沖縄県護国神社(沖縄戦跡慰霊巡拝12)

沖縄戦跡慰霊巡拝の記録「その12」となります。

その11は、下記にて。

2022年10月記録です

みたま安らかに


沖縄県護国神社

沖縄県那覇市の奥武山公園に鎮座。
御祭神は、沖縄関係の戦死者だけではなく、沖縄戦に殉じた本土出身者や一般市民も祀っており、17万8,800余柱を祀っており、全国の護国神社で最多の御祭神となっている。

沖縄護国神社は昭和11年に創建した招魂社に始まり、昭和15年に内務大臣指定の護国神社(沖縄県護国神社)となった。
昭和20年4月の沖縄戦で社殿を焼失し<昭和34年に仮社殿を竣工、昭和40年に現在の社殿が建立している。

以下、公式サイトより

由緒
沖縄県護国神社が鎮座する那覇市奥武山の地は、古くは奥(ア)武之(フノ)山(ヤマ)と呼ばれる集落のない小島でした。「奥武(アフ)」とは、神々と通ずる地という意味があり、古くから信仰の地とされてきました。
護国神社は、明治三十九年にこの地で県出身戦没者の御霊を招き鎮め、神として祀る「大招魂祭」が県主催で行われたのが始まりです。その後、昭和十一年に沖縄県招魂社として社殿が建立され、昭和十四年に沖縄県護国神社へと改称、昭和十五年に内務大臣指定護国神社となりました。
そして、皇紀二六〇〇年の那覇市の筆頭事業として境内が整備されました。昭和二十年の沖縄戦では米軍の砲撃を受けましたが社殿は奇跡的に残り、戦後は学校用地として供用されるなどを経て、沖縄戦戦没者をお祀りしようとの声が沸き起こり昭和三十四年に仮社殿が建立されました。現在の社殿は沖縄県内外御遺族崇敬者の御浄財により昭和四十年に竣功し、現在に至っております。昭和四十七年沖縄本土復帰を機に宗教法人認証申請の末、翌四十八年に「宗教法人沖縄県護国神社」となり県内外より多くの参拝者が訪れています。

ご祭神
沖縄県護国神社のご祭神は、日清日露戦争以降、先の大戦で国難に殉ぜられた沖縄県出身の軍人軍属を始め沖縄戦にて散華された一般住民の尊い御霊も神様としてお祀りしています。その中には那覇の十・十空襲や対馬丸の犠牲者なども含まれます。さらに、北海道から鹿児島までの本土出身軍人軍属で沖縄戦戦没者も合祀しており、現在のご祭神名簿には一七七、九一三柱のご祭神が記されています。
(柱数は追加合祀の都度異なります。)

https://okinawa-gokoku.jp

大鳥居

沖縄縣護國神社

昭和19年12月建之
陸軍大将鈴木孝雄書

昭和19年建立の社号標??
沖縄戦で焼失を免れたのか?

二の鳥居

御社殿

深く拝する
みたまやすらかに

御朱印

靖國神社 南部利昭宮司御植樹
平成20年10月23日
第50回記念秋季例大祭


御製の碑(沖縄県護国神社)

上皇陛下(平成)ご即位20周年、上皇上皇后両陛下ご成婚50周年記念の碑。

御製
弥勒世よ 願て 揃りたる人たちと 戦場の跡に 松よ植ゑたん

天皇皇后両陛下が、平成5年当県米須・山城での第44回全国植樹祭に行幸啓の砌、沖縄県に贈った御製です。当神社企画の今上陛下ご即位20年奉祝記念事業として、広く大御心をお伝えするため歌碑を建てました。平和な世を願って集まった人々とともに戦場の跡に松をお植えになったことを詠まれた琉歌です。

御歌
鹿子じもの ただ一人子を 捧げしと 護国神社に 語る 母はも

天皇皇后両陛下が、平成5年当県米須・山城での第44回全国植樹祭に行幸啓の砌、沖縄県に贈った御製です。当神社企画の今上陛下ご即位20年奉祝記念事業として、広く大御心をお伝えするため歌碑を建てました。平和な世を願って集まった人々とともに戦場の跡に松をお植えになったことを詠まれた琉歌です。


平和の像(沖縄県護国神社)

大東亜戦争終結50周年記念
沖縄県遺族連合会
平成7年(1995)9月7日建立

恒久平和
碑文
 大東亜戦争終結50周年にあたり、沖縄県護国神社に神鎮まる戦没者の御霊を末永く慰霊顕彰すると共に、恒久平和希求の切なる願いを込めて沖縄県内遺族の総意を結集し、この像を建立する。
 御英霊は、祖国防衛と民族の安泰を守るため、尊い生命を祖国に捧げられたのであり、私たち遺族は常に尊崇と感謝の念を持ち続けている。
 今日、わが国は、この半世紀に亘り、自由と平和の恩恵を享受している。
 これもひとえに諸霊の尊い犠牲によってもたらされいることを決して忘れてはならない。
 私たちは、命の貴さ、平和の尊さを常に肝に銘じ、二度と戦争の悲劇を繰り返してはならないことを後世に伝え、我が国唯一の地上戦が展開された激戦地沖縄が、恒久平和の発信地として「広げよう平和の輪、伝えよう沖縄の心」を内外に強く訴えるものである。
 二十一世紀に向け、私たちは世界の人々と手を携えて恒久平和の確立に邁進することを固く誓うものである。
  平成7年9月7日
   沖縄県遺族連合会 建立

慰霊顕彰
いくとしゆひてん
 忘しる間やねこみ
すぎし日ぬ姿
 朝ん夕さん

共存友好
今年今月ぬ
 今日吉日に
たげにはいするて
 ありし別ら

文字は起こしましたが、意味がわからない内地人でして。


悲歌(沖縄県護国神社)

悲歌
遺骨だにまだ見ぬ
 人にたのまれて 
泣き泣きひろう
 沖縄の石

 沖縄は太平洋戦争終焉の地として 日本国民にとって永遠に忘れ得ぬ土地であります
 祖国の必勝を信じ祈りながら 軍官民一丸となり 老幼婦女子、学園の健児や乙女に至るまで 山野を血に染め 祖国防衛の防人として 散りゆきし英霊の眠られるこの聖地沖縄県護国神社の社頭に 由緒深き京都霊山護国神社にある 大鳥居を日本民主同志会の発起によって碑礎に留めん 有志の篤きご協賛により 之を奉納し併せて表記の悲歌を碑となし 遺恨を千載に留めて硝煙の中に散りゆきし御霊に捧げ 英勲の安らかに眠られんことを祈ると共に世界平和を悲願といたします。
  昭和41年4月19日 建立
   日本民主同志会中央執行委員長
   泉湧寺管長


人命尊愛・神石(沖縄県護国神社)

新宗教の「修養団捧誠会」の教祖・出居清太郎による建立。

アジアにひとたび戦雲おおえば
惨禍およばざるところなし
と昭和三年天啓によって諭され時の政府に再三謹告したにもかかわらず聴聞に達することを得ずかえって獄舎の身となる 
時の流れはそのまま推移し時局は予言にたがわず第二次世界大戦へと突入アジア全域にわたって戦塵の巷と化す 
このとき再び 琉球は聖地なり の天啓をいただくもいかんとする術を知らず 
日ならずして沖縄に戦火燃え彼我の熾烈なる攻防に山容あらたまり幾多の人命は失わる 
やがて戦火止むといえども人心その拠るところを失う 
たまたま修養団捧誠会沖縄県支部の発会を機として仲本興徳支部長護得久和子根波朝造副支部長以下同志の熱誠と沖縄県護国神社奉賛会具志堅宗精会長ほか三好邦忠加治順正両氏等同神社関係の人達の協力を得てここに人命尊愛和石の建立をみる 
まさに天の理と人の和の合掌の姿なり 
人命尊愛は人の命を長らうるのみにあらず尊い命を与えられし万人が活かされる大恩に感謝し他自ともに助けあい悠久なる平和の郷をこの地上に実現せんとするためなり 
これ吾人の七十年の願望なり 
沖縄はアジアの要にして東洋の平和の根元たるべき聖地なり 
ここに人命尊愛の和石を通じ広く万人に呼びかくるものなり
 昭和四十九年九月吉日
  修養団捧誠会
  教祖ならびに総裁 出居清太郎
  清堂亀井安之助謹書


傷痍軍人夫妻像(沖縄県護国神社)

傷痍軍人夫妻像
去る第二次世界大戦において多くの若者が異国の戦場で散華し、又は、傷痍の身となった。
特に、沖縄戦においては、民間人も 戦闘に協力し、尊い命を失い、又は負傷した。
昭和29年1月沖縄傷痍軍人会を結成し、2630名の旧軍人及び戦傷病者が入会した。戦後、塗の苦しみを体験した私達は、世界の恒久平和を渇望し、その証として、この像を建立する。
 平成23年6月22日
  財団法人 沖縄県傷痍軍人会
  沖縄県傷痍軍人妻の会


あゝ特攻(沖縄県護国神社)

(公財)特攻隊戦没者慰霊顕彰会 日本人の心を伝える会

私たちはあなたたちを忘れない
あゝ特攻

沖縄を護るため、航空機による空の特攻、戦艦や特殊潜航艇による海の特攻、爆雷を用いての陸の特攻で散華されたすべての特攻戦没者、並びに戦地に赴き特攻にて散華された沖縄県出身の戦没者を永久に顕彰する。

空の特攻
 大東亜戦争末期、最後の手段として航空機による特攻が行われた。 特攻隊員の中には、昭和19年12月16日フィリピン・スミラフ島付近で海軍神風特攻隊 として散華した 我喜屋元太郎少尉 (伊計島出身) ら沖縄県出身者も存在する。 沖縄戦においては、昭和20年3月26日那覇南西洋上にて戦死した陸軍特攻隊の伊舎堂用久中佐 (石垣島出身) をはじめ、終戦まで沖縄を護るため海軍1,957名 (982機)、陸軍1,021名 (義烈空挺隊 含む891機) が特攻で散華した。

海の特攻 
 昭和20年4月7日 戦艦大和 を旗艦とする第二艦隊は、海上特攻隊として沖縄を死守すべく出撃したが、坊ノ岬沖にて米軍機の攻撃を受け、約三千名が散華した。その中には沖縄県出身者37名も含まれている。 また、沖縄守備隊として渡嘉敷、阿嘉、慶留間、座間味、北谷、読谷、与那原、那覇、具志頭、糸満、玉城に配備されていた陸軍海上挺進戦隊「マルレ」、金武、石垣、宮古、小浜に配備されていた海軍「震洋隊」、運天港に配備された特殊潜航艇「蛟竜」は、米軍の砲撃を受けつつも米軍艦艇に対し攻撃を行った。 他にも人間魚雷「回天」は伊号潜水艦に搭載され、昭和20年3月から沖縄近海に出撃し、多くが艦艇と共に散華した。

陸の特攻
 首里に司令部を置き、宜野湾、浦添以南に陣地を配備した沖縄守備隊第三十二軍は、昭和20年4月1日沖縄本島中部西海岸に上陸した米軍と壮絶な戦いを繰り広げた。その際、激戦地となった嘉数高地 (現在の宜野湾市嘉数高台公園) や安里52高地 (現在の那覇市おもろまち) での戦いでは、手作りの梱包爆雷を抱えた兵士による敵戦車への肉弾特攻が行われた。また、県内各地の戦場でも 鉄血勤皇隊 などの沖縄県出身学徒による肉弾特攻が行われ、壮絶な最期を遂げた。
 平成30年4月23日 
  沖縄県護国神社


場所

https://maps.app.goo.gl/A69QvQT6PkSnL63X7


撮影:2022年10月


沖縄戦跡慰霊巡拝

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