東京大空襲と下町。
深川・東陽地区なども大きな被害を被っている。
慰霊巡拝を。
目次
扇橋戦災地蔵尊
江東区扇橋。
戦災地蔵尊と関東大震災地蔵尊。
あの日炎の中履き物は熱で溶け裸足で逃げまどった人々のことを思うにつけ二度と再び戦争を起こさせない世界を希求します
恒久平和を願い
この布ゾーリをお供えします
場所:
世薀多観音(光明寺)
江東区千田。
昭和25年、東京大空襲で犠牲となった千田地区の殉難者を慰霊。
戦災殉難霊供養観音。
世薀多(せうんだ)は仏教用語で「地名の千田(せんだ)」にかけて命名されたもの。
世薀多観音
場所:
千石地蔵尊(仙台堀川公園)
仙台堀川公園の西端に。
江東区千石。旧石住橋。
戦争中ではあったが、昭和20年5月頃にはすでに供養の地蔵が祀られていたという。
千石地蔵尊の由来
昭和20年3月10日未明、米軍機の大空襲により、我が郷土は焼野原と化し、掘割や路端、学校などで、尊い生命が数多く奪われ、殆ど肉親に逢うこともなく葬られました。
劫火に追われて逃げ惑い、離れ離れになった家族の行方を捜して、焼跡に住み続けた、杉岡桂治郎氏らの有志が、夥しい死者の霊を悼み、同年5月頃、当地に地蔵尊を祀り、供養を続けて参りました。
この度山崎ムメ氏外有志が、地区内の風致化に伴い、豊かな景観に添う御堂修築を発願し、会員及び地元の有志や企業のご賛同により竣工致しました。茲にみ霊のご冥福を祈り二度と無惨な悲しみを繰り返さぬよう、恒久平和を希って、この碑を建立します。
昭和62年3月10日
千石長寿会 会長 山岡英太郎
仙台堀川公園
場所:
母子像「希い」
江東区東陽。江東区役所前に鎮座。
昭和57年3月10日、平和を願う人々の願いを託した「希い」と第された母子像。
希い
江東区は、昭和20年(1945年)3月9日夜半から10日にかけての、東京大空襲により、街は壊滅状態となり、多くの尊い人命を失いました。この犠牲者の鎮魂と恒久の平和、安全を念願し、永く忘れないために、この記念像を建立したのであります。
この母子像は、母が子を慈しみ育て幸せな日々が続き、そしてこの子が成長した時も平和な日々であることを願うものであり、人と人とが愛し合い、国と国とが平和で結ばれていますよう祈るものであります。
平和の希いは、現在に生きる私達の心であります。
昭和57年3月10日建之
江東区長 小松崎軍次
撮影のときは、江東区役所は一部工事中でした。
(2021年1月)
場所:
東京大空襲戦災殉職者慰霊之碑(深川高校)
江東区東陽。
昭和20年3月10日の東京大空襲にて、深川高校は全焼。避難していた人々の中からも死傷者が出て、校舎内外に約100体の焼死体があったという。
また深川高校の生徒も焼死や行方不明など230名以上にも及び、宿直や先生の中にも殉職された方もいた。
昭和53年、33回忌を迎えるに当たり、慰霊碑を建立。
東京都は「都有地である校内には、いかなる理由であっても宗教的なものは設立許可できない」というスタンスであったともいう。
※学校内のため非公開
この奥に、慰霊碑がある。
場所:
深川親子地蔵尊
江東区東陽。東陽町駅近く。
東陽4丁目、東陽5丁目の東京大空襲の犠牲者の方々の霊を供養するため、昭和23年3月の3回忌に町会によって建立。
親子地蔵尊の由来
この親子地蔵尊は第二次大戦も終わりに近い昭和20年3月10日の下町地区の大空襲の砌この地域に於いて殉難死された方々の霊の供養回向の為昭和23年3月10日の3年忌法要を記念し遺族及有志の初願によって建立したものです。
昭和53年3月10日 親子地蔵保存会
戦災殉難者諸精霊位
戦災殉難者7回忌紀念
親子地蔵尊
昭和26年3月建立
場所:
※撮影:2021年1月
関連
東京大空襲