ウソかホントかは不詳ではあるが、上野公園の染井吉野(ソメイヨシノ)が、原木との説がある。
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ソメイヨシノの原木候補?
桜は一週間くらいで一斉に咲いて一斉に散るイメージがあるが、これは桜の代表格であるソメイヨシノが、親木から接ぎ木などで増殖したクローンのために、同じように開花するという。
そして、上野公園の小松宮彰仁親王像近くのソメイヨシノが、「第一世代となる親木では?」という発表があり、この場所には4本のソメイヨシノから全国に広まったと考察されている。そして、このうちの1本がソメイヨシノの元祖となる原木に最も近い世代ともされている。
ソメイヨシノの原木?
小松宮彰仁親王銅像
小松宮彰仁親王
1846年2月11日〈弘化3年1月16日〉 – 1903年〈明治36年〉2月18日)
日本の皇族、陸軍軍人。官位は元帥陸軍大将大勲位功二級。伏見宮邦家親王第8王子。
明治維新では、王政復古とともに議定・征討大将軍となり、のち陸軍大将・近衛師団長・参謀総長を歴任し、元帥の称号を授けられた。
日本赤十字社初代名誉総裁でもある。
小松宮彰仁親王銅像
台東区上野公園八番
彰仁親王は伏見宮邦家親王第8王子。安政5年(1858)京都仁和寺に入って純仁法親王と称し、慶応3年(1867)勅命により22歳で還俗、東伏見宮嘉彰と改称した。同4年1月の鳥羽・伏見の戦いに、征東大将軍として参戦。ついで会津征討越後口総督になり、戊辰戦争に従軍した。
明治10年5月、西南戦争の負傷者救護団体として、博愛社が創立されると、9月その総長に就任した。 同15年には、小松宮彰仁親王と改称。同20年、博愛社が日本赤十字社と改名すると、総裁として赤十字活動の発展に貢献した。同36年1月18日、58歳で没。
銅像は明治45年2月に建てられ、同3月18日、除幕式が挙行された。作者は文展審査員の大熊氏廣。「下谷區史」は当地に建てた理由について、寛永寺最後の門跡・輪王寺宮公現法親王(のちの北白川宮能久親王)の兄宮であったことに因んだのだろうと推察している。
平成八年7月
台東区教育委員会
コマツオトメ(小松乙女)
コマツオトメ(小松乙女)
原木は上野恩賜公園内の小松宮彰仁親王銅像の近くにあり、、エドヒガンの雑種で、西田尚道氏がこの木を新品種とすることを提唱しました。
小松宮銅像から「小松」の名をとり、また可愛らしく美しいことから「小松乙女」と命名されました。
上野恩賜公園のシンボルの桜として大切に育てられています。
東京都東部公園緑地事務所・上野桜守の会
撮影:2017年4月、2024年4月