富山大空襲 被災者漂流無縁仏供養地蔵尊(氷見・島尾海浜公園)

氷見の島尾海岸。
富山大空襲で被災した犠牲者が、富山市から遠く離れたこの地に漂着した、という。

氷見の浅野総一郎に会った帰路に、足を運んでみました。


富山大空襲

昭和20年8月1日、富山は米軍B-29爆撃機182機による大空襲を受けた。
富山市街地は99・5%を焼き尽くされ廃墟となり、死者は約3,000人、負傷者は約8,000人、被災者は約11万人にのぼった。
「富山大空襲」は、地方都市としては人口比で最も多くの犠牲者を出した空襲であった。

当時、米軍は、空襲目標として中小都市を選定していた。すでに空襲により都市機能を破壊した東京・大阪・名古屋・横浜・神戸・川崎・尼崎を外し、原爆投下候補として、京都・広島・新潟・小倉を外した、空襲対象地は137都市となり、富山市は人口12万7,000人で36番目であった。
しかし富山市は呉羽紡績・日清紡績・日本曹達・不二越などの近代的大工場が集まり東岩瀬港の改修と東岩瀬臨海工業地帯を始めとした臨海工業地帯が発展しつつあり、米軍としては重要な爆撃目標であった。
ただ、米軍は、富山において工場群を狙う戦略爆撃は実施せず(結果、工場群は、ほぼ無傷)ではなく、労働者(市民)の住む都市爆撃を敢行し、富山は多大な犠牲を払った。

https://www.city.toyama.toyama.jp/etc/kuushuu

https://www.toyama-gokoku.jp/ihouroku/2013/12/post-44.html


富山大空襲 被災者漂流無縁仏供養地蔵尊

合掌

趣意書
 昭和二十年夜半、東南の夜空は夕焼けの様に真赤でした。私達の上空ではサーチライトの光芒に小さい機影を見せて、B29の編隊が何度も富山市の方に向つて行きました。
 富山市の大半が焼き払らわれ、二二七五人の無辜の市民が無残に焼き殺された富山空襲の遠い夜景でありました。
 それから数日、劫火に追はれ川に逃がれて甲斐なく溺死した人々でありましょう、この海岸に点ゝと漂流死体が打上げられました。生まれたばかりの嬰児をしっかり胸に抱いた若い母、十二、三才の姉と六、七才の弟と手を縛り合せた寝まき姿のいたいけな骸に涙しながら村の古老達が近くの松の根方に懇ろに葬むりました。
 それから毎年八月一日、この不幸な無縁仏に野花を供えて供養をいたしておりますが、国泰寺管長稲葉心田老師の御激励と地元有志の協力を得まして、本年三十年忌に当り地蔵尊像を建立いたしました次第であります。
 御芳志賜りました多数の皆様のお心を念じまして、永く供養いたしたいと思います。
 昭和五十年八月一日

https://www.soumu.go.jp/main_sosiki/daijinkanbou/sensai/virtual/memorialsite/toyama_himi_005/index.html

供養地蔵尊は、富山の海に向いて鎮座している。

和光同塵

昭和50年(1975)8月1日の建立。
金沢出身で、朝倉文夫に師事した、米林勝二が彫刻。

趣意書
地蔵尊に刻まれた趣意書以外にも、案内板として2枚が公園内に。わかりやすくて良い。

地蔵尊建立の寄附者。
富山地区、高岡地区、氷見地区、宮田地区、県内外からのご芳名。

海の方向を。

富山大空襲で犠牲となり、神通川河口から流され漂流となった亡き骸が島尾の海岸に浮かび、打ち上げられた。

南側、富山市の方向

北側、能登半島の方向

遺体は、松の根方に懇ろに葬むられたという。

場所

https://maps.app.goo.gl/Xk15XpsBLXtTzWX57


島尾海浜公園

快水浴場百選の島尾海水浴場を有する白砂青松の島尾海岸に隣接した公園。
万葉の頃より「松田江の長浜」と呼ばれた景勝地。

猿が居ました。

孔雀も居ました。


交通手段

行きは、氷見線の島尾駅から。

氷見線。キハ40・47形。
いいぞ、気動車!

帰りは、運良くバスがあったので、「島尾」バス停から。

バスで高岡駅まで行けるが、途中の伏木駅前で下車、そこからはまた別の記録で。

※撮影:2026年9月


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