2026年3月、秋田に赴く機会がありましたので、散策を。
(キュンパス(旅せよ平日!JR東日本たびキュン♥早割パス)」を活用した日帰り旅、でした)
その1では、秋田県護國神社を参拝。
https://senseki-kikou.net/?p=57246
そこから北上して、「ポートタワーセリオン」に到着。
目次
秋田港の軍艦防波堤
第二次世界大戦終戦寺の秋田港(土崎港)は、砂がたまって港としての機能を十分に発揮することができなくなっていた。
堤防を整備する予算も資材もない中で、軍艦を沈めて防波堤を構築することになった。
1948年(昭和23年)6月30日に秋田県秋田港の防波堤として、樅型駆逐艦「竹」、橘型駆逐艦「栃」、海防艦「伊唐」の3隻の船体が「軍艦防波堤」として、沈艦式が行われ、秋田港北防波堤となった。
軍艦防波堤は、砂の堆積を防いで秋田港の復興を支えたが、1975年(昭和50年)、秋田港の外港展開に伴う港拡張工事により、新しく北防波堤を築造することになり、旧来の北防波堤は撤去され、竹、伊唐、栃の船体も撤去された。
東北地方整備局 港湾空港部>
https://www.pa.thr.mlit.go.jp/akita/060/050/030/20200101013000.html
268mの軍艦防波堤
秋田港は、かつては土崎港と称していましたが、1941年(昭和16年)、南秋田郡土崎港町が秋田市と合併したことから、港の名前も秋田港と改称されました。同じ1941年からはじまった太平洋戦争は、秋田港にも大きな爪痕を残します。終戦前日の土崎大空襲(1945年/昭和20年8月14日)により港は大きな被害を受けます。さらに、海底にたまった砂を掘り出す浚渫船2隻が爆撃により沈没したことから、終戦後、港内にたまった砂を浚渫することができません。資材も乏しい戦後の混乱期、廃港の危機に立たされた秋田港は、旧軍艦を沈め防波堤を造るという住民の英知により復興します。1948年(昭和23年)駆逐艦「栃·竹」、海防艦「伊唐」の三隻が沈められ、長さ約268m、高さ6m、幅8mの北防波堤が築堤されました。その後、たびたび補修されながら四半世紀にわたり荒波をさえぎり、1975年(昭和50年)、港の外港展開とともに取り除かれ、その役目を終えました。軍艦の再利用により復興した秋田港の歴史は、戦争の時代から平和な時代への転換を物語っています。現在は、北防波堤の付け根部分の長さ30mに面影が残っています。
海防艦「伊唐」
駆逐艦「栃」
駆逐艦「竹」(初代)
駆逐艦「竹」
樅型駆逐艦の6番艦。1919年(大正8年)竣工。
1940年除籍され、舞鶴海兵団の練習船となった。
1944年に海軍機関学校付属練習船となり終戦。
海防艦「伊唐」
鵜来型海防艦の10番艦。1945年4月竣工。
終戦直前の7月31日に海上護衛総司令部第一護衛艦隊第一海防隊として、七尾港で輸送船団護衛を実施のさなか、触雷し大破。七尾港埠頭に係留され終戦を迎えた。
駆逐艦「栃」
戦時量産型の松型駆逐艦(改松型)。「栃」は未成艦であった。
1945年5月工事中止。「栃」の船体は船台を開けるために進水しており、船体は軍艦防波堤として活用された。
このあたりに、軍艦防波堤があった。
前述の説明に「現在は、北防波堤の付け根部分の長さ30mに面影が残っています。」とあったが、どうなのかな。
航空写真から
国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
1948年(昭和23年)に軍艦防波堤が完成。
ファイル:MTO628-C28-12
1962年10月18日
ファイル:MTO722X-C3-2
1972年05月28日
1975年(昭和50年)、港の外港展開とともに軍艦防波堤は撤去。
ファイル:TO791-C8-3
1979年06月15日
ポートタワー・セリオン
ポートタワー・セリオンから、四方を展望。
南側
海保
PS20しんざん
北側
秋田港駅
2026年7月で廃止となっている。(撮影は26年3月)
ENEOS秋田油槽所
終戦直前の「土崎空襲」では、土崎港北大浜地区の日本石油秋田製油所がターゲットであった。
秋田市ポートタワー・セリオン
高さ143.6メートル
展望台の高さは100メートル。
うどんそば自販機
おお、そういえば、ここでしたね。
うどんそば自販機があるって聞いたことあります。
かきあげうどん
へー、学校給食で使われている麺なのか。
※撮影:2026年3月
その3では、「土崎空襲」関連を散策します。
