学童疎開船の悲劇「対馬丸記念館と旭ヶ丘公園」(沖縄戦跡慰霊巡拝13)

沖縄戦跡慰霊巡拝の記録「その13」となります。

その12は、下記にて。

2022年10月記録です

みたま安らかに


対馬丸事件

対馬丸は、日本郵船のT型貨物船の一隻。
総トン数は6,754トンの貨物船。
T型貨物船は、日本郵船の事実上最初の大型貨物船であり、高速ディーゼル船が就役するまで日本郵船の貨物船隊の主力であった。
大正2年(1913)から大正10年(1921)まで合計28隻が建造された。
1920年代以降は、高速ディーゼル船に第一線を譲り、1930年代後半からの世界情勢の悪化に伴い、援用貨物航路は縮小され、太平洋戦争とともに、陸海軍徴用船として使用され、多数の被害を出した。
終戦時にT型貨物船として残存したのは、28隻のうち1隻のみ(鳥羽丸)であった。

対馬丸は、大正4年(1915)竣工、大正5年(1916)6月21日就役。
就役後は、第一次世界大戦後に再開されたパナマ運河経由の貨物船として、横浜ーニューヨーク航路第一便として出航する栄誉を担った。
昭和12年(1937)に、対馬丸は日本郵船新鋭船にメインルートを譲り、カルカッタ航路を担当。
昭和16年(1941)9月21日付で日本陸軍に徴傭され南方戦線の輸送に投入。
昭和17年(1942)5月5日に日本陸軍の徴傭船としては解傭され、6月12日からは船舶運営会使用船となり物資輸送任務を担った。
昭和18年10月28日付で、再び日本陸軍に徴傭され、陸軍徴傭船となる。

昭和19年7月、サイパンの戦いが終結し、沖縄の防衛が急務となっていた。
そのため輸送船団は、沖縄本島に展開する兵員や軍需輸送を本土から沖縄に往路は軍事輸送、沖縄から本土への帰路は沖縄疎開の非戦闘員を乗せた疎開輸送を担っていた。

8月1日。本土からの沖縄への往路として、対馬丸は「モ05船団」に加入して、門司港を出港。「対馬丸」には、船舶工兵隊第二十六聯隊第一中隊211名が乗船し、同行輸送船には「和浦丸」「暁空丸」、護衛には敷設艦「白鷹」駆逐艦「響」などの船団であった。

8月5日。嘉手納港に入港した「モ05船団」は陸軍部隊を揚陸。対馬丸・和浦丸・暁空丸は「609船団」として上海・呉淞に回航し、沖縄防衛を担う第62師団の兵員を搭載して、護衛する駆逐艦「蓮」「栂」砲艦「宇治」とともに8月19日に那覇に到着した。

8月21日18時35分。
「ナモ103船団」として、「対馬丸」「和浦丸」「暁空丸」と、駆逐艦「蓮」砲艦「宇治」は長崎に向けて那覇を出港。
対馬丸には、学童疎開と民間人で1,661名が乗船。また、船舶砲兵隊41名も乗船していた。乗員は86名であった。
なお、和浦丸は、学童疎開者だけで1,514名、暁空丸は、一般疎開者だけで1,400名の乗船であった。

アメリカ海軍は、暗号解読などにより「ナモ103船団」の動向を把握しており、アメリカ潜水艦ボーフィン(SS-287 USS Bowfin)がレーダーでナモ103船団を探知。

8月22日22時9分、「ナモ103船団」を捉えた米潜水艦ボーフィンは、魚雷6発を発射。
対馬丸に2本魚雷が命中。船長は「総員退船」を命するも、魚雷命中の11分後の22時23分頃、対馬丸は大爆発をして沈没した。
乗員乗客あわせて1,484名が死亡した。このうち、15歳以下は1040名が犠牲となった。
(学童疎開者784名、疎開介添者30名、一般疎開者625名、船員24名、船舶砲兵隊員21名)
なお、学童疎開者で生き残った児童はわずかに59名であった。

なお、米潜水艦ボーフィンは、「真珠湾の復讐者」として、日本の艦船44隻を沈めたとされ、現在は、真珠湾のボーフィン記念公園に保存されている。


対馬丸記念館

対馬丸記念館

https://www.tsushimamaru.or.jp

対馬丸デジタルアーカイブ

https://www.tsushimamaru.net

對馬丸記念館

疎開船対馬丸で犠牲になった子どもたちの資料館
対馬丸記念館

昭和19年(1944)年7月7日、サイパン島の日本軍が全滅すると、次はいよいよ沖縄が戦場になる危険が大きくなり、政府は沖縄の子どもやお年寄り女性など、10万人を県外に疎開させる決定を下し、学童疎開のために沖縄県学童疎開準備要項を発令しました。学童疎開は文部省の指示を受けた沖縄県教学課が推進しましたが、すでに米軍の潜水艦が沖縄・鹿児島間の海上に出没し、多くの犠牲者が出始めていることを親たちは公然の秘密として知っていたので、疎開業務は容易に進めませんでした。その結果として沖縄県が策定した疎開計画では、国民学校初等科3年生から6年生までの学童が原則でしたが、実際には1.2年生や女子、高等科の学童もいました。学童疎開は8月14日から9月14日まで数回にわたって実施され、5,586人が船で九州に向かいました。
疎開船対馬丸はそのなかの一隻で、昭和19年8月21日那覇港から学童834名、一般・引率827名を乗せ僚船2隻、護衛艦2隻とともに長崎に向けて出港しました。翌22日那覇の沖合から追跡してきた、米潜水艦ボーフィン号(USS BOWFIN)の魚雷攻撃によって午後10時12分頃鹿児島県トカラ列島悪石島近海で撃沈され、学童780名を含むおおよそ1,500名が犠牲機となりました。
平成9年(1997)12月12日、科学技術庁海洋技術センター(現独立行政法人海洋研究開発機構)の海底探査によって海底に横たわる対馬丸が発見され、遺族は遺骨収集と船体引き上げを政府に要請しましたが、引き上げ不可能との回答をうけました。その結果、船体引き上げに代わる遺族慰謝事業として全額国庫補助により対馬丸記念館を建設、撃沈から60年後の平成16年(2004)8月22日に開館しました。
館内には、対馬丸事件の経緯や数少ない遺品や遺影を、子どもたちにも理解できるように展示しています。
沖縄で唯一の子どもの記念館として、平和発信と子供達の未来を創造する活動を行なっています。

疎開船対馬丸
6754トン
1914年に作られた、建造後30年の貨物船。那覇市内の8つの国民学校の生徒をはじめ、県内各地から集まった一般疎開者合計1661名が乗船していたと言われています。

建物について
対馬丸記念館は対馬丸への乗船をイメージして作られた建物です。屋上までの高さは、約10メートル。海面から甲板までと同じ高さに設計しています。
船の長さは135メートルで、この敷地の左端から波の上ビーチ入り口までの距離とほぼ同じ長さです。
館内への入り口を2階に設け、タラップから館(艦)に乗船するイメージで設計されました。また、2階の第一展示室から1階の第二展示室への階段は、船倉へ降りるイメージを再現しています。

対馬丸の模型と絵画

日本郵船寄贈
T型貨物船(戦時中は陸軍徴用船・学童疎開船)
対馬丸100分1模型

寄贈:船舶砲兵部隊慰霊碑を守る会
画:上田毅八郎(船舶画家)

「船舶砲兵部隊慰霊碑」は広島の比治山陸軍墓地に建立されている慰霊碑(未訪)

https://www.tsushimamaru.net/3019

対馬丸には、船舶砲兵隊も乗船をしていた。

真っ暗な海に投げ出され漂流する様子を再現。
はり巡るロープは波を表している。

対馬丸は、もともと貨物船だったということもあり、甲板の下は窓もなく2段に仕切られた板の上で、蒸し暑い中を我慢して過ごしたという。

学童疎開

学校の様子

遺影
みたまやすらかに

小桜の塔のシンボル。
対馬丸の子どもたちが平和の使いとなって大空に羽ばたくようすを表している。

いま「対馬丸」を語ること
昭和19年(1944)8月22日午後10時12分対馬丸は鹿児島県・悪石島沖で米国海軍ボーフィン号の魚雷を受け沈没しました。乗っていた疎開学童、訓導・世話人、一般疎開、船員・兵隊ら1418人(氏名判明者数)が一瞬にして帰らぬ人となりました。あれから60年、このことは悲劇として知られることはあっても史実として語られたことはありません。

私たちは考えました
いま「対馬丸」を語ること、それは何でしょう?
戦争のこと?それとも平和?
本当に語って欲しいこと、それはいまそこにある
それぞれの「夢」のことです

暗くつらい戦時でも「夢」は持っていました
でも、生きれいればこその「夢」
犠牲になった彼らの無くしてしまった「夢」
彼らが持っていたであろう未来への「夢」
その「夢の未来」に私たちは生きています

この館に身を置いたら、感じてみて下さい
そして、考えてみて下さい

この館には犠牲者の数と比較して
遺品など、「物」があまりありません
どうしてでしょう?
あまりにも長い時間がたったから?
思い出を残そうとしなかったから?

沖縄戦では、多くが焼かれ破壊しつくされました
形あるものは失われました
しかし、人々の「想い」は決して失われません

人々の「想い」、それは平和への強い「希望」です
戦争を語るとき、悲しみと憎しみが生まれます
悲しみの大きさを、「希望」にかえる努力をしないと
憎しみが報復の連鎖をよびます
しかし、報復の連鎖で悲しみは癒やされるのでしょうか?

いま「対馬丸」を語ること、それはなんでしょう?

いまも世界では報復の連鎖が
子供達から新たな夢と希望を奪っています
この報復の連鎖を断ち切る努力を一人ひとりがすること
これこそが、対馬丸の子どもたちから指し示された
私たちへの「課題」ではないでしょうか
 2004年8月22日 財団法人 対馬丸記念会

場所

https://maps.app.goo.gl/pJcdKjfXGJ96fAjv7


旭ヶ丘公園

波の上ビーチに隣接する公園。多くの記念碑・慰霊碑が集まっている。
対馬丸記念館、波上宮、護国寺などが近隣にある。


小桜の塔(旭ヶ丘公園)

対馬丸の犠牲者の慰霊碑

昭和19年8月22日夜半、学童疎開船対馬丸は、米潜水艦の魚雷攻撃を受けて、悪石島沖で撃沈し、いたいけな学童と付添の人・1484人の尊い生命が、ひと時に奪われてしまいました。
 これらのみたまを弔い慰め、世界の恒久平和を念ずるために、多くの人々の善意で「小桜の塔」は建立されました

小桜之塔
厚生大臣 草葉隆圓書

小桜の塔建立について
愛知県丹陽村の「すずしろ子供会」会長川井桂氏は、戦争の犠牲となった子供達の慰霊塔が沖縄にないことを憂え、昭和28年護国寺の名幸芳章住職を通じて対馬丸遭難者遺族会に建立の意志を申し出た。河井氏を始め 関係者は愛知県の児童に広く1円募金を呼びかけて20余万円の浄財及び資材を集めるに至り、同年5月五日小桜の塔が建立された。

悪石島の霊石
この敷石は、対馬丸が沈没した悪石島海岸の石を集めた霊石です。

小桜の塔のシンボル。
対馬丸の子どもたちが平和の使いとなって大空に羽ばたくようすを表している。

弔歌
いのちみじかく青汐に 花とちりつつ過ぎゆけリ 
 年はめぐれど帰りこぬ おさなき顔の眼には見ゆ
  山崎敏夫

犠牲になられた皆様のご芳名
みたまやすらかに

小桜地蔵尊
昭和45年建立

https://www.soumu.go.jp/main_sosiki/daijinkanbou/sensai/virtual/memorialsite/okinawa_naha_004/index.html


海鳴りの像・戦時船舶遭難碑(旭ヶ丘公園)

戦時遭難船舶での犠牲者を祀る。
戦時遭難船舶は二六隻。「海なりの像」には、対馬丸を除く二五隻の船舶で犠牲になられた県民1,927人(沖縄県調査)の御霊を祀っている。
対馬丸の犠牲者は、上記の「小桜の塔」で祀っている。

海鳴りの像

海鳴りの像
 第二次世界大戦(太平洋戦争)で沖縄県は、全国で唯一地上戦が闘われ、軍・民併せて
二十万余の尊い命が犠牲になりました。戦後六十二年経った今日なお、戦争で犠牲になった人々の遺骨がいまだに山野に残されたままになっています。他方沖縄県は、離島県である
が故に、海で犠牲になった県民は三四〇五人(沖縄県調査)にのぼります。学童疎開船
「対馬丸」を初め、軍需工場に向かった若者や女子挺身隊・少年航空兵になるために
乗船した者・召集令状を受け、郷里から出征しようと本土から沖縄に向かったもの・満州
開拓団から帰郷した者・南洋方面から軍命によって強制送還された者などです。
 沖縄県民が乗船して撃沈された戦時遭難船舶は二六隻です。海なりの像には、対馬丸を除く二五隻の船舶で犠牲になられた県民一九二七人(沖縄県調査)の霊を祀ってあります。二度と再び悲惨な戦争は起こしてはならないと堅く誓い、犠牲になられた御霊に心から追悼の誠を捧げます。戦時遭難船舶遺族会は、一九八七年六月二十三日「海鳴りの像」を建立しました。
二〇〇七年六月二十三日、赤城丸(四〇六人)・嘉義丸(三六八人)・開城丸(十人)・湘南丸(五七七人)・台中丸(一八六人)など五隻の犠牲者(一五四七人)の「刻銘板」を建立しました。
 戦時遭難船舶遺族会

https://www.soumu.go.jp/main_sosiki/daijinkanbou/sensai/virtual/memorialsite/okinawa_naha_003/index.html


戦没新聞人の碑(旭ヶ丘公園)

新聞社の戦没者14柱の慰霊碑。

戦没新聞人の碑

1945年春から初夏にかけて沖縄は戦火につつまれた。砲煙弾雨の下で新聞人たちは二ヵ月にわたり新聞の発行を続けた。
 これは新聞史上例のないことである。その任務を果たして戦死した14人の霊はここに眠っている。
   昭和36年9月 建立

沖縄新報社(1940年に沖縄日報・沖縄朝日新聞・琉球新報が戦時統合)、同盟通信社、朝日新聞社、毎日新聞社

「沖縄新報」は、沖縄戦の進捗とあわせ第32司令部壕の東側に設けられた「新聞社壕」に移り、3月下旬からは、地下壕で印刷発行が行われた。第32軍司令部の南部撤退が決まった直後の5月25日まで続けられた。
第32軍司令部の南部撤退とともに新聞発行が不可となり1945年5月25日に廃刊となった。

犠牲になられた皆様のご芳名
みたまやすらかに


台湾遭難者之墓(臺灣遭害者之墓)

敷地としては、「波の上の護国寺」の境内にあたる。
戦争とは関係なく、「宮古島島民遭難事件」(琉球漂流民殺害事件)の遭難者の墓。
明治4年(1871年)宮古の船が台湾に漂着し、69人のうち3人が溺死、54人が漂着先の台湾原住民に殺害された。
日本政府は、清国に抗議するも、清国から「化外の民(台湾原住民は国家統治外)」と回答されたことから、のちに、明治7年の「台湾出兵」につながることとなる。


琉球箏曲先師顕彰碑

戦争とは関係ない、「琉球箏曲」(琉球琴)の「かつての師匠」を「顕彰する碑」かと。


波上宮(沖縄総鎮守・琉球国新一の宮・官幣小社)にも、行けばよかったのですが、時間があまりなかったので、見送りとなりました。以前の私であれば、全国一宮巡拝として必ず参拝したと思うのですが、今回は軸点が戦跡に集約されていいたので。

撮影:2022年10月


沖縄戦跡慰霊巡拝

「その14」へ

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です