「山形県」カテゴリーアーカイブ

山形の近代建築散策(山形の戦跡散策・4)

2026年3月、山形に赴く機会がありましたので、散策を。
(キュンパス(旅せよ平日!JR東日本たびキュン♥早割パス)」を活用した日帰り旅、でした)

戦跡散策として、初の山形市となります。
その1は下記から。

県庁所在地としては戦災を免れた数少ない「非戦災都市」の一つ。
大規模な空襲がなかった山形市内には、比較的に近代建築物が残っている。


山形県旧県庁舎(山形県郷土館・文翔館)

第2代山形県庁舎。
1911年(明治44年)5月の山形市北大火によって初代山形県庁舎および県会議事堂は焼失。
再建新庁舎は耐火建築物として建設され、1916年(大正5年)6月、2代目の県庁舎および県会議事堂がイギリス・ルネサンス様式で竣工した。建物はレンガ造りで(床・天井・小屋組は木造)、県庁舎は地上2階、半地下1階の3階建て。議事堂は平屋建て一部2階建て。
創建時から稼働する時計塔の機械式大時計は札幌市時計台に次いで国内で2番目に古いものとなる。
1975年(昭和50年)9月、総工費97億円余りを投じ建設された地下2階、地上16階の3代目県庁舎が完成し、歴史資料館として永久保存となった。
国指定重要文化財。

重要文化財
山形県旧県庁舎

この建物は、レンガ造りの三階建で大正5年6月15日に落成し、昭和50年9月に新県庁舎が建設されるまでの間、県庁舎として使用されました。
その後、東南村山合同庁舎として昭和59年まで使用されました。
昭和59年12月28日に旧県会議事堂とともに国の重要文化財に指定されております。

中央階段

バルコニー
昭和22年、 昭和天皇行幸の際に、バルコニーから山形県民にお手を振られた記録が残っている。

稼働する機会式時計としては、日本で二番目に古い(最古は札幌市時計台)。

貴賓室(副知事室)

知事官房(知事秘書室)

初代県令(初代県知事)
三島通庸胸像

栗子山隧道
國の為 尽くす心は 陸奥の
 山の坑道 踏みてこそしれ
            通庸

栗子山隧道(栗子隧道)は、山形県米沢市と福島県福島市の県境間のトンネル。明治14年(1881)開通当時の日本最長トンネル。

三島通庸所用佩刀

知事室

山形の歴史も。

1.県都山形の発展
市制を築いた明治22年(1889)、当時の山形市の戸数は2,212戸、人口は28,400人でした。その後、大火や水害の大きな被害もありましたが、35年に5,884戸・37,348人、大正10年(1921)には8,794戸・47,257人と、戸数・人口ともに増加し、とくに工業従事者数が急増しました。
その間、日清戦争後の軍備拡張の気運が高まる中で明治30年に歩兵第三十二連隊が設置され、34年には奥羽線が山形まで開通しました。また、大火後の復旧事業も進み、大正5年には、新県庁と県会議事堂の完成を記念して、奥羽六県連合共進会が開催されました。

歩兵第三十三聯隊の設置
日清戦争後の三国干渉の結果、軍備拡張の気運が高まり、旧山形城本丸・二の丸跡に歩兵第三十二聯隊が設置されました(明治30年)。
歩兵第三十二聯隊は、初めて従軍した日露戦争で大活躍しました。

中庭側から。


山形県旧県会議事堂(山形県郷土館・文翔館)

旧県庁に隣接する、旧県会議事堂。
第2代山形県会議事堂。

こちらは、改装工事中のため、見学は不可でした。

旧県庁と旧県会議事堂を結ぶ通路。

https://www.pref.yamagata.jp/110001/sangyo/sangyoushinkou/him_top/him_maincat1/him_24.html

https://online.bunka.go.jp/heritages/detail/145381

場所

https://maps.app.goo.gl/ojUcJE5fpBXGNJnp7


旧山形師範学校本館(山形博物館・教育資料館)

旧山形師範学校本館は、山形県師範学校時代の1901年に建設された本館。
ルネサンス様式の木造洋風建築。

1973年に国の重要文化財に指定され、1980年から山形県立博物館分館教育資料館となっている。
旧山形師範学校講堂は、本館に隣接しており山形県指定有形文化財二指定されている。

師範学校道場の大鏡
 師範□□山川□□具店。鏡面の下には文字が削り取られた跡があります。もとは、師範道場、山川武道具店の文字がありました。終戦直後、GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)の指令により、教育現場では軍国主義の一掃が図られました。戦時下に中学校や師範学校などで行われていた軍事教練はもとより、柔道や剣道などの武道も軍国主義につながるものとして一切が禁止され、関係する道具類もすべて廃棄処分されました。
 この大鏡は、昭和13年(1938)に山形師範学校の道場落成記念として寄贈されたものです。武具に類するものではなかったために、処分を免れたものですが、「道場」と「武道」の語が注意深く削除されています。当時の軍国主義排除の徹底ぶりを物語る貴重な資料といえます。


旧山形師範学校・門衛所(国指定重要文化財)

門衛所(国指定重要文化財)
明治34年に山形県師範学校が旅籠町から現在地に移転新築された時からある建物です。本館に続き、昭和55年に国重要文化財に追加指定されました。昭和15年奉安殿建設のため正門内南側に移されましたが、昭和57年の改修工事の際に元の位置に移築されました。木造平屋建ての擬洋風建築で、屋根は亜鉛引鉄板一文字葺、外装には下図のような意匠が凝らされています。


旧山形師範学校・講堂(山形県指定有形文化財)


教学百年

昭和五十五年の建立。

「創立二十五年祝典記念」
1901年9月に、現在地の馬見ヶ崎河畔の新校舎(馬畔校舎)に移転。
師範学校は1878年9月に開校して、1903年に25周年を迎えた。

https://www.pref.yamagata.jp/110001/sangyo/sangyoushinkou/him_top/him_maincat1/him_25.html

https://www.yamagata-museum.jp/education-museum

https://online.bunka.go.jp/heritages/detail/192840

場所

https://maps.app.goo.gl/rAaBhFy5iGvVQqYF9

このあと、「山形大学附属博物館」に赴いたけど、臨時閉館。残念。ここには、陸軍丁式二型爆撃機用プロペラがあるというが。再訪?


※撮影:2026年3月

沖縄で奮闘継戦した霞城聯隊「歩兵第三十二聯隊」と「山形城址」(山形の戦跡散策・3)

2026年3月、山形に赴く機会がありましたので、散策を。
(キュンパス(旅せよ平日!JR東日本たびキュン♥早割パス)」を活用した日帰り旅、でした)

戦跡散策として、初の山形市となります。
その1は下記から。


歩兵第三十二聯隊

明治29年(1896)に秋田市に聯隊本部を設置。
明治31年(1898)に軍旗拝受。
明治37年(1904)日露戦争に参戦。戦後に、秋田市から山形城に転営。
本拠地にちなみ「霞城聯隊」とも称された。
大正7年(1918)シベリア出兵、大正11年に帰還。
昭和14年(1939)10月、第8師団から満洲で新設された第24師団に所属変更。
昭和19年(1944)満洲から南方戦線に兵力転用となり、歩兵第32聯隊は1個大隊はサイパンに派遣となり、連隊主力は沖縄に派遣となった。

歩兵第32聯隊の沖縄戦
沖縄戦初期の前田高地の激戦(米軍戦車群を擲弾筒射撃および肉薄攻撃によって阻止)、棚原の戦い(第32軍の総攻撃で米軍陣地を突破し、棚原一五四.九高地を奪取)から末期の国吉高地まで、終始激戦の最前線で戦ってきたのが第24師団の「歩兵第32聯隊」であった。

歩兵第32聯隊は、上級司令部にあたる第32軍(牛島満中将は6月23日に自決)、第24師団(雨宮巽中将は6月30日に自決)の組織的な戦闘行為が壊滅したのちも、第32聯隊長・北郷格郎陸軍大佐、第1大隊長の伊東孝一大尉のもとで組織的な戦闘を継続。

歩兵第32聯隊は、残存将兵をもって、米軍に多大な損害を与え続け、既に沖縄戦勝利を発表していた米軍を悩ませ続け、そして8月15日の終戦まで、国吉台の洞窟陣地を堅持し、最期まで健闘した。
8月29日の武装解除の段階で、歩兵第32聯隊の残存将兵は約300名であった。


山形歩兵第三十二聯隊之跡

山形城(霞城)に駐屯した歩兵第三十二聯隊

山形歩兵第三十二聯隊之跡
昭和四十三年七月 山形三十二聯隊会建之

歩兵第32聯隊足跡の大要
 聯隊は、明治31年3月24日、宮中にて軍旗を拝受。最上義光公の居城であったこの地に誕生し、國防の一翼を担い、霞城聯隊とも称した。
 日露戦争では、明治38年、緒戦の黒溝台会戦に抜群の勲を樹て、勇名を馳せた。
 満州事変では、昭和7年、熱河作戦に参加し万里の長城の古北口、南天門等の戦闘で活躍。12~19年の間、満州東部國境の防衛に任じた。
 大東亜戦争の戦況急迫に伴い、19年、聯隊は一個大隊をメレオン島に急派、主力は転進して沖縄防衛第32軍の指揮下に入った。
 昭和20年3月末から沖縄本島は、圧倒的優勢な米陸海空軍の猛攻を受け、各部隊は勇戦敢闘したが、逐次壊滅、6月23日、軍司令官の自刃により組織的抵抗を終えた。
 しかし、我が聯隊だけは、軍旗を奉じ、残存二百五十名が、沖縄南部の國吉台とウテル原台一帯を死守した。8月末終戦の大命を知り、26日夜軍旗を奉焼し翌日聯隊は終焉を迎えた。
 ここに恒久平和を願い、聯隊創設以来の戦没者の遺徳を偲び哀悼の誠を捧げる。
  平成十九年四月
   山形歩兵第三十二聯隊会・関係者一同

建碑由来
 霞ヶ城は最上義光の居城にして歩兵第三十二聯隊は明治三十一年三月軍旗親授とともにここに創設され爾来鋭意国防訓練に励み霞城聯隊と称す。
 明治三十七八年日露戦役には黒溝台の戦闘に勇名をはせ、大正七年朝鮮守備、同十一年サガレン派遣、こえて昭和七年満洲事変には万里の長城古北口等の戦闘に参加して数々の功績を樹てり、同十二年再度渡満しソ満国境警備の任につき田原山ノモンハン事件に出動し同十六年遂に大東亜戦争を迎う同十九年主力は沖縄本島に転進し歩兵一ヶ大隊をメレオン島に派遣す。翌二十年三月十数倍の敵機動部隊の攻撃を受け勇戦敢闘し多大の損害を与えたるも聯隊もまた死傷続出し将兵の大半を失ない寡兵克く敵の重囲下死闘を続けること五ヶ月余、遂に終戦の大命を拝し同年八月二十八日夜軍旗を奉焼して終る。
 ここに異国の丘に眠る幾多戦友の武勲をしのび恒久平和の願いをこめて霞城聯隊跡にこの碑を建て永久に伝う
 昭和四十三年七月 山形三十二聯隊会

歴代の聯隊長
初代 岩元 貞英
二代 安村 範雄
三代 森川 武
四代 高山 公通
五代 山本 延身
六代 森川 武
七代 岡沢 慶三郎
八代 柴 豊彦
九代 大川 盛行
十代 山田 留太郎
十一代 宮地 太郎
十二代 倉茂 三蔵
十三代 堀之内 直
十四代 佐藤 正三郎
十五代 田中 清一
十六代 阿部 規秀
十七代 山本 源右衛門
十八代 野地 嘉平
十九代 川村 脩
二十代 泉 可畏翁
二十一代 北郷 格郎

歴代の知事
初代 三島 通庸
(以下略)

場所:

https://maps.app.goo.gl/6DTgyKVx3nRafVyb6


山形城(霞城・霞ヶ城)

国史跡、日本100名城。
最上義光が整備し、出羽57万石の本城となる。
三の丸の内側の面積は、日本国内で5番目の広さを誇り、奥羽地方では最大の城であった。
最上57万石時代から藩主交代と石高削減に伴い、幕末の水野氏5万石時代には、広大な城を維持するのが難しい状態であったという。

明治に、山形市が城跡を取得し、陸軍を誘致。歩兵第三十二聯隊の兵営となった。

最上義光像

山形城主最上義光顕彰詞


霞城聯隊(山形市郷土館・済生館)

山形市郷土館にある「霞城聯隊(かじょうれんたい)」に関係する展示と解説など。

血染めの桜

霞城連隊の発足
 明治時代以降、急速な近代化政策に伴う軍備増強のため、旧山形城内に陸軍が駐屯するなど、山形も国の政策とそれに伴う戦争に巻き込まれていきました。
 1894(明治27)年に始まった日清戦争は日本の勝利に終わり、戦後調停された下関条約により、日本は新たな領土と多額の賠償金獲得しました。しかし、三国干渉により遼東半島の返還を余儀なくされ、また本土から離れた台湾統治の必要があり、国内における軍備増強が急務となりました。
 そのような背景から、山形県にも連隊が設置されることが決定しました。それを受けて、山形市は旧山形城本丸·二ノ丸の跡地を買収して国に寄付することを決議しました。連隊の誘致が成功し、1897(明治 30)年から駐屯したのが、第八師団管下の歩兵第三十二連隊(通称、霞城連隊)です。
 連隊入隊のため、山形県内の青年が二千人近くも山形市に集まり、市経済は大いに潤いました。連隊は、日露戦争で活躍を見せ、その後も朝鮮、樺太、満州に派遣されたほか、ソ満国境にも駐屯しました。太平洋戦争末期には、満州から沖縄への移動を命ぜられ、力戦の末、終戦を迎えました。

日露戦争・血染の桜
 1904(明治37)年に日露戦争が勃発すると、しばらくして歩兵第三十二連隊にも出征の要請がかかりました。連隊が属する第八師団は、初め遼陽の警備にあたっていましたが、翌年1月、ロシア軍の攻撃を受け壊滅の危機に瀕していた黒溝台に進軍し、多大な犠牲を出しながらも同地を死守し、日本の勝利に貢献しました。日露戦争の勝敗を分ける要因となったといわれる黒溝台会戦です。
 日露戦争終結後も遼東地方で警備を続けた連隊は、1906(明治39)年に帰還しました。生存者の中では、凱旋したら兵営に記念の桜を植えようという話が持ち上がっており、それが実現して植えられたのが、現在の霞城公園の桜といわれます。
 日露戦争以前から、連隊のシンボルとなっていた桜の木がありました。「血染の桜」です。この名前は、最上義光が病気を装い、敵対していた谷地(現在の山形県河北町)城主、白鳥十郎長久を山形城に呼び寄せて斬った際に、桜が返り血で染まったという伝承に由来します。戦後、霞城公園内の野球場建設のために移植されて枯れるまで、山形城及び霞城公園のシンボルでした。

第二次世界大戦と山形の生活
 1920年代の日本は、第一次世界大戦後の戦後恐慌や昭和恐慌という慢性不況に陥っていましたが、それを打破すべく中国大陸に新領土を求めました。
 1931(昭和6)年、満州事変で日中両軍は衝突し、1937(昭和 12)年に日中は本格的な戦争状態に突入しました。満州事変以降、経済統制が進み、日本は軍需·戦時経済へ移行しました。
 市内でも軍需産業への転換が起きました。1938年、金属工業の軍需品以外への原材料使用が禁止されると、銅町の銅鉄器鋳物工業は鉄瓶製造を禁止されました。それにより失業した者の一部は、軍需品製造の下請けとして職を得ました。また戦闘機の生産を手掛ける日本飛行機株式会社の山形工場が1942(昭和17)年に設置され、統制経済による地元の廃業失業者を吸収しました。さらに民間の銅鉄器供出も始まり、公共施設の門扉·鉄柵のほか、豊烈神社境内の水野三郎右衛門元宣銅像も供出されてしまいました。
 1944年以降、空襲激化により学童集団疎開が進み、山形市は6月30日に東京都豊島区から小学生600名以上の集団疎開を受け入れました。

戦禍を免れた山形市
 1945(昭和20年)3月10日の東京大空襲の後、山形市には多くの疎開者が流入し、深刻な食糧不足に陥りました。そのような中で6月29日、山形市上空に初めてB29機が飛来しました。その後7月10日、ついに隣県宮城県仙台市で米軍による大規模な空襲が行われ、山形においても空襲を免れえないという危機感が強まりました。山形市では急ぎ防空壕を作り、分散備蓄や建物疎開を進めました。旧済生館本館は、当時県内で最も高い建物であり、空襲の標的とされる恐れがあったため、最上階部分を撤去し、低くする工事が行われました。
 戦時中、現在の市内漆山駅付近(当時は出羽村、楯山村)に設置されていた日本飛行機の飛行場では、市内工場で生産した戦闘機の飛行実験をしていました。それにより、8月9日、米軍による空襲を受けました。
 済生館病院の医師看護師たちは、8月15日の終戦を中庭で聞いたそうです。山形市は、無差別爆撃を受けずに終戦を迎えた数少ない県庁所在地です。城下町特融の丁字路やかぎ形路、食い違い道路などが残っているほか、歴史的建造物など文化財も多く残っています。

昭和8年作
七生報国


陸軍用地境界標杭(山形城周辺)

山形城址の北にいくつか境界標杭が残っている。

「四六」とありますね。

場所:

https://maps.app.goo.gl/NbbEfu2WSHM31VpG9

こっちは「四五」

埋もれてますね。

これは?


山形市郷土館・済生館

旧済生館病院本館
1873年(明治6年)に私立病院として設立され、1878年9月に当時の県庁そばに本館が竣工した。
全国的に見ても唯一の明治初年の病院遺構として貴重であり、明治初期の下見板張擬洋風建築の最高傑作として、国の重要文化財に指定。
戦後、病院としては役目を終えて、1969年に霞城公園内に移築され山形市郷土館として利用されている。

明治11年(1878年)太政大臣三条実美により「済生館」と命名された。

3層楼なのに実は4層。
1階部は、ドーナツ型。
2階部は16角形の直径10メートルほどの柱のないホール。
トラス構造で、中3、4階を支え、8角形へと楼の形を変え、そして螺旋階段で上階へとつながっている。

1階から

1階から2階への階段

ステンドグラス

3階へは螺旋階段

中庭で終戦の玉音放送を聞いたという。

明治洋風建築系統図
これは興味深い

ローレツ先生
明治に来日したオーストリアの医師。山形県公立病院済生館医学寮に教頭に就任した。

木村逸堂は、明治時代初期に山形公立病院(のちの済生館)で働いていた医師。

場所

https://maps.app.goo.gl/3Yzwzj6xsJpu7mbJ8


霞城セントラル展望台

おー、霞城がよく見える!

済生館

蔵王山もよく見える!

山形駅。四方を山に囲まれているのがよく分かる。

1階には、日本酒の利き酒エリアも!

500円で3コイン、1000円で6コイン

6杯いただきました!

山形駅のうしろに見えるのが、霞城セントラル

https://maps.app.goo.gl/p6AVPnN6dbV3o7a28


※撮影:2026年3月


その4へ(準備中)

日本飛行機山形製作所ゆかりの「日飛神社」(山形の戦跡散策・2)

2026年3月、山形に赴く機会がありましたので、散策を。
(キュンパス(旅せよ平日!JR東日本たびキュン♥早割パス)」を活用した日帰り旅、でした)

戦跡散策として、初の山形市となります。
その1は下記から。

日本飛行機山形製作所ゆかりの「日飛神社」(現在は鳥海月山両所宮の境内社の日枝神社)


日本飛行機

日本飛行機(ニッピ)
創業は昭和9年(1934)10月11日。
日飛の初代社長は加藤亮一(海軍中将)。
二代目社長が昭和11年11月から堀悌吉(海軍中将)。堀悌吉は山本五十六連合艦隊司令長官とは海軍兵学校の同期で無二の親友。
三代目社長は、昭和16年11月から大野寛(海軍中将)、大野氏で終戦となった。

1934年から量産された九三式中間練習機(赤トンボ)の生産を担当。2733機を生産した。
九四式水上偵察機、特殊輸送機(兵員輸送用大型グライダー)、秋水局地戦闘機、彩雲艦上偵察機等を生産。また、九六式陸上攻撃機、零式小型水上偵察機の尾翼や燃料タンク、九九式艦上爆撃機、桜花の主翼など部分品も生産した。
戦後は川崎重工の100%子会社。


日本飛行機山形製作所

1942年7月、従業員3,000人規模で、山形県に「日本飛行機 山形製作所」を開設。
練習飛行場も併設された。

市長のやまがた自慢「日飛神社」
皆さんは、「日飛神社」をご存じでしょうか。多くの方が初耳ではないかと思います。宮町の鳥海月山両所宮の敷地内にある弁天池の傍らに社が2つ並んでおり、その右側が通称「日飛神社(正式には「日枝神社」)」です。
日飛は「ニッピ」と読み、日本飛行機という会社名を略した言い方です。実はかつて山形駅の南側、現在の山形西高等学校周辺に巨大な飛行機の製造工場がありました。戦後、その敷地内にあった社が移され、現在、日飛神社と呼ばれているというわけです。
雇用の確保は戦時期から重要課題だったようで、大沼保吉山形市長をはじめとした企業誘致運動が行われ、日本飛行機の誘致に成功しました。昭和17年3月から海軍の演習機の製造を始め、従業員数が3,000人だったといいますからすごい規模です。
さらに興味深いのが、終戦近くになって当時最新鋭だったロケット戦闘機「秋水」の試作機が、山形で製造されたというのです。ドイツから運び込んだ設計資料を基に、極秘で製造されましたが、実戦に投入される前に終戦を迎えました。大変ミステリアスな話ですね。
戦後、この工場はなくなりましたが、そこで働いていた方の多くが会社を創業し、戦後山形の経済の基盤のひとつとなりました。また、今でも神奈川県横浜市に本社のある日本飛行機株式会社の社員の方が日飛神社にお参りするために山形にお越しになるそうです。
航空機産業も平和産業となり、また、将来の成長産業でもあります。現在、山形市にも航空機関連の部品を製造している企業があり、さらに伸ばしていければと考えています。
両所宮では節分祭、例大祭、たたら・ふいご祭りなど、さまざまな行事も行われます。お越しの際にはぜひ日飛神社にもお立ち寄りいただき、隠れたエピソードに思いをはせてみてはいかがでしょうか。
(広報やまがた平成28年6月1日号掲載)
https://www.city.yamagata-yamagata.lg.jp/shiseijoho/shicho/1006787/1006792/1005475.html

山形製作所は、山形駅の南、鉄砲町に山形西高等学校周辺にあった。

 JR北山形駅から北東に約700m進むと、鳥海月山両所宮の境内に1mほどの小さなほこらがたたずむ場所があります。「日枝神社」の名で親しまれる社は、かつて「日飛(ニッピ)神社」と呼ばれていました。
 「ニッピ」とは、戦闘機メーカーだった「日本飛行機」のことで、戦前、この場所から約4㎞南にあった日飛山形製作所の敷地内にまつられていた神社です。戦後の工場閉鎖に伴い、山形市宮町3丁目の鳥海月山両所宮の境内に移されました。
 戦争の進展とともに市内の工場は厳しい統制でほとんどが破滅に近い打撃を受け、多数の失業者を出すようになりました。市では、軍備工場の誘致運動も積極的に進め、昭和17年3月には、横浜に本社のある日本飛行機が鉄砲町に山形工場を完成し、海軍演習機の製造を開始しました。また、漆山にある山形刑務所の辺りには日飛(漆山)飛行場も整備されていました。日飛工場は、最盛期には従業員3,000人が働くという、山形市としては空前の規模の工場で、ほとんど地元の人が採用されていました。
 太平洋戦争末期、幻のロケット戦闘機「秋水」はこの日飛工場で作られていました。
https://www.city.yamagata-yamagata.lg.jp/_res/projects/default_project/_page_/001/004/495/marugoto-2-10.pdf

山形市の北にあった日飛の漆山飛行場。
漆山飛行場は、1945年8月9日早朝に、連合軍の空爆にて格納庫や滑走路が破壊され使用不能となり、戦後は、山形刑務所となった。

上記サイト「山形市>『ベニちゃんのまるごとやまがた』について(https://www.city.yamagata-yamagata.lg.jp/kosodatekyoiku/shakaikyoiku/1006733/1004495.html)」から、引用

なお、現在の山形飛行場とは、別。

渋沢社史データベース>
昭和16年(1941)5月
富岡製作所(旧称富岡工場)が、京浜地区に所在することに起因する地域的制限、人的資源確保の困難性、下請工場の不確実等の理由から工場の地方分散を企画し、山形県に山形製作所を開設し、当日その開所式を行なった。山形製作所は、12万坪の飛行場をもつ敷地6万坪の工場で、現在航空局の山形飛行場になっている。
https://shashi.shibusawa.or.jp/details_nenpyo.php?sid=6910&page=2

現在の山形飛行場(山形空港)は、大日本帝国海軍が昭和19年に造成した練習飛行場。
谷田部航空隊の飛行隊を神町に移し、神町航空隊を開隊している。(神町飛行場)
そのため、日飛の飛行場とは、また別の話となり、渋沢社史データベースでの記載は誤記と思われる。


位置関係

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-M201-73
1947年04月12日、米軍撮影の航空写真

日飛の漆山飛行場界隈を拡大加工

ファイル:USA-M201-23
1947年04月12日、米軍撮影の航空写真

拡大加工

日飛山形製作所

前述の配置図(北を上に回転)も参照まで。


日飛神社(鳥海月山両所宮境内社・日枝神社)

日本飛行機山形製作所内で祀られていた神社「日飛神社」が、鳥海月山両所宮に日枝神社として遷座されている。
現地には、特に「日本飛行機」を物語る掲示などはされていない。

のんびりとした時間、のどかな昼下がり。


鳥海月山両所宮

鳥海・月山の両神を祀る。旧社格は県社。

随神門(山形県指定文化財)

場所

https://maps.app.goo.gl/xQHJc8QzS7xmKZsS7


平和の碑(山形市宮町北部班の慰霊顕彰碑)

鳥海月山両所宮のある宮町北部班から出征した戦没者41名の慰霊顕彰及び従軍者の顕彰をする碑。昭和39年5月11日建之。
銘文は、真壁仁(山形市宮町出身の詩人)

 われらいくさに従い大陸に海に離島に
 身をすててたたかったもの
 今ここに石ふみをおこし永遠の平和を誓う
 民族の歴史にふかい傷跡を刻んだあの体験を
 ふたたびくりかえさないために
 無限に貴い人間の生命と生活のよろこびまもるために
 不戦のねがいをあらたにする
 いのち若くしてあたら戦場の花と散ったつわものたち
 深夜の星を仰いで家郷を偲び肉親を思ったそのまなざしよ
 けれども死者の聲はよみがえらず痛ましき沈黙に
 残されたものの悲しみだけがいつまでもこだまする
 いま仰ぐふるさとの空は澄み山は青い
 不運の魂をいだく故山の平安よ永遠なれ
  真壁 仁


※撮影:2026年3月


その3へ

「山形縣護國神社」と「薬師公園」「千歳山霊苑」巡拝(山形の戦跡散策・1)

2026年3月、山形に赴く機会がありましたので、散策を。
(キュンパス(旅せよ平日!JR東日本たびキュン♥早割パス)」を活用した日帰り旅、でした)

戦跡散策として、初の山形市となります。


山形縣護國神社(山形県護国神社)

山形県関係の戦没者40,845柱を祀る。
明治2年(1869年)1月、戊辰戦争で戦死した薩摩藩士10柱を祀るために山形市八日町に社殿を造影したことに始まる。
明治8年、官祭「山形招魂社」となり、以後は、山形県関係者の戦没者を祀る。
明治22年、山形市宮町に遷座。明治44年の山形市の大火で社殿焼失、大正3年に再建。
昭和9年(1934)に千歳公園内の現在地に遷座。昭和14年に、内務省指定護國神社となり、「山形縣護國神社」と称した。
GHQ占領下の昭和22年から昭和27年は、「千歳宮」と称していた。
現在の社殿は、平成6年(1994)に改築。
山形県内では、初詣参拝客1位を誇る(約13万人)

https://yamagataken-gokokujinja.jp

青銅日本一の狛犬。
平成29年8月15日の終戦記念日に奉納。
高さは7尺(2m10㎝)。

大鳥居から一直線に社殿まで伸びる参道

社号標

山形縣護國神社
陸軍大臣 小磯国昭 謹書
昭和十四年九月十八日

小磯国昭は山形県出身。東条英機の次の総理大臣でもある。

さくら陶板

さくら陶板
 靖國神社は令和元年に御創立150年を迎えられ、その記念事業として「さくら陶板」が作製されました。この陶板は47都道府県の土を使い、各地の著名な陶工の方々が奉納したものです。山形県の陶板は山形の土を使い、長井市出身の陶芸家和久井修氏が作成されました。「さくら陶板」には慰霊の心とそれを次世代に伝えることが祈念されております。
 和久井氏は当神社にも同じ陶板を奉納したいと希望され、山形建設株式会社の協力により、靖國神社に建立されている陶板と同じく山形県の土を使った「さくら陶板」が奉納されることとなりました。
 靖國神社と当神社がこの陶板を通してつながることで、御祭神もお喜びのことでしょう。この陶板を通じて御祭神の慰霊と平和への祈りが届くものと思っております。

社号標

山形縣招魂社
海軍大将 正二位勲一等功二級子爵 齋藤實 謹書
昭和九年十月三十日

昭和九年十月に、山形県招魂社は現在地に遷座している。

御社殿

みたまやすらかに

蔵王山は南東に。(社殿は南面)

山形県護国神社
御朱印

「祈りの塔」
巫女さんの像

祖国の安泰を念じて尊い生命を捧げたご英霊のお陰で今日の平和と繁栄があることを忘れてはなりません。
 山形県護國神社 宮司 宮舘厚悦

御本殿

山形県神社庁

https://maps.app.goo.gl/xLQccCk4q8zAWuU97

「建国記念塔」が境内にあるはずなのだが、あるべき場所に見当たらず。
うーん?

https://maps.app.goo.gl/ReGrgquy1jnpQ8uv9


山形招魂社 社号標(薬師公園)

山形招魂社時代の社号標。
大正2年六月建立。
「官祭」の文字は塗りつぶされている。

https://maps.app.goo.gl/guP1wCb8TNHcdNz96


雪部隊・戦没者慰霊碑(薬師公園)

山形県護国神社には、慰霊碑はなく、隣の薬師公園(出羽国分寺薬師堂・千歳公園)にいくつかの慰霊碑があるので、足を運んでみる。

雪部隊
戦没者慰霊碑
 雪部隊慰霊会長 
 山形県知事 板垣清一郎 謹書

碑文
 雪部隊は日華事変中の昭和14年(1939)弘前、秋田、山形の各歩兵聨隊を基幹とし、騎兵、砲兵、工兵、輜重各連隊を含む第36師団隷下各部隊の秘匿名で、雪国青森、岩手、秋田、山形県の東北健児をもって編成された郷土部隊である。
 雪部隊は昭和14年3月編成完結、4月北支派遣軍として中国大陸に渡り、華北、山西省に進撃、爾来約5ヶ年、華北の山岳地帯各地を転戦し、舞部隊(初代師団長舞伝男中将)井関部隊(2代師団長井関仭中将)としてその勇名を天下に轟かした。 当事山西省には閻錫山の率いる山西軍、朱徳の率いる共産八路軍、そして蒋介石政府軍と、中国の精鋭部隊が峨々たる峻嶮に拠って頑強に抵抗したのであるが、雪部隊は中原会戦、沁河作戦、大行作戦等二十数回にわたる作戦を敢行し、勇敢にして粘り強い東北健児の特色を遺憾なく発揮して激戦に次ぐ激戦を重ね遂に山西省を平定し北支派遣軍随一の武勲を樹てたのであるが、わが部隊も忠勇無比の将兵1,500名を失った。
 日華事変も遂に太平洋戦争に発展し、連合国軍の反攻作戦漸く激しくなる頃、昭和18年(1943年)10月雪部隊に突如として濠北派遣の命が下った。 部隊(3代師団長田上八郎師団長)は急ぎ華北山西省を後にして上海、南京附近に集結、11月末に上海出帆、一路南下して赤道を越え12月末ニューギニア島サルミ附近に上陸した。 この島は密林(ジャングル)と湿地帯とそしてマラリヤの猛威をふるう全くの未開地であった。 時既に戦局は我に不利、上陸後戦備を整える暇もなく昭和19年4月頃より敵はサルミ地区に対し圧倒的な空軍と海軍により攻撃を開始して来た。 わが雪部隊はマッカーサーの指揮する南東太平洋方面連合軍をこの地に迎撃して血みどろの激戦となったのである。 日本陸軍でも最強とうたわれたわが雪部隊は、悪条件にもかかわらず、よく善戦奮闘し、遂に敵上陸部隊を撃退したが、物量に物をいわせる連合軍の連日の猛爆撃と艦砲射撃、制空権と制海権を完全に奪われたわが軍は、密林と湿地帯に阻まれて作戦行動ままならず加えて赤道直下の炎熱と食糧不足、マラリヤ、栄養失調、脚気等により悪戦苦闘その極に達し、戦場は正にこの世の生地獄の様相を呈し、生残る戦友数うるに足らず、ワクデ島守備の石塚隊玉砕、そしてまたビアク島の雪3523部隊(葛目聨隊)も玉砕、雪部隊はその主力を失なってしまった。 ニューギニアに上陸した雪部隊隷下の将兵14,000名戦没者11,794名、生存して帰還したる者僅かに2,000余名に過ぎず。
 戦後昭和31年(遺族代表神保氏参加)と昭和46年(戦友代表鈴木健三郎氏・中沢農夫氏参加)にニューギニア遺骨収集団が派遣され多数の遺骨を故国に持ち帰ることができたが未だ南海の果、ジャングルの中には無数の戦友の遺骨が眠っている。
 九死に一生を得て僅かに帰還したる者われら断腸の思い、誠にしのびざるものある。 山形在住の雪部隊生存者による雪部隊慰霊祭実行委員会が中心となり、寄付を募り再度遺骨収集を計画したが現地政府の許可なく断念するのやむなきに至る。 よってこの地に雪部隊戦没者慰霊碑を建立し、純粋なる祖国愛に殉じた戦友の英霊を慰め心から冥福を祈るものである。
    昭和53年9月2日 謹日

 異国の地で散華された13,249名の、戦没者名簿、雪部隊史並びに聨隊史をカプセルにし、生存者の赤誠の鎮物として、慰霊碑の奥深きに納め埋蔵し、永久に慰めるものである。
  安らかにお眠り下さい。

https://maps.app.goo.gl/n3huzkkXFJSrcmSi8


戊辰薩藩戦死者墓(薬師公園)

山形県護国神社の前身である招魂社は、戊辰戦争での薩摩藩の戦死者を祀ることから始まっていた。

戊辰
薩藩戦死者墓
大勲位公爵 松方正義 書

大正4年11月合葬

戦死者名


出羽国分寺薬師堂(薬師堂)

聖武天皇の国分寺建立の詔により、天平13年(741)の建立に基づく。創建時は酒田の城輪柵の近隣に位置していたが、平安後期以降、国府が内陸の山形市に移転するとともに国分寺も移転。薬師堂が出羽国分寺の後継寺院とされている。

薬師堂
明治初期に山形県会の仮議事堂となり、山形県指定史跡「旧山形県会仮議事堂」でもある。
現在は、柏山寺が管理。

宮城浩蔵顕彰碑
明治大学の創設者

扁額は、西園寺公望
選文は、中江兆民

https://www.isc.meiji.ac.jp/~katotoru/miyagikozo.html

https://maps.app.goo.gl/Ct2RcBZtRJiMf5eR8


陣没軍馬慰霊塔(薬師公園)

軍馬を祀る慰霊塔。創建団体や創建時期は不詳という。
建立にいたる銘記や碑誌もなく。

陣没軍馬慰霊塔
陸軍大将 小磯国昭 書

「陣没軍馬慰霊塔」の創建時期は不明というが、ある程度の推測で絞り込みは出来そうだ。

謹書している小磯国昭は、山形県新庄市の出身。山形出身の代表的な軍人として謹書したのであろう。肩書として「陸軍大将」と記載している。小磯は戦後はGHQに拘束され昭和25年に巣鴨拘置所で亡くなっているために、確実に戦前の建立であることは予想できる。
小磯国昭は、昭和12年7月21日に陸軍大将、昭和13年7月29日に予備役に編入となっている。
そして昭和14年に平沼騏一郎内閣の拓務大臣、昭和15年に米内光政内閣の拓務大臣をつとめ、昭和16年の開戦時は満洲移住協会理事長であった。
昭和17年5月29日から朝鮮総督、そして昭和19年に東條英機の次の総理大臣に就任している。
時局や情勢を考えると、昭和12年から昭和16年にかけての建立でないかと推測。朝鮮総督に就任した昭和17年以降は、軍馬のために慰霊塔を建立する時勢ではなく。

東日本大震災後は倒壊の恐れがあり、近づけなくなっている。

今にも飛び出してきそうな躍動感ある軍馬のレリーフ。
取り囲む銘板の刻は判別不能。なにかが刻まれていたかもしれないが。

https://maps.app.goo.gl/hxRsGz43fiTetZmq8


山形陸軍墓地(千歳山霊苑)

山形陸軍墓地の地。
閉門の為、敷地外から遥拝する。
みたまやすらかに

千歲山霊苑

千歲山霊苑沿革
一、明治二十九年十一月この地に始めて陸軍墓地が設置されました。
一、明治三十九年十一月
   日露戦役戦没者墓碑建立
一、昭和八年一月
   満洲事変戦没者慰霊塔建立
一、昭和二十七年八月
  靖霊塔建立
一、昭和二十八年以後山形県が奉祭維持管理にあたっている。
  昭和三十四年三月 山形県

千歲山霊苑の沿革
本霊苑は明治二十九年に設置された旧陸軍墓地であって、終戦に伴い昭和二十年十月陸軍省から大蔵省へ移管さらに昭和二十八年県において無償譲与を受けたものであり、昭和三十四年に名称を「千歳山霊苑」と改め今日に至っている。
霊苑内には、日露戦争戦没者の各墓碑、満洲事変戦没者慰霊塔並に昭和二十七年に県民有志からの寄附と国費、県費を併せて建立した太平洋戦争の英霊分骨約六千柱の納骨施設たる靖霊塔があリ、その後弘前佛舎利塔に納骨されていた日露戦争当時の県出身英霊約二百柱の分骨並びに南方戦域から収集された遺骨を併せ納めている。
毎年四月には県内の戦没者遺族代表参列のもと慰霊条を挙行するほか、彼岸等には供養拝礼式を行うなど県が奉系維持管理にあたっている。
 昭和六十三年三月再建 山形県

うーん。開門は「月」「水」「金」のみ。
(訪れたのは木曜日でした、惜しい)

陸軍軍人合葬之墓

陸軍軍人合葬之墓

拓魂碑

靖霊塔

満州事変戦没者慰霊塔は、敷地外からは見えず
盛岡の久昌寺と同じ形状の慰霊塔があるという。

https://senseki-kikou.net/?p=36368&

場所

https://maps.app.goo.gl/Y8jxTm3Ki9ymmNJy5


※撮影:2026年3月


その2へ

https://senseki-kikou.net/?p=57525

旧長井駅舎(解体済)と長井の近代建築散策(山形県長井市)

以前の出張で、山形県長井市に脚を運んでいた際に、記録していた写真を掲載します。
撮影は2018年。偶然にも旧長井駅の解体前の思い出の記録にもなった。

訪れたのは、2018年8月の早朝。
この一瞬、奇しくも虹が出ていました。


旧長井駅舎(解体済)

長井駅は、山形鉄道が国鉄長井軽便線だった1914年に開業。
2代目の駅舎は、昭和11年(1936年)に改築されたもので、貴重な昭和戦前期の木造駅舎として2002年には「東北の駅100選」に選定されたが、令和元年(2019年)7月に解体された。

令和3年に市役所と駅舎が一体化した現在の3代目の「長井駅」が完成。

東北の駅百選

駅舎内。

駅舎の裏側。

ホームへ。

貨物ホーム跡。

鮎貝りんごちゃん。

ガラス越しに。

もう見れない駅舎。。。

解体済み。。。


旧小池医院

昭和6年に建てられた産婦人科医院。
八角形の塔と北方ヨーロッパの木造建築の技法ティンバー様式が象徴的。

場所

https://goo.gl/maps/HFuFxsmSqxDERuAE6


旧桑島眼科医院(桑島記念館)

昭和2(1927)年に建てられた木造2階建ての西洋建築の建物。
一見するとコンクリート造にように見えるけど木造。

場所

https://goo.gl/maps/opwLYvxbEc4fh7WB6

撮影:2018年8月


関連

https://senseki-kikou.net/?p=23240

米沢の近代史跡散策・その2

山形県米沢市に赴く機会があったので、米沢城周辺を散策してみました。
米沢城周辺の散策は、その1にて。


九里学園高等学校 (九里裁縫女学校)

竣工は、昭和10年 (1935)。国登録有形文化財。

九里学園高等学校
大正建築の意匠を持つ九里学園高等学校の木造校舎は昭和10年に建築され、平成9年に登録有形文化財として指定を受けた。創立は明治34年、創立者の九里とみは近代和裁の父渡辺辰五郎(現、家政大学の校祖)に学び、北里柴三郎・福沢諭吉の影響を受けて、男尊女卑の時代に女子自立の教育を行った。

場所

https://goo.gl/maps/9s1SxeVyvkJbfcv98


米織会館 (米沢織物同業組合本館)

竣工は、大正11年 (1922)。

米織会館
この建物は米沢織物組合の事務所として大正11年(1922年)に建築されました。大正14年にはのちの昭和天皇が同組合に行啓遊ばされ、米沢織及び人造絹糸を御熟覧されました。現在も米沢織の施設として利用され、販売も行っています。

場所

https://goo.gl/maps/TLbGntXBrNCPM2Qt6


ホテルおとわ本館 (音羽屋旅館)

創業は明治31年(1898年)。竣工は、昭和12年(1937)。国登録有形文化財。

場所

https://goo.gl/maps/BcS4NkgPAoE6nHoc8


米沢駅

現在の駅舎は、平成5年(1993年)完成。

米沢駅の駅名由来
 米沢という地名は、アイヌ語で「湯の川」という意味の「ユナイ」が転訛したものといわれています。他にも、米のとぎ汁のような白い水が出る「米井」、火山灰を意味する「よな」に由来するといった説のほか「米を産する沢地」と解釈する人もいます。
 吾妻連邦、飯豊山に抱かれ、清流・最上川が流れる米沢市は米沢の味A(APPLE/りんご)B(BEEF/米沢牛)、C(CARP/鯉)を代表とする食の宝庫でもあり、また「米沢十湯」と総称される秘湯を含めた十ヶ所の温泉が点在し「いやし」や「やすらぎ」を求めて多くの観光客が訪れています。
 江戸時代には、名称・上杉謙信とする米沢藩上杉家の城下町でした。上杉氏第十代・(ようざん)鷹山公は、困窮した藩財政を立て直した名君として知られ、内村鑑三の著書「代表的日本人」と新渡戸稲造の著書「武士道」で共に英文で紹介され、日本人としてアメリカで名を挙げました。彼の行った改革は封建時代において類を見ない、現代の民主主義思想にも通じ、その指導力と経営力は現在でも各界で注目されています。鷹山公の「為せば成る為さねばならぬ何事も 成らぬは人の為さぬなりけり」という三十一文字は有名です。
 この地名の由来を受けて、明治三十二年(一八九九)五月十五日奥羽本線の福島~米沢間開通の時、米沢駅が開業しました。

米沢は乗り換えで利用しました。
あまり時間がなかったので、代表的な建造物の見学のみでしたが。。。

撮影:2022年5月

米沢の近代史跡散策・その1

山形県米沢市に赴く機会があったので、米沢城周辺を散策してみました。


招魂碑

米沢城址、上杉神社の境内の上杉謙信祠堂(御堂)跡に建立されている招魂碑。

招魂碑
 この招魂碑は、慶応4年(1866)に始まった戊辰戦争で、主に新潟方面で西軍と激戦の末に戦死した米沢藩士280余名と、明治10年(1877)におこった西南戦争の戦死者52名を慰霊するために、明治11年4月に建てられました。その後、日清・日露戦争で戦死した将兵の霊も合祀されています。この場所は、米沢城本丸の東南隅にあたり、藩祖上杉謙信公の遺骸を安置した御堂があったところです。毎年2月に開催される雪灯篭祭は、この地で執り行われます。
 碑は、凝灰岩で高さ約3.4メートル、総高約5.8メートル。碑銘は、戊辰戦争に従軍して参謀を務めた齊藤篤信(後の山形県師範学校初代校長)が、稲穂の芯を束ねた特製の大筆で書いたものです。
 米沢市
 米沢観光協会

上杉謙信祠堂(御堂)跡

松が岬公園の南東の高台にある謙信公御堂跡(米沢城本丸南東)。ここは米沢城下で一番高い場所。


傷痍之碑

上杉神社境内社の春日神社敷地内に建立。

恒久平和祈念
傷痍之碑
米澤市傷痍軍人会
米澤市傷痍軍人妻之会

傷痍之碑
趣意書
 ああ 過ぎしいくさの日日を憶えは痛ましくも悲しく万感胸に迫る
 時まさに風雲急を告げ青春の血を燃やし国難に殉せんと祖国遥かに陸海空の戦陣に召されるや護国の大任に就き戦傷病を負い戦列を去ったわれら傷痍軍人は、昭和20年8月15日痛恨と慟哭の裡に終戦を迎えた
 国破れて山河あり 傷痍の身に生命の灯を点し帰郷したわれらは、以来耐え難き苦悩と心身の障害を克服 祖国再建 平和布求の決意も新たに再起し妻とともに相寄り相扶な生活を刻み心魂を傾け生きてきた生きざまを省みるとき 恒久平和 祖国郷土の発展 家運繁栄を衷心より記念して止まず 願わくはこの熱き思いを込めたわれらの志を永く伝えるべく 四季美しく神鎮まる城址の丘に傷痍の碑を建立 協賛会員一同の名を刻み 鎮魂のため 上杉神霊の加護を祈願奉納するものである
 昭和57年5月1日
  米澤市傷痍軍人会、
  米澤市傷痍軍人妻之会

春日神社は、上杉鷹山公が学問・武芸に励むことや、行動や賞罰に不正の無いこと等を誓った誓詞を奉納した神社。


慰霊の碑

松が岬公園内。

ふるさとの父母想い 
 妻や子の 
やすらかなれと
 祈りつつ
平和を願い
 散りし魂

戦後50年の節目の年に当り、あらためて、あの太平洋戦争を顧みながら、世界の恒久平和と、御霊の永遠の安寧を願うとともに、あの痛ましい悲惨な戦争体験を風化させることなく、戦争を二度と起こさない証として、ここに慰霊碑を建立する
  平成7年9月
   米沢市遺族連合会  
   米沢市遺族共励会
     婦人部
     青壮年部


建国記念の日碑

松が岬公園内。

上杉鷹山が米沢に迎え入れられた際に、義父の上杉重定は、歓迎の意を表して米沢城大手門前広場の前を流
れる御入水川(上水道)に架かる橋を、新しく石橋に架け替えた。上杉鷹山は、この新しい橋に気が付き、下馬をして橋の前で頭を下げて徒歩で橋を渡ったという。人々は鷹山の人柄に触れ、この石橋を「いただき橋」と名づけました。のちにこの石橋が割れてしまうが、その石で「建国記念の日」碑を建てて、形を変えつつ鷹山の人柄を伝承している。

建国記念の日
2月11日


以下、近代史に限らずで、米沢城址・松が岬公園の散策を。

従三位上杉曦山公之碑

第12代上杉斉憲公。
正面の題字は、陸軍大将兼参謀総長で書道に優れた有栖川宮熾仁親王(ありすがわのみやたるひとしんのう)の筆。
裏面の斉憲の経歴は勝安房(かつあわ)(勝海舟)の撰文。


稽照殿(上杉神社宝物殿)

稽照殿は、大正8年の米沢大火による大正12年の上杉神社再建に際し、宝物殿として創設。
設計は米沢市出身の建築家・伊東忠太。
平成10年に登録有形文化財に認定。


赤穂事件殉難追悼碑

吉良上野介の正室は、米沢藩主の娘であり、赤穂浪士が実際に討ち入りの時には、吉良上野介の実子(上杉綱憲)が上杉家に養子入りして藩主となっていた。


上杉神社

松が岬公園(米沢城址)に位置し、上杉謙信を祀る。旧社格は別格官幣社。
現在に残る社殿は、大正12年に竣工。設計は米沢出身の伊東忠太によるもの。


米沢城

伊達政宗公生誕の地

伊達政宗は永禄10年(1567)、米沢城で生誕している。

上杉鷹山公之像(上杉神社参道)

天地人
上杉景勝公と直江兼続公主従像

上杉謙信公


秦逸三之像

日本で初めて人造絹糸(レーヨン)製造に成功した科学者・実業家。帝国人造絹糸(現・帝人の前身)共同設立者。


明治天皇行在所遺趾

明治天皇が明治14年9月に東北地方を巡幸した際、米沢に宿泊した場所(行在所)。当時新築の南置賜郡役所がこの地にあった。
南置賜郡役所は大正8年の米沢大火で類焼。大正10年に 明治天皇ゆかりの遺蹟があったことを記念して石碑が建立された。


米沢牛の恩人
チャールズ・ヘンリー・ダラス碑

1842年(天保13)、英国の首都ロンドン市で生まれる。1862年頃(文久2)、鉱物商として中国大陸に渡り、1865年(慶応元)に初来日した。
明治4年10月、米沢興譲館洋学舎で教鞭をとり、明治8年に任期を終え横浜の居留地に戻る折り、お土産として米沢の牛を持ち帰ったとされている。その米沢肉をイギリス人仲間に食べさせたところ、その食味の良さに驚き大好評であったといわれ、米沢牛が有名となった。


上杉鷹山公之像(松が岬第2公園)


草木塔

石碑草木塔。草木の魂を供養する碑。


松岬神社

松岬神社(まつがさきじんじゃ)。
上杉鷹山、上杉景勝、直江兼続、細井平洲、竹俣当綱、莅戸善政を祀る。
上杉謙信の祠堂を改めた上杉神社に合祀された米沢藩中興の大名・上杉鷹山は、明治35年(1902年)に上杉神社が別格官幣社に列せられるに際し、米沢城二の丸世子御殿跡に設けた摂社「松岬神社」に遷座された。
旧社格は県社。上杉神社摂社。

上杉景勝公

松が岬公園

場所

https://goo.gl/maps/Cv3Xb6aPnNzMLBDG7

撮影:2022年5月


関連

米沢出身の建築家・伊東忠太