「山形県」カテゴリーアーカイブ

旧長井駅舎(解体済)と長井の近代建築散策(山形県長井市)

以前の出張で、山形県長井市に脚を運んでいた際に、記録していた写真を掲載します。
撮影は2018年。偶然にも旧長井駅の解体前の思い出の記録にもなった。

訪れたのは、2018年8月の早朝。
この一瞬、奇しくも虹が出ていました。


旧長井駅舎(解体済)

長井駅は、山形鉄道が国鉄長井軽便線だった1914年に開業。
2代目の駅舎は、昭和11年(1936年)に改築されたもので、貴重な昭和戦前期の木造駅舎として2002年には「東北の駅100選」に選定されたが、令和元年(2019年)7月に解体された。

令和3年に市役所と駅舎が一体化した現在の3代目の「長井駅」が完成。

東北の駅百選

駅舎内。

駅舎の裏側。

ホームへ。

貨物ホーム跡。

鮎貝りんごちゃん。

ガラス越しに。

もう見れない駅舎。。。

解体済み。。。


旧小池医院

昭和6年に建てられた産婦人科医院。
八角形の塔と北方ヨーロッパの木造建築の技法ティンバー様式が象徴的。

場所

https://goo.gl/maps/HFuFxsmSqxDERuAE6


旧桑島眼科医院(桑島記念館)

昭和2(1927)年に建てられた木造2階建ての西洋建築の建物。
一見するとコンクリート造にように見えるけど木造。

場所

https://goo.gl/maps/opwLYvxbEc4fh7WB6

撮影:2018年8月


関連

https://senseki-kikou.net/?p=23240

米沢の近代史跡散策・その2

山形県米沢市に赴く機会があったので、米沢城周辺を散策してみました。
米沢城周辺の散策は、その1にて。


九里学園高等学校 (九里裁縫女学校)

竣工は、昭和10年 (1935)。国登録有形文化財。

九里学園高等学校
大正建築の意匠を持つ九里学園高等学校の木造校舎は昭和10年に建築され、平成9年に登録有形文化財として指定を受けた。創立は明治34年、創立者の九里とみは近代和裁の父渡辺辰五郎(現、家政大学の校祖)に学び、北里柴三郎・福沢諭吉の影響を受けて、男尊女卑の時代に女子自立の教育を行った。

場所

https://goo.gl/maps/9s1SxeVyvkJbfcv98


米織会館 (米沢織物同業組合本館)

竣工は、大正11年 (1922)。

米織会館
この建物は米沢織物組合の事務所として大正11年(1922年)に建築されました。大正14年にはのちの昭和天皇が同組合に行啓遊ばされ、米沢織及び人造絹糸を御熟覧されました。現在も米沢織の施設として利用され、販売も行っています。

場所

https://goo.gl/maps/TLbGntXBrNCPM2Qt6


ホテルおとわ本館 (音羽屋旅館)

創業は明治31年(1898年)。竣工は、昭和12年(1937)。国登録有形文化財。

場所

https://goo.gl/maps/BcS4NkgPAoE6nHoc8


米沢駅

現在の駅舎は、平成5年(1993年)完成。

米沢駅の駅名由来
 米沢という地名は、アイヌ語で「湯の川」という意味の「ユナイ」が転訛したものといわれています。他にも、米のとぎ汁のような白い水が出る「米井」、火山灰を意味する「よな」に由来するといった説のほか「米を産する沢地」と解釈する人もいます。
 吾妻連邦、飯豊山に抱かれ、清流・最上川が流れる米沢市は米沢の味A(APPLE/りんご)B(BEEF/米沢牛)、C(CARP/鯉)を代表とする食の宝庫でもあり、また「米沢十湯」と総称される秘湯を含めた十ヶ所の温泉が点在し「いやし」や「やすらぎ」を求めて多くの観光客が訪れています。
 江戸時代には、名称・上杉謙信とする米沢藩上杉家の城下町でした。上杉氏第十代・(ようざん)鷹山公は、困窮した藩財政を立て直した名君として知られ、内村鑑三の著書「代表的日本人」と新渡戸稲造の著書「武士道」で共に英文で紹介され、日本人としてアメリカで名を挙げました。彼の行った改革は封建時代において類を見ない、現代の民主主義思想にも通じ、その指導力と経営力は現在でも各界で注目されています。鷹山公の「為せば成る為さねばならぬ何事も 成らぬは人の為さぬなりけり」という三十一文字は有名です。
 この地名の由来を受けて、明治三十二年(一八九九)五月十五日奥羽本線の福島~米沢間開通の時、米沢駅が開業しました。

米沢は乗り換えで利用しました。
あまり時間がなかったので、代表的な建造物の見学のみでしたが。。。

撮影:2022年5月

米沢の近代史跡散策・その1

山形県米沢市に赴く機会があったので、米沢城周辺を散策してみました。


招魂碑

米沢城址、上杉神社の境内の上杉謙信祠堂(御堂)跡に建立されている招魂碑。

招魂碑
 この招魂碑は、慶応4年(1866)に始まった戊辰戦争で、主に新潟方面で西軍と激戦の末に戦死した米沢藩士280余名と、明治10年(1877)におこった西南戦争の戦死者52名を慰霊するために、明治11年4月に建てられました。その後、日清・日露戦争で戦死した将兵の霊も合祀されています。この場所は、米沢城本丸の東南隅にあたり、藩祖上杉謙信公の遺骸を安置した御堂があったところです。毎年2月に開催される雪灯篭祭は、この地で執り行われます。
 碑は、凝灰岩で高さ約3.4メートル、総高約5.8メートル。碑銘は、戊辰戦争に従軍して参謀を務めた齊藤篤信(後の山形県師範学校初代校長)が、稲穂の芯を束ねた特製の大筆で書いたものです。
 米沢市
 米沢観光協会

上杉謙信祠堂(御堂)跡

松が岬公園の南東の高台にある謙信公御堂跡(米沢城本丸南東)。ここは米沢城下で一番高い場所。


傷痍之碑

上杉神社境内社の春日神社敷地内に建立。

恒久平和祈念
傷痍之碑
米澤市傷痍軍人会
米澤市傷痍軍人妻之会

傷痍之碑
趣意書
 ああ 過ぎしいくさの日日を憶えは痛ましくも悲しく万感胸に迫る
 時まさに風雲急を告げ青春の血を燃やし国難に殉せんと祖国遥かに陸海空の戦陣に召されるや護国の大任に就き戦傷病を負い戦列を去ったわれら傷痍軍人は、昭和20年8月15日痛恨と慟哭の裡に終戦を迎えた
 国破れて山河あり 傷痍の身に生命の灯を点し帰郷したわれらは、以来耐え難き苦悩と心身の障害を克服 祖国再建 平和布求の決意も新たに再起し妻とともに相寄り相扶な生活を刻み心魂を傾け生きてきた生きざまを省みるとき 恒久平和 祖国郷土の発展 家運繁栄を衷心より記念して止まず 願わくはこの熱き思いを込めたわれらの志を永く伝えるべく 四季美しく神鎮まる城址の丘に傷痍の碑を建立 協賛会員一同の名を刻み 鎮魂のため 上杉神霊の加護を祈願奉納するものである
 昭和57年5月1日
  米澤市傷痍軍人会、
  米澤市傷痍軍人妻之会

春日神社は、上杉鷹山公が学問・武芸に励むことや、行動や賞罰に不正の無いこと等を誓った誓詞を奉納した神社。


慰霊の碑

松が岬公園内。

ふるさとの父母想い 
 妻や子の 
やすらかなれと
 祈りつつ
平和を願い
 散りし魂

戦後50年の節目の年に当り、あらためて、あの太平洋戦争を顧みながら、世界の恒久平和と、御霊の永遠の安寧を願うとともに、あの痛ましい悲惨な戦争体験を風化させることなく、戦争を二度と起こさない証として、ここに慰霊碑を建立する
  平成7年9月
   米沢市遺族連合会  
   米沢市遺族共励会
     婦人部
     青壮年部


建国記念の日碑

松が岬公園内。

上杉鷹山が米沢に迎え入れられた際に、義父の上杉重定は、歓迎の意を表して米沢城大手門前広場の前を流
れる御入水川(上水道)に架かる橋を、新しく石橋に架け替えた。上杉鷹山は、この新しい橋に気が付き、下馬をして橋の前で頭を下げて徒歩で橋を渡ったという。人々は鷹山の人柄に触れ、この石橋を「いただき橋」と名づけました。のちにこの石橋が割れてしまうが、その石で「建国記念の日」碑を建てて、形を変えつつ鷹山の人柄を伝承している。

建国記念の日
2月11日


以下、近代史に限らずで、米沢城址・松が岬公園の散策を。

従三位上杉曦山公之碑

第12代上杉斉憲公。
正面の題字は、陸軍大将兼参謀総長で書道に優れた有栖川宮熾仁親王(ありすがわのみやたるひとしんのう)の筆。
裏面の斉憲の経歴は勝安房(かつあわ)(勝海舟)の撰文。


稽照殿(上杉神社宝物殿)

稽照殿は、大正8年の米沢大火による大正12年の上杉神社再建に際し、宝物殿として創設。
設計は米沢市出身の建築家・伊東忠太。
平成10年に登録有形文化財に認定。


赤穂事件殉難追悼碑

吉良上野介の正室は、米沢藩主の娘であり、赤穂浪士が実際に討ち入りの時には、吉良上野介の実子(上杉綱憲)が上杉家に養子入りして藩主となっていた。


上杉神社

松が岬公園(米沢城址)に位置し、上杉謙信を祀る。旧社格は別格官幣社。
現在に残る社殿は、大正12年に竣工。設計は米沢出身の伊東忠太によるもの。


米沢城

伊達政宗公生誕の地

伊達政宗は永禄10年(1567)、米沢城で生誕している。

上杉鷹山公之像(上杉神社参道)

天地人
上杉景勝公と直江兼続公主従像

上杉謙信公


逸三之像

日本で初めて人造絹糸(レーヨン)製造に成功した科学者・実業家。帝国人造絹糸(現・帝人の前身)共同設立者。


明治天皇行在所遺趾

明治天皇が明治14年9月に東北地方を巡幸した際、米沢に宿泊した場所(行在所)。当時新築の南置賜郡役所がこの地にあった。
南置賜郡役所は大正8年の米沢大火で類焼。大正10年に 明治天皇ゆかりの遺蹟があったことを記念して石碑が建立された。


米沢牛の恩人
チャールズ・ヘンリー・ダラス碑

1842年(天保13)、英国の首都ロンドン市で生まれる。1862年頃(文久2)、鉱物商として中国大陸に渡り、1865年(慶応元)に初来日した。
明治4年10月、米沢興譲館洋学舎で教鞭をとり、明治8年に任期を終え横浜の居留地に戻る折り、お土産として米沢の牛を持ち帰ったとされている。その米沢肉をイギリス人仲間に食べさせたところ、その食味の良さに驚き大好評であったといわれ、米沢牛が有名となった。


上杉鷹山公之像(松が岬第2公園)


草木塔

石碑草木塔。草木の魂を供養する碑。


松岬神社

松岬神社(まつがさきじんじゃ)。
上杉鷹山、上杉景勝、直江兼続、細井平洲、竹俣当綱、莅戸善政を祀る。
上杉謙信の祠堂を改めた上杉神社に合祀された米沢藩中興の大名・上杉鷹山は、明治35年(1902年)に上杉神社が別格官幣社に列せられるに際し、米沢城二の丸世子御殿跡に設けた摂社「松岬神社」に遷座された。
旧社格は県社。上杉神社摂社。

上杉景勝公

松が岬公園

場所

https://goo.gl/maps/Cv3Xb6aPnNzMLBDG7

撮影:2022年5月


関連

米沢出身の建築家・伊東忠太