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横須賀で最初の民間トンネル「梅田隧道」

近くに赴く機会があったので、足を運んでみました。
まあ、近くというのは「海軍工廠造兵部」散策のためだったんですけどね。


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梅田隧道(梅田トンネル)

トンネルの数が日本一ともいわれている横須賀市。
そんな横須賀で、軍用以外のものとして、民間が掘った一番最初のトンネルが「梅田隧道」であった。

明治19年(1886)、船越新田から田浦および浦郷にかけて、海軍水雷営と水雷修理工場が展開され、海岸地域は軍用地となり上陸禁止。
村民たちは船で往来することが出来なくなり、また生業を奪われた漁民は水雷修理工場等の従業員に転じ、いくつかの山路を越えて工場へ通勤するようになった。往来の不便を解消するために山坂を避けて梅田坂に新道を作ることに決め、地元有志の私財でもって、梅田隧道は、明治20年(1887)に素掘りで開通。
トンネルの掘削で出た残土は榎戸の渡船場周辺から日向にかけての埋立てに利用され、またトンネルの開通によって、それまで何時間もかけて山越えして海軍工廠造兵部に通う従業員たちは、往来が大変便利となった。

海軍工廠造兵部は、現在の東芝ライテックのあるあたりが中心。
(海軍工廠造兵部関連散策記事は後日、未作成)

横須賀市>

カナコロ>

丘陵が多く、「トンネルの数が日本一多い」ともいわれる横須賀市。道路用や鉄道用など、市内には150本以上が通っているという。その中で、民間人が掘った最初のトンネルが、1887(明治20)年に開通した「梅田隧道(ずいどう)」(同市船越町8丁目…

南側の坑門。

梅田隧道

現在は、鉄板で保護されている。

北側の坑門。

梅田隧道


梅田隧道碑(梅田隧道之碑)

大正4年(1915)11月建立。
碑は梅田隧道の北側口から約140mのところにある。
高さ160㎝ほどで、1行35字、18行にわたり田辺新之助による漢文と詩が刻まれている。
扁額は海軍大将樺山資紀。

横須賀市>

横須賀市指定市民文化遺産
梅田隧道碑
軍用以外では、本市で最初のトンネルで、近隣町村の有志が多額の費用を出し合い、明治20年3月に完成した。碑は大正4年に建てられた。

梅田隧道碑について
 かつて日向、榎戸地区では大勢の人が漁業で暮しをたててゐましたが、明治十五年、船越に海軍水雷艇基地や修理工場ができて、周辺の港は軍用になつたので、多くの人は生活の手段を奪はれ、軍関係の工場で働くやうになりました。しかし通勤は険しい山坂を超えて行かなければならないので、難渋をきはめました。そこで田川幸蔵、渡辺富太郎らの地元有志は、村の発展と通勤者の便宜を図るため、私財を投じてトンネルを掘る決心をしました。工事は明治十九年五月から始まり、二人の犠牲者を出すといふ難工事の末、二年を経て完成して、梅田隧道と命名されました。
 横須賀市内では民間人が掘つた初のトンネルで、国に頼ることなく、すべて自力でやり遂げ、今でいふボランティア活動の先駆けといつてよいでせう。大正四年、先人たちの努力と功績を後世に伝へるため、この記念碑と建てました。
 題字は海軍大臣などをつとめた樺山資紀、顕彰碑文は逗子開成中学(現在の逗子開成学園)の創立者で、漢学者の田辺新之助が書いたものです。

樺山資紀の扁額

梅田隧道之碑

※撮影:2023年4月

場所


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