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兵庫縣姫路護國神社

「兵庫縣姫路護國神社」に立ち寄る機会がありましたので、参拝してきました。

御英霊に感謝を。

ちなみに兵庫県は、護國神社が2社あります。神戸と姫路。内務大臣指定護国神社として。
 兵庫縣神戸護國神社:兵庫県東部地区出身の戦没者53,257柱
 兵庫縣姫路護國神社:兵庫県西部地区出身の戦没者56,988柱

参考

平成30年11月参拝 兵庫県神戸市灘区鎮座 「兵庫縣神戸護國神社」は兵庫県東部ゆかりの戦没者53,257柱を祀る。 ちなみに兵庫県内...
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兵庫縣姫路護國神社

戊辰の役(明治元年)以降国難に殉ぜられた兵庫県西南部地域(播州、但馬地区)出身の護国の「みたま」五万六千九百八十八柱命を祀る。

1893年(明治26年)より毎年、現鎮座地の近くに祭庭を設けて招魂祭が行われていたが、正式な社殿を造営して招魂社とすることとなり、1936年(昭和11年)に鎮座地を決定。
1938年(昭和13年)に竣工・鎮座した。
翌1939年(昭和14年)、制度改革により「兵庫縣姫路護國神社」となり、内務大臣指定護国神社となった。
第二次世界大戦後のGHQ占領下では一時的に姫路城の別名の白鷺城に因んで「白鷺宮」と改称していたが独立後は元の社名に復している。


兵庫縣姫路護國神社境内

社号標

昭和天皇御製
静かなる
 神のみそのの
  朝ぼらけ
世のありさまも
 かかれとぞおもふ

昭和13年歌会始の御製「神苑朝」

狛犬

社号標

昭和17年12月8日建立。開戦の1年後。

御社殿

拝礼

ありがとうございます。


御朱印

御朱印をいただきました。


護國神社の由緒

兵庫縣姫路護國神社の由緒を、書き起こし。
これは、とても佳き記述です。

護國神社の由緒 
明治という時代は今に続く国の仕組みの基になりました。
慶応3年(1867)徳川慶喜公が大政奉還を明治天皇に上奏し、王政復古の大号令によって明治政府樹立が宣言されました。この前後、国内では、独立を保つ近代国家をめざして様々な議論や戦いがありました。
姫路藩河合惣兵衛宗元をはじめ明治維新の志半ばで倒れた勤王の志士を、慰霊顕彰する祭祀が、明治26年(1893)この地で執行されました。それが当護國神社の始まりであります。
その時代から昭和に至るまで国家を守護し、地域とそして何より家族を守ろうとして殉ぜられた方々を英霊とお呼びし、最新としてお祭りしています。
先人の困難を振り返り、あらためて私たちが平和で豊かな国土に暮らしていることに感謝し未来の御加護を祈りましょう。

我が国が米国や英国などと戦った大東亜戦争は、国内に物資も乏しい上に供給を止められ惨烈を極めました。特に「比島散華碑」に記載された部隊が派遣されたフィリピン、ルソン島のように、南方では武器も食料も尽きその上マラリアなど熱帯特有の病気に罹るなど、将兵の疲労困憊は、極度に達し、遂に力尽きて斃れるものも多かったのです。生存者は少なく、戦後13年を経て昭和33年(1958)4月、政府の手により比島方面遺骨収集が行われました。共に戦った戦友は、護國神社に相よって英霊の偉勲を讃え、石碑を建立しました。
召集や志願で戦地に向かわれ戦死された方々の残された手紙や遺書には、本土への空襲を阻止するなど祖国防衛の気概と家族を守らんとする思いにあふれています。

明治維新のさきがけから、戦陣に倒れた英霊は246万余柱です。当護國神社には郷土の人たち56,988柱の方々が祀られています。多くの方々が「欧米諸国によるアジアの植民地を開放し、自立を目指すという理念と構想」を元に始まったとされる大東亜戦争で戦死をされました。
昭和6年(1931)の満州事変から昭和20年(1945)の長い戦いの中、我が国は、資源や財力も乏しく敗戦を迎えました。戦後約6年8ヶ月もの間、占領下におかれ、民族固有の価値観が制限されました。その間当護國神社は、社名を「白鷺宮」として祭祀を永続し、昭和27年占領が解かれ、再び護國神社と復称いたしました。昭和28年8月衆議院本会議において「戦争犯罪による受刑者の赦免に関する決議案」が、全会一致で承認され、東京裁判でいわゆる戦犯と呼ばれた方々の名誉が回復されました。

先の大戦は、国家国民を挙げての戦いでありました。
勉学に励む20歳以上の学生も戦場に向かいました。
東京オリンピックが開催された国立競技場は、昭和18年(1943)に出陣学徒壮行会が行われました場所です。
また、国民は男女を問わず、地域や工場で奉仕するなど銃後を守りました。「賀堂流碑」は、戦地に兵士の慰問に行かれ戦死された宗家を顕彰して建立されました
今を生きている私たちが、戦争の起こった当時の状況を学び理解することは、大変重要なことです。私たちはそれらの資料に基づいてその歴史を客観的に見ることができます。しかし、動乱のなかに生きた英霊は、大変な困難を前に一心に、自分の命をかけて、国家を、地域を、家族を守ることが、正しい道と考え立ち向かわれました。
そのことを後世の人達が称え、感謝することはとても大切なことです。

日本全国には8万柱を超える神社が鎮座しています。
日本最古の歴史書「古事記」が編纂されて1300余年になりますが、それ以前から私たち民族は、自然と祖先を崇拝し感謝をささげるために、8百万の神々を祀ってきました。
私たちが命をいただき生きているのは、自然の恵みと祖先のおかげであります。
護國神社の御祭神は身近なご先祖の一柱です。
あなたのたくさんのご先祖様の中には、必ず御英霊がいらっしゃいます。
ふりかえって、もう一度社殿を見てください。
子孫を温かく見守って下さるまなざしを感じられると思います。
神社のいわれを深く知り、もう一度頭を垂れ感謝の気持ちを伝えてください。
 ここはあなたの祈りが届場所です。
  姫路市本町118
  兵庫縣姫路護國神社


境内の慰霊碑

鉄五四五四部隊 比島散華碑

鉄五四五四部隊(第十師団輜重兵第十聯隊)の慰霊顕彰碑。
昭和三十四年十月建立。

鉄五四五四部隊(第十師団輜重兵第十聯隊)は昭和十九年七月満州国三江省佳木斯に於て動員下令翌八月同所を出発台湾防衛の任に就く同年十二月比島作戦参加の為め高雄港を出発主力を以てルソン島リンガエンに一部を以てマニラ及アパリに上陸す途中主力の乗船せる乾端丸は敵潜水艦の攻撃を受けて軣沈部隊長鍋島少将以下多数の戦友を失う昭和二十年一月中部ルソン島ハレテ峠付近に集結米軍迎撃の準備を整ふ同年二月優勢なる米軍は空陸呼応して我が陣地正面に対し攻撃を開始す此処に於て聯隊は第一大隊をして第一線部隊に対する補給を継続せしむると共に第二大隊をして其の補給任務を解除し之を歩兵部隊に改編し第一線陣地の守備に就かしむ恰も我が第二大隊陣地正面は米軍の主攻撃方向に当りたる為其の戦斗は惨烈を極め全員勇戦奮斗せるも戦況我に利あらず大隊長以下多大の犠牲者を出すに至れりかくの如くして此の方面に於て激戦を継続すること半年有余部隊は爾后の作戦準備の為ビノンカシブを経てビナバガンに向ひ転進を開始せり此の間凡そ二百粁人類未踏の山岳地帯にして進まんとすれど道無く食はんとすれど糧なく将兵の疲労困憊は極度に達し遂に力尽きて斃るゝもの数を知らずかくして八月初めピナバガンに到着戦斗準備を完了す此の時に於ける部隊の生存者は百有余名なり昭和二十年九月十一日終戦を知る 戦後十有三年を経て昭和三十三年四月政府の手により我等念願の比島方面遺骨収集が行はれ幸にしてこれが分骨を受く此処に生存者同志相寄り護国神社境内に石碑並に献木し亡き戦友の偉勲を讃え其の霊を弔う

碑の傍らには、「輜重車の車輪」が献納されておりました。

散華鎮魂
二六四三

2643は、紀元かな。
そうすると、1983年(昭和58年)奉納の鐘と推測できる。
(紀元2600年=西暦1940年=昭和15年)


姫路歩兵第百三十九聯隊 
鎮魂碑

第百三十九聯隊の戦友戦没者1357柱の慰霊顕彰

姫路歩兵第百三十九聯隊略史
昭和十三年六月、軍旗を拝受。北支に出征。鷺三九〇八部隊として河北省、山東省その他を転戦し、数年にわたり、よく治安の大任を果す。
昭和十九年、黄河を渡り京漢作戦に参加、梃進部隊として密県、登封、洛河々谷を進撃し、その武勲高く輝く。こえて昭和二十年、老河口作戦開始せらるるや、たちまち内郷、西峡口に突入し、数倍の敵を阻止し、その武功抜群の奮戦により感状が上聞に達した。
終戦後、八月二十四日軍旗を奉焼し、洛陽に集結。翌二十一年三月、同地出発、帰国、復員する。散華して祖国に帰り得ない英霊一三五七柱あり。
われら、鎮魂のため、永久平和を祈念して、この碑を建立する。

第139聯隊戦友会  
 会長 伊藤栄一謹書
  平成四年五月吉日


歩兵第八十一聯隊・野砲兵第二十三聯隊 
鎮魂

歩兵第八十一聯隊、野砲兵第二十三聯隊戦友戦没者の慰霊顕彰

鎮魂
 元第十七師団長 酒井康

酒井康は、第17師団長・留守第56師団長・陸軍兵器本部企画部長等を歴任し、階級は陸軍中将、勲一等に至る。陸士24期を経て陸大32期首席。
昭和17年12月から17師団長として南方戦線ニューブリテン島の防衛にあたり、ラバウルで持久戦のさなか、終戦を迎えた。

歩兵第八十一聯隊戦友会
野砲兵第二十三聯隊戦友会
建之

歩兵第八十一聯隊ハ支那事変酣ノ昭和十三年第十七師団隷下ニ編制八月軍旗ヲ遠ク長江山野ニ進メ宜昌・漢水・豫南・浙贛他数多作戦悉ク捷チ馳騁千里武名華中ニ遍ク 
戦雲南東太平洋ヲ蓋フヤ十八年秋敵雷撃ニ僚船轟沈ノ悲運ニ堪ヘ南溟ノ怒涛遙カニューブリテン島マーカス岬ニ奮迅御嘉賞ヲ賜フ士氣凛々祖国ノ興廃ヲ賭シテブーゲンビル島タロキナ攻隊ノ死闘半ハ終戦ノ令下り無念軍旗ヲ奉焼ス 征戦七年殉国ノ勇士五千有余敵弾ト飢餓瘴癘ニ遂ニ還ラス実ニ痛恨断腸ノ極茲ニ我等碑ヲ刻ミ忠烈武勲ヲ千載ニ垂レテ英魂ヲ鎮メ邦家無窮ノ安寧ヲ希フヤ切ナリ
 昭和五十七年五月三日
  歩兵第八十一聯隊戦友会

第十七師団野砲兵第二十三聯隊は明治四十一年創立大正十四年廃隊昭和十三年再編同年七月大陸に進出
武漢攻畧・高瑞鎮・漢水・豫南・浙贛等各作戦に武勲を挙げ十八年装備を山砲に改め同年秋呉淞出港台湾沖にて敵潜水艦の雷撃を受け聯隊長以下の枢軸を失ふもニューブリテン島ブーゲンビル島に上陸・ツルブガスマタ・タラセヤ・タロキナの攻防戦に死闘し 時に利なく二十年八月終戦の令下り二十一年五月名古屋にて解隊す
創立以來敵弾飢餓瘴癘に殪れた幾多戦友の英魂を鎮め武勲を千載に残すため我等戦友遺族相寄りこの神域に鎮魂碑を建立す
  昭和五十七年五月三日
   野砲兵第二十三聯隊戦友会


詩歌吟詠道 賀道流碑

部隊慰問中に急逝された詩歌吟詠道賀堂流(初代宗家・礒部賀堂)の慰霊顕彰の碑

詩歌吟詠道 賀道流碑

碑文
詩歌吟詠道賀堂流は初代崇吟社礒部賀堂創始 礒部家を宗家として伝承す
初代は明治二十六年七月姫路東郷町松下家に生れ礒部家に入婿坂田町に住す姫路藩吟詠を伝えし西村宣孝の教を受く多年刻苦の末豪壮且つ幽麗なる吟詠法を創案しその格調天下に冠たり
全国に門人を得社会人心の醇化並に吟詠界に貢献多大なりしが昭和十七年再度戦陣慰問吟行中に中国山西省喉馬鎮に急逝し靖国神社に合祀さる
爾來二十星霜茲に及門相謀り流碑を建立して当流の由来を記しその発展を期すると共に創始の偉績を万世に顕揚す
   昭和三十七年三月
     詩歌吟詠道賀堂流門弟一同


征き逝きし 同胞迎う 里もみじ


敬仰 国旗掲揚塔

敬仰

海軍少将 水井静治 書

水井静治は海兵40期。千代田や千歳の艦長、舞鶴や呉の防戦司令官を経て終戦時は第81戦隊司令官。

碑文
 戊辰の役以降、今次大戦に至る数次の戦役において祖国の負託に応え国難に赴き散華された御霊の、不滅の偉勲を顕彰し国際社会にあって国家を表徴する英霊由縁の日章旗と、海軍伝統精神の象徴たる軍艦旗を捧げるとともに、併せて国旗尊厳を後世に伝承すべく念願して、海軍在籍者の団体兵庫県海交会、ならびに海軍ゆかりの有志により、ここに国旗掲揚塔を建立し奉献する。
  平成2年11月吉日
    兵庫県海交会

境内の石碑群

兵庫縣姫路護國神社サイト

兵庫縣姫路護國神社は、世界遺産姫路城のすぐそばにある英霊をお祀りしている神社です。神前結婚式、ご祈願、お祓い等を承ります。

姫路城

周辺も散策してみましたが、それは別記事にて

※撮影:2023年6月


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