日本で最初の私立測候所「高岡市伏木気象資料館(旧伏木測候所)」

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伏木にある測候所に足を運んでみました。


伏木測候所

伏木測候所は、1883年(明治16年)12月1日に日本最初の私立測候所として藤井能三の首唱により設立された。
藤井能三は私費をもって伏木小学校を建設し、1875年(明治8年)10月には金澤米商会所を設立して伏木に商店を置き、あるいは越中汽船の取締役を務め、あるいは北陸通船の社長を務めた明治期の豪商であった。

伏木測候所は1884年(明治17年)1月1日から定時観測を開始し、1885年(明治18年)1月には内務大臣の認可を得、同年2月からは内務省地理局所属の各測候所と同等の資格をもって東京気象台と気象電報を交換することとなった。
1887年(明治20年)4月1日からは富山県伏木測候所として、富山県に移管され観測業務を推進。
1892年(明治25年)5月に富山県射水郡伏木町大字伏木臥浦町に新庁舎建設工事に着手され、同年6月20日に完成、同年7月1日に移転。
1909年(明治42年)3月31日に同郡同町古国府に再び新庁舎を建設し、同年4月30日に移転して、同年5月1日より同所にて業務を開始。
この庁舎が高岡市伏木気象資料館として現存するもので、当初は風向計を備えた望楼を有する建物であったが、1937年(昭和12年)にその隣に測風塔が建設されたのを機に1939年(昭和14年)に撤去された。
1939年(昭和14年)10月31日限りをもって、県営としての富山県伏木測候所は廃止され、同年11月1日からは国営に移管。中央気象台伏木観測所と改称された。
1941年(昭和16年)10月25日には再び伏木測候所に名称を改称。
伏木測候所は、戦時中は防空監視哨としても機能していた。

国登録 有形文化財(建造物)
指定年月日 平成18年3月2日
高岡市伏木気象資料館
(旧伏木測候所庁舎·測風塔)


1883年、廻船問屋出身の藤井能三が、船舶の安全確保を目的に設立した全国初の私立測候所。今も全国に日々気象データを提供している。

旧伏木測候所は、明治10年(1877年)、廻船問屋出身の藤井能三が、伏木港を大型汽船が接岸できる近代港湾とすべく私費で建設した燈明台(灯台)の一室に、明治16年(1883年)、全国初の私立測候所として設立されたものである。その後、明治42年(1909年)、現在地に移転し、県営、国営への移管を経て、現在に至るまで気象観測を続けている。
現建物は、平成17年(2005年)より、「高岡市伏木気象資料館」として公開されており、日本海側屈指の商工業都市として発展した高岡の経済を支えてきた伏木港、その近代化を象徴する建物である
 文化庁

伏木測候所庁舎
1909年(明治42年)当時のもので桟瓦葺木造平屋建て、面積は153.67平米。
登録有形文化財。
測風のための望楼は、1939年(昭和14年)に取り壊されたが、2017年(平成29年)3月18日に復元された。

測風塔
1937年(昭和12年)に建設されたもので、鉄筋コンクリート造3階建て、39.66平米の面積を有する。
旧庁舎と共に登録有形文化財に登録されている。
風速風向計及び日照計が設置されており、現在も「伏木特別地域気象観測所」の一部として観測業務を行っている。

復元された望楼

望楼は立ち入り禁止。

現在も観測を続けている、伏木特別地域気象観測所の機器群。


藤井能三

藤井能三像
(一八四六~一九一三)六六歳
 藤井能三さんは明治時代の実業家で先見性に富んだ考えを持たれ、来るべき新しい時代の息吹をいち早く捉えられ、郷土だけでなく、北陸地方の発展のために私財を投じて寄与されました。
 伏木港の波除け工事の取り組み、明治六年(一八七三年)には富山県で最初の伏木小学校の設立、明治一〇年(一八七七年)日本海側で最初の西洋式灯台の完成、明治十六年(一八八三年)には私立伏木測候所(現在の気象資料館)の観測がはじめられ、明治三十三年(一九〇〇年)には能三さんらの鉄道誘致運動が実って高岡·伏木間に中越鉄道が開通となるなど全精力を尽くされ数々の多大なる功績を残され、一九一三年(大正三年)享年六六歳、伏木の人々は町葬をもって能三さんを報いた。
 今もなお私たち住民の心に深く刻みこまれ、語り伝えられている。
  平成二十八年六月五日建立
   伏木校下自治会連絡協議会
   古府校区自治会連絡協議会
   勝興寺まちづくり協議会

初の私立測候所を設置した
藤井能三
 藤井能三(幼名 嘉他郎)は、越国射水郡伏木村(現在の高岡市伏木)廻船問屋 能登屋三右衛門の長男として生まれました。
 当時能登屋は豪商銭屋五兵衛と並び称されるほどの実力を発揮してい と伝えられる廻船問屋で、江戸後期には、北海道から下関を経て大阪に至る和船の航路北前船による廻運を業として活躍していました。
 能三は、彼自身が政治家ないしは官僚となって、地域開発という目的を達成したいとは考えてはおらず、地域開発事業を推進していくには、地方の人々を集結するとともに、中央を動かすことが必要だという考え方をもっていました。
 また、産業を振興するためには、伏木港の近代化を生涯の目標に定め、需要を広げ貿易の道を開くことが重要であると考えていた能三は、富山県が冬期間の船舶運送が途絶していたことに危惧し、定期航路の開拓や東京、大坂、北海道などと伏木を結ぶために奔走しました。

ひとこと!!
能三達が測候所を造ったきっかけ
 明治8年8月27日、能三の斡旋によって、東京三菱会社所有の西洋型商船が伏木港に姿をあらわしました。
 これは、能三が、三菱の社長岩崎弥太郎に同社汽船の伏木回航を交渉したものでした。しかし、北陸の一小港に採算が取れるだけの積荷があると考えなかった弥太郎は、以下の条件を示しました。
 1 廻船ごとにその積貨数量が船腹の半分に達しない時は、その運賃を弁償すること
 2 積貨数量が船腹の半分に達することを担保すること
 3 伏木港頭に公式の燈台を建設し、航海業者の利便を図ること
 このことが、のちに伏木測候所の設置に結び付きました。
 明治6年、能三は、富山県初の公立学校「伏木小学校」を設立し、その後、洋式燈明台や測候所を設置するなど私財を投じて港の整備を行い、伏木港を洋式船が寄港できる近代港湾に発展させました。


越中国守館址

万葉歌人・大伴家持が越中国守として赴任した際(746年〜751年)に居宅(国司の役所・官衙)があったとされる場所。

越中国守館跡推定地


伏木駅

氷見線の駅。現在の駅舎は昭和4年(1929年)の改築。

この雰囲気、良いです。

伏木駅から能町駅へ移動しました。万葉線に乗り換えのため。

なかなか、風情ある情景。


※撮影:2026年10月


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