四十三年五月十八日 第2術科学校に移したものである

(台座)
建碑及遺族慰問
資金義捐者
 海軍将校以下有志
  一千十五名
 通常有志
  七名
発起人 
 海軍大尉鈴木貫太郎
  外 三十七名
永代施餓鬼料
 金貳拾圓

碑面裏の撰文は上崎の乗艇である第六号艇長が読んだ弔辞を漢文に直したもの
第六号艇長は鈴木貫太郎海軍大尉、のちの海軍大将、内閣総理大臣

発起人にも海軍大尉鈴木貫太郎の名が刻まれている。

上等兵上崎辰次郎君碑
君諱辰次郎上崎氏青森県上北郡人旧会津藩士也萬延元年十二月生于岩代国若松城下年十四入海軍酷苦励精技術大進
明治七年航台湾従征藩役十年西南之役起君乃乗軍艦討賊兵十三年任下士官十九年新造軍艦浪速於英国成君被撰為回
航委員至英国乗之而帰廿二年叙勲八等無何任上等兵曹廿七年叙勲七等賜瑞宝章是歳征清役起時君在第六号水雷艇慨
然決意曰吾欲誓死以報国恩十月航戦地従常備艦隊占領花園口十一月略大連湾攻旅順口屡々有功廿八年二月我軍攻威
海衛敵艦隊拠劉公島以水雷及防材鎖港恃険要而防戦数日不能遽抜同月三日夜第六号水雷艇乗月明迫港口敵知之砲撃
甚烈而君自苦冒弾雨而破防材通航路以是翌夜水雷艇隊得進入港内襲撃敵艦隊轟沈定遠等二艦此夜第六号水雷艇亦在
隊中冒砲撃而迫近鎮遠飛弾如雨注中艇者六十餘弾将射出水雷粉砕敵艦何計巌水閉管妨碍発射自是君憤慨不巳更期大
功自慰十二日敵艦隊力屈遂乞降三月和議再起清使李鴻章発天津君時在威海衛港聞之而知戦機既去亦不可為遺憾不自
禁以此月十四日従容自刃艇内歳丗六艇員火化之帰葬横須賀龍本寺君為人沈毅義胆処事綜密克耐艱楚常尚節義至誠奉
公服軍務廿有二年於茲励精如一日威海之襲撃不奏効因巌冬結氷所致於君何有然哀心不能自安負責謝過以死矣可勝歎
惜哉頃者故旧捐金樹碑余甞長第六号水雷艇懐旧殊切乃為君叙其事為之銘曰
至誠奉公 孰若其忠 偉績将奏 孰妬其功 憤慨難禁 視天夢々 
鬼哭神泣 烈士致躬 大書深刻 其碑穹隆 嗚呼崎氏 英名無窮
 海軍大尉正七位勲六等功五級 鈴木貫太郎選

海上自衛隊発祥乃碑

海上自衛隊発祥乃地

海上自衛隊発祥乃碑
 昭和27年4月」26日、海上自衛隊の前身である海上警備隊がこの地で創設されました。創設に際し戦後の海軍再建を検討したY委員会において全国数箇所の候補地の中から、地元と米軍の了承が得られた唯一の場所が、ここ田浦の地だったのです。
 なお、戦後当地は旧軍港市転換法により民間企業等が使用していましたが、その会社が旧軍との関係が深く、海上自衛隊が使用することを快諾されたこともこの地に決定した理由となりました。

国旗掲揚旗竿基部

国旗掲揚旗竿基部
海上自衛隊創設当時にこの地に建てられたものであり、海上自衛隊の歴史を残すものである。

第2術科学校開校20周年記念機関

「350馬力蒸気往復機関」
海自が昭和27年発足時から昭和32年まで「えい船4号」として使用した旧帝国海軍雑役船の主機械。同船除籍後に教材として活用。創立20周年に際して記念機関として永く保存されている。


海軍機関術参考資料室
海上自衛隊創設史料室

ひとまず別記事を参照でお願いします。。。

横須賀田浦海自第2術科学校(2術校) 一般公開・オープンスクール(平成28年9月) 海自第2術科学校一般公開 9月10...

そのほか

横穴の壕。消火栓もみえる。

このあたりも当時からかもしれない

海上自衛隊第2術科学校と俗世界の境界。これも当時から。

また来ます


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