猿江恩賜公園。ここもまた戦争の爪痕を残す公園であった。
そんな猿江恩賜公園と猿江界隈を散策してみる。
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猿江恩賜公園
(東京大空襲犠牲者仮埋葬地)
昭和7年(1932)、現在の南側が「猿江恩賜公園」として開園。もともとは江戸幕府公認の貯木場、そして明治政府御用達の貯木場であった。
昭和20年3月10日の東京大空襲では、焼死者の仮埋葬地となる。仮埋葬地としての規模は、錦糸公園の1万2895名に次ぐ多さであり、猿江恩賜公園では1万2749名が仮埋葬されたという。
東京都の施設で焼却出る限界を超してしまったために、多数の遺体を放置しておくわけにもいかないということから、軍部は都内各地の公園や空き地、寺院などに「仮埋葬」を行った。犠牲者を仮埋葬したという土地でもあり花見での宴会は禁止されている。ただ、現在、猿江恩賜公園には、そのエピソードを物語る「何か」というものは残っていない。
ちなみに猿江恩師公園の北側は、1972年に猿江貯木場が廃止され、1981年以降の開園となる。
空襲で破損した石碑?(猿江恩賜公園)
真偽は不詳。上部が欠けているのは、空襲による損傷であると言われている。
猿の彫刻?たしかに損傷しているようには、みえる。
猿江恩賜公園
開園の由来を記した石碑。昭和7年の開園時に建立されたものと思われる。
猿江恩賜公園
南側地区。石碑は「現在地」看板から公園に入っていったところにある。
猿江材木蔵跡、もある。
場所
猿江恩賜公園から猿江神社に足を伸ばす。
近年は、御朱印で人気を集めている神社。
猿江神社
(国内最古級の鉄筋コンクリート社殿)
創建は、康平年間(1058~1065)という。源義家が前九年の役出征の途中、当地の入り江で家臣の猿藤太が亡くなり、祠を建立したことに始まる。当地は、猿藤太が亡くなった入り江で、猿江と呼称されるようになった。
大正12年(1923)の関東大震災で社殿消失。昭和6年(1931)に社殿を再建した際に宮内省設計技官によって鉄筋コンクリート造の社殿が建立。東京大空襲では深川が灰燼に帰すなかで、奇跡的に難を逃れ、錦糸町の駅からでも焼け野原に残る社殿を望むことができたという。
社号標は昭和4年建立
国内最古級の鉄筋コンクリート造社殿
大東亜建設一億一心滋
祈願威神力四民唯念之
昭和17念8月建立の旗立台
石灯籠は昭和6年9月吉日、建立。
裏参道の石灯籠も昭和6年9月建立。
揮毫は、海軍中将子爵小笠原長生
場所
重願寺
浄土宗寺院。不虚山当知院重願寺。
戦国末期から江戸初期に開山されたという。
みまもり観音(みまもり観世音)
昭和56年(1981)、重願寺に建立された観世音菩薩像。関東大震災や東京大空襲の犠牲者の冥福を祈るために建立。
薬師寺東院堂の国宝「銅像観音菩薩立像」を模写し2.2倍の大きさとしている。
合掌し頭を垂れる
殉難慰霊平和祈願
みまもり観音
造立由来
みまもり観世音は東京大空襲による戦災や関東大震災などの災害で殉難された方々のご冥福を祈り戦争や天災のもたらす悲惨さと平和の尊さを後世に伝えるため当山檀信徒をはじめ、猿江地区6ヶ町有志の方々等1万数千巻に及ぶお写経の勧進によって造立されました。(昭和56年9月1日除幕開眼)
観音像足下の地下収納庫には5千人に及ぶ人々のご納経がカプセルに保護されて収められています。
みまもり観音と云う名称は殉難された多くの方々に対する心からなる慰霊の念をこめて観音さまに、亡き人々を『みまももり給え』と願い、また限りない観音さまの大慈悲をもって、いま生きる私達を『日々にみまもり給え』と祈念して名づけられました。
戦災(ひ)に消えし 亡き人々よ 安かれと
祈りて 今朝(けさ)も 経の字を写す
主水
南無みまもり観音
場所
場所は猿江から亀戸にかわるが、参拝記録として掲載。
自性院
慶長2年(1597)開山。通称は役者寺。
戦災地蔵尊・大慈悲観音
東京大空襲の亀戸6丁目界隈の犠牲者を祀る。1262遺体が当寺院に仮埋葬されたという。
昭和23年に住職が地蔵尊を建立。
地蔵尊が風化してきたために、平成6年(1994年)に「大慈悲観音」を建立。
大慈悲観音の下には、身元不明者の遺骨が今も葬られているという。
合掌
戦災祈念尊
昭和23年3月10日
場所