(平成29年6月・10月撮影)
※2017/6訪問
・寒川→相模海軍工廠跡と引込線(寒川支線)
・大和→厚木空ゆかりの神社
※2017/10訪問
・綾瀬→二相空ゆかりの神社
目次
神奈川県中央部の海軍史跡散策
平成29年6月。
海老名に用事があったので思い出して近隣の戦争関連史跡(戦跡)散策を敢行してみた。 南の寒川町(相模海軍工廠跡) 東の大和市(厚木空神社関連) それぞれに海軍関連の史跡が僅かながらに残っておりました。
寒川町・相模海軍工廠跡と寒川支線
相模線寒川駅。 寒川支線と思われるスペースが線路左側に広がっている。 昭和59年(1984)に寒川支線は廃線。 開業は大正12年(1923年)。砂利貨物路線として開業し、近隣の発展とともに旅客輸送も始まり、工場地区への足とも成っていた路線。
地図を見てみると、わかりやすい。 JR相模線寒川駅より分岐し南西に伸びる路線(赤い線) これが「寒川支線」 廃線後の現在は遊歩道として整備されております 終点の「西寒川駅跡」の先の工場エリアが 戦時中は「相模海軍工廠」でした(赤枠あたり)
※余談
JR相模線寒川駅では全力で「寒川神社の最寄り駅は宮山駅です」と訴えてきます。 が、実は…寒川支線の分岐あたりから「寒川神社の表参道・一之鳥居」が始まっておりますので、「宮山駅」からアクセスするよりも「寒川駅」からアクセスするほうが本来の意味では正しいんですよねえ…
寒川支線の跡を辿りながら「相模海軍工廠跡碑」を目指して歩いてみましょう。
「大山踏切」 そういえば相模の大山(4枚目写真)が見えてましたね。 ここもきっと大山街道なのかな、と。 空間の広さが支線跡を感じさせる
寒川支線跡
相模線と寒川支線の分岐点のあたり。 この知らないと無駄でしか無い空間の広がりが線路跡を感じるスペースですね。
ゲート広場。 三方向の分岐点。 寒川駅方面から歩いてきて、「一之宮公園」が寒川支線へ伸びる遊歩道。 その反対側は前述した寒川神社の表参道。 寒川神社を示す方角は深き社叢が感じられますね。 ここは神社に行きたいところを我慢して、真逆の廃線跡を辿ってみます。
「寒川支線跡」 廃線跡の遊歩道。 いきなり脇の方に、きっとなにかの鉄道系の機械を置いていたであろう土台があったりしていきなりテンション上がってきました。 この遊歩道はきっと楽しいに違いない。 さて、線路跡の遊歩道を歩いてみましょう。
しばし歩くと「一之宮公園」に到着。 なにやら見えてきました。 車輪ですね。 なにやら廃線跡散歩が楽しくなってきました。
「一之宮公園」 一之宮公園内の廃線跡には往時のレールがひかれており、いやがうえにも気分が盛り上がってくる。 ゲート広場と一之宮公園と八角広場とを廃線跡の遊歩道が結んでおります。
「一之宮公園」 公園の両端に車輪が置いてありました。 さきほどのものとはまた別なもの。
「一之宮公園」から遊歩道を終点に向けて歩いてみます。 ここは踏切の跡・・・かな。
線路跡の遊歩道の脇に。 「工」の境界石。 これは「相模海軍工廠」時代の境界石?かもしれませんね。
「工」が刻まれたものは前述のひとつしか見受けられませんでしたが、 境界石というか標石はゴロゴロしてました。
一之宮緑道
旧国鉄相模支線跡地を利用して昭和60年度より整備を行ったものです。 延長は約900mであり、広場及び3つのタイプの園路から構成。
旧国鉄西寒川駅
相模海軍工廠跡
遊歩道の終点「八角広場」 そこに往時を偲ぶ石碑がある。 この地は 国鉄相模線寒川支線(海軍工廠引込線)でもあり、 海軍工廠が展開された場所でもあった。
石碑裏面
ここ旧西寒川駅跡に佇んで東を望み、更に南に目を転ずるとその視界に工場群が迫る。 そこは、かつて多くの仲間が営々と働いた相模海軍工廠(昭和20年敷地704,000平方メートル)の跡地である。
往時を偲べば、先人や友の姿が彷彿と甦り、懐旧の想いひとしおである。 第二次大戦後、工業立地に恵まれた跡地は町発展の礎となり、今日の繁栄をもたらした。 いま大地に大地に深く根差した緑に世界の平和を願い、国土の安隠を祈る。 建立 相廠会 及び 協力企業 昭和63年春
この地にあった旧海軍工廠は、イペリット爆弾等の化学兵器や火工兵器の本格的な量産を目的として、海軍技術研究所の化学研究部から昇格した工廠が展開されていた。
ちょうど西寒川駅跡の前を神奈中バスが走っていきました。
この八角広場にも往時のレールが残っておりました。
たぶんこれが「八角広場」の由来。 これだけ(往時を偲ぶものでもなく)唐突過ぎ。
この八角公園から先は工場エリア。海軍工廠時代名残のレンガ造の建物は近年撤去されたと風の噂に聞き格別な何かは残っておらず。 またかつてはここ「西寒川駅」より先に「四之宮駅」というのもあったが、それも特に何も残っておらず、で。 ※相模四之宮は相模川対岸の前鳥神社
帰りも同じ道を歩く。廃線跡の遊歩道を。 丹念に見ると・・・これも鉄路の名残ですね。 やはり楽しい。
再び戻ってきた「一之宮公園」にて廃線跡のレールを愛でる。 見つけました、古レールの刻印。 1925 1926 とありました。西暦でしょうか? ※ 開業は1923年(大正12年) 「S」マークも気になります。
更には「2606」の記載。 上記の「1925・1926」とは表記が違いますね。
※ 寒川支線(相模鉄道)開業は1923年(大正12年) 相模海軍工廠は1943年開業(昭和18年) 皇紀2606年は1946年 、昭和21年
30kgレール、Aはレールの種類、八幡製鉄所のマーク、皇紀2606年4月製造、OHは平炉製鋼。
古レールの刻印探しは楽しいけど、人々の憩いの広場となっている公園内でレールをマジマジと覗き込んでいる姿は滑稽でもあり・・・
「寒川支線跡と相模海軍工廠跡」 9時に寒川駅から歩きだして廃線跡の遊歩道を往復。 所要時間は約90分。歩行距離は約3.5キロでした。 さて、次は寒川駅から相模線を北上。 海老名駅を経由し相模鉄道にて大和駅を目指します。
大和市・厚木空ゆかりの神社
大和市の南西には「厚木航空基地」が展開。綾瀬市と大和市にまたがる軍用飛行場で、現在はアメリカ海軍と海上自衛隊が共同で使用している軍事基地。 戦前は「厚木海軍航空隊」が展開。海軍の首都防空の要であった「第三〇二海軍航空隊」が配備。
もちろん「厚木航空基地」そのものを探索する事は今回は出来ませんので、ゆかりの神社を2社詣でることとします。 大和駅から相模鉄道に沿って東に歩くこと15分、深見神社に到着。神社フリーク的には相模国延喜式内社13座の1座として有名ですね。
深見神社
相模国延喜式内社13座の1社。 御祭神は闇龗神・武甕槌神・建御名方神 雄略天皇22年(約1500年前)の創建という。 明治6年郷社列格するも明治9年隣地出火類焼し公称社格不詳となる。 昭和17年に再建し改めて郷社列格。
相模国延喜式内社13座の1社。 境内には寛政3年(1791年)に建立された神社碑がある。 この神社碑は相模線に面した北面鳥居の脇、境内の北東角にあった。 (最初わからなくて神職さんに場所を尋ねてしまいました) ちなみに御社殿は南面しているので参道の導線はチグハグ…
「深見神社」
ご神木なんじゃもんじゃの木(ハルニレ) 樹齢約500年。
深見神社境内摂社
靖國社 (元・厚木空神社)
境内に鎮座する靖國社はもと「厚木空神社」。 厚木海軍航空隊の守護神として厚木航空隊の戦死者を祀っていたが終戦後に廃祀(取除き)が命じられ深見神社に遷座。 深見部落の戦死者を合祀し昭和26年に鎮座祭を執り行った。
「雄飛」碑 碑面裏(引用)
第302海軍航空隊は、昭和19年4月勇将小園安名司令のもと、厚木基地に雷電・零戦・彗星・月光・銀河の精鋭機を擁し、本土防衛部隊として編成された。
同年11月B-29来襲に始まる防衛戦闘において302空は勇戦奮闘 昼夜を分かたず来襲する米空軍を迎え撃ってB-29・P-51・F6F等多数の米軍機を撃墜破する戦果を挙げ小園部隊の勇名を天下に轟かせた 又終戦時、徹底抗戦を叫び、世に言う厚木事件を起こした部隊としても知られている
終戦に至るまでの戦闘において数多くの隊員を失ったが戦没者は海軍葬をもって基地内の厚木空神社の祀られた 終戦後同神社の神殿は大和市深見神社の境内に奉遷され地元出身戦没者の英霊を合祀して靖國社となり今日に及んでいる 戦没者の霊を慰め302空の名を永く留めるためこの地に之を建てる
首都防空の要として機能していた厚木海軍航空隊(第302海軍航空隊)。 歴史的には終戦の瞬間に強烈なエピソードを残した小園安名司令のインパクトが大きい。世にいう厚木航空隊事件。 往時を偲び深謝する。
4月第一日曜日には「厚木海軍航空隊の慰霊祭」が深見神社靖國社で斎行されているとのことです。(戦友会は3年前に高齢化で解散済)
「深見神社」
御由緒書きと御朱印を頂戴致しました。 達筆でした。 ありがとうございます。
大和天満宮
「深見神社」をあとにして次に向かったのは「大和天満宮」。 御社殿が2階にあるのが見えますね。 2016年に敷地再整備で新築された神社。 実はこちらも創建由来が厚木海軍航空隊と関係があるのです。
「大和市文化創造拠点シリウス」 2Fデッキ広場に「大和天満宮」が鎮座している。
御社殿は2016年造営。 創建としては厚木海軍航空隊に遡る。 昭和19年に厚木基地内に祀られた「厚木空神社」は、犠牲者をまつる社殿と天照大神をまつる社殿の二棟があったという。
「厚木空神社」のうち犠牲者の御神霊を祀る御社殿は深見神社に遷座し前述の靖國社へ。天照大神の御神霊を祀る御社殿は現在地に住民が運び出したという。
厚木海軍航空基地にGHQ先遣隊が降り立ったのが8月28日。社殿運び出しはGHQが厚木に到着前の事だったという。
戦後、上記のような経緯もあり厚木空神社の社殿を運び出して流用。 その際に住民協議の結果、菅原道真公を祭神として勧請し大和天満宮(当初は南大和天満宮)として創建。 当時の海軍厚木空神社流用社殿は昭和27年に新築され昭和38年改築、平成28年新築となっている。
「深見神社」 「大和天満宮」
御朱印を戴きました。 厚木海軍航空隊の「厚木空神社」に関係する2社の神社を並びで。 「深見神社靖國社」は厚木空慰霊の祭祀を引き続き行い、 「大和天満宮」は新たな住民加護の祭祀を行う。
大和天満宮神職さん(座間神社からの出向とのことでした)に話をお伺いしました。 御社殿を新しくしたのを機に、ご由緒書も新しくしている最中だとかで、私が参拝した6月ではまだ出来上がっておりませんでした。 出来上がったら郵送しますよと行ってくれましたが、また来たときにでも、と。
本ツイは以上で〆
寒川で廃線跡と海軍工廠跡をみて、 大和で海軍航空隊神社の名残に接した、 そんな神奈川中央部での海軍関連史跡散策でした。 少しずつにはなりますが往時を偲ぶる地を、 こうして引き続き参っていきたいと思っております。
綾瀬市・二相空ゆかりの神社
二相空 → 第二相模野海軍航空隊
深谷神社
先日、海老名に赴いた際に時間を作って綾瀬まで赴いておりました。 綾瀬は駅がないんですよね。海老名駅から綾瀬市役所までバスで訪れ参拝。 が、深谷神社が今回のメインではなく。 今回のテーマは「深谷神社に隣接する祠」となります。
綾瀬市戦没者慰霊堂
いつのころから(綾瀬市が管理する)「慰霊堂」と呼ばれるようになったかは不詳だが、平成8年に発行された資料には「綾瀬神社」と明記されている祠が深谷神社のとなりに鎮座している。この祠、実は厚木海軍航空隊ともゆかりがあり・・・。
平成14年に覆殿新築。覆殿の中に神式宮殿有り。 この慰霊堂の元となった祠は昭和35年に現在地に遷座。戦前の「海軍航空隊神社」であった。すなわち「第二相模野海軍航空隊内神社」として建立という。 (神奈川県忠魂碑等建立調査集・参考)
第二相模野海軍航空隊
昭和17年に厚木飛行場の西側に「相模野海軍航空隊」(第一相模野)が開隊。整備兵養成航空隊。昭和18年に「第二相模野海軍航空隊」が厚木飛行場「第一相模野」南に設置。追浜空からの整備予備学生の受入を行っている。前述の祠はこの整備兵養成航空隊の崇敬神社という。
厚木飛行場主力航空部隊としては本土防空の「厚木海軍航空隊」(第302海軍航空隊)が展開されており、ゆかりの神社が東の大和市「深見神社」境内摂社「靖國社」(厚木空神社」。 そして厚木飛行場の西側である綾瀬市に航空整備兵養成の「第二相模野航空隊」(二相空)ゆかりの「綾瀬神社」。
綾瀬市戦没者慰霊堂
かつての綾瀬神社
戦前の第二相模野航空隊の崇敬神社
現在は深谷神社(綾瀬市)の隣に鎮座している。 慰霊堂として整備されており、平成14年に「覆殿」平成15年に「山門」が新造されている。 空間内には幾つかの慰霊碑もあつまっていたので見てみましょう…
慰霊堂の前に林立するひときわ大きな碑が「忠霊碑」(靖國神社宮司筑波藤麿書)昭和32年建立。綾瀬町出身の戦没者240余名を祀る。
殉国兵士招魂之碑
向かって右側に。 明治32年4月建立。 (日清戦争後の)明治28年に陸軍病院で病死した兵士を祀る。
日露戦役招魂碑(向かって左)
陸軍大将男爵乃木希典書・明治40年3月建立 綾瀬町出身の日露戦争での戦病歿者を祀る。
いまでこそ「綾瀬市戦没者慰霊堂」という無宗教方式っぽい慰霊施設であるが、かつてこの祠は「綾瀬神社」と呼称されていたという。 さらには、この地に遷座する前は厚木飛行場の傍らで海軍航空隊の崇敬社(第二相模野航空隊の崇敬神社)であったという遍歴を偲びつつ、雨の中、静かに合掌を…
追記捕捉
なお今回、綾瀬市戦没者慰霊堂の祠が旧海軍ゆかりの神社であったというのを知ったのは靖國神社が発行した「神奈川県忠魂碑等建立調査集」の記録によります。 神奈川県は護國神社がない県(竣工前に終戦・三ツ沢公園忠霊塔)のため靖國神社が調査を担当したとのことで…
〆