大阪の医学は、「適塾」から始まった。
もっとも「適塾」と言ってしまうと、日本の医学にも多大な影響を残しており、大坂だけの話ではなくなってしまうが。
目次
適塾から浪華仮病院へ
緒方洪庵が、大阪船場で開塾した適塾(1838-1868)は、幕末から明治にかけての名士を多く輩出していた。福沢諭吉や大村益次郎なども適塾頭を務めていた。門下生にも、大鳥圭介、高松凌雲、佐野常民、池田謙斎、杉亨二、高峰譲吉など錚々たる名が連なっている。
緒方洪庵は1862年(文久2年)に、大坂の適塾を養子の緒方拙斎に委ね、江戸幕府奥医師および西洋学問所頭取就任のために江戸に移住。
1863年(文久3年) 洪庵が江戸の医学所頭取役宅で客死。
緒方洪庵の墓は、大坂の菩提寺であった大阪市北区の龍海寺と、客死した先の東京都文京区の高林寺にある。
1868年(明治元年) 適塾閉鎖。
1869年(明治2年)後藤象二郎大阪府知事、参与小松清廉の尽力により、現在の大阪市天王寺区上本町四丁目の大福寺に「浪華仮病院」および「仮医学校」が設立。
設立にあたっては、適塾関係者が多く採用された。
「浪華仮病院」院長は緒方惟準(洪庵の次男)
主席教授としてオランダ軍医ボードウィン(長崎ではボードウィンのもとで緒方惟準は生徒でもあった)を招き、大福寺の施設の提供を受けて、一般の病気治療と医師に対する新治術伝習のために「仮病院」が設立された。
半年後に、現在の法円坂の大阪医療センター付近(大坂代官所跡)に移転し「大坂府医学校病院」となる。緒方惟準、緒方郁蔵(義弟)、緒方拙斎らがこれに参加。
京都で刺客に襲われた大村益次郎が担ぎ込まれたのも、この「大坂府医学校病院」であった。医学校病院は当時は、長崎・大坂・東京のみ。
「浪華仮病院・仮医学校」は、「大坂府医学校病院」となり、その後も改組・改称を経て「大阪帝国大学」へと発展し、現在の国立大学法人「大阪大学」となっている。
つまり、大阪大学医学部の前身にあたる。
大村益次郎と緒方洪庵
大村益次郎の話と、緒方洪庵の墓などは以下の記事にて。
緒方洪庵
「緒方洪庵旧宅及び塾」として史跡となっている。
緒方洪庵の適塾
適塾
大坂の假病院跡(大福寺)
大坂の假病院跡
大福寺は、明治元年春から明治貳年秋まで、大坂の假病院にあてられた。大阪大學の醫學教育はここからはじまる。
明治元年参月、ようやく平和を恢復した大坂の街に、明治天皇は行幸されたあと、恵まれない人のために病院をたてるべきとの御沙汰書を出された。これをうけて明治政府と大坂府は直ちに準備にとりかかり、大福寺の建物を利用して診療をはじめたが、明治貳年貳月、緒方惟準は恩師蘭醫ボードウインとともに、假病院の診療と醫学教育に専念した。
その後、鈴木町代官屋敷、いまの法円坂町国立大阪病院敷地に大坂醫学校と病院ができたので、この假病院の使命はおわった。
ここに、百年の歴史をかえりみて、これをたてる。
A.F.Bauduin
(1822-1885)
アントニウス・フランシスクス・ボードウィン
Anthonius Franciscus Bauduin
1820年6月20日 – 1885年6月7日
オランダ軍の軍医。
1862年(文久2年)、江戸幕府の招きを受けて来日。
ポンペ(日本に近代西洋医学教育をもたらした)の後任として長崎養生所の教頭となる。その間、東京、大阪、長崎で蘭医学を広める。
1866年(慶応2年)に、緒方惟準らオランダ留学生を伴ってオランダに帰国。
1867年(慶応3年)に再来日。
1869(明治2年)に、緒方惟準が浪速仮病院の院長となり、ボードウィンも病院の運営に関与。
1870年、大阪仮学校、大阪陸軍病院に務め、オランダに帰国。
1873年にオランダ陸軍に復帰。1884年に退役。
緒方惟準
(1843-1909)
緒方惟準(おがたこれよし・いじゅん)
緒方洪庵の次男。
慶応元年(1865)にオランダ留学。明治元年(1868)に帰国し、 明治天皇の侍医となる。
明治2年(1869)に浪速仮病院の院長となり、オランダの軍医ボードウィンらとともに病院の運営する。
明治4年(1871年)から陸軍の軍医となる。
明治18年(1885年)には、陸軍軍医学会長兼近衛軍医長として脚気の予防策に麦飯給食を勧めたが、軍上層部と対立。
明治20年4月陸軍を辞して大阪にて緒方病院を開設した。
明治42年没。
ちなみに、陸軍部内での脚気問題は、その後の明治37年-38年の日露戦争でも多数の脚気患者が発生。陸軍手動(陸軍省医務局長の森林太郎・森鴎外)で明治41年(1908)に臨時脚気病調査会が設立され、大正13年(1924)にビタミン欠乏説が確定し、臨時脚気病調査会が解散するまで続いた。
浪華假病院跡
大福寺
場所
資料
ボードウィン顕彰碑
蘭医者ボードウィン逗留の寺(大坂・法性寺)
大坂の法性寺には、「ボードウィン顕彰碑」がある。
大坂仮病院で教師をしていたボードウィンは、法性寺に居住していた。
ボードインゆかりの地
蘭医ボードウィン逗留の寺
明治元年大阪に行幸された明治天皇が、知事後藤象二郎に病院建設を命じ、大福寺(現天王寺区上本町)に大阪仮病院が設置された。
院長は緒方洪庵の次男惟準で、教師はオランダから招聘された蘭医ボードウィンであった。惟準はボードウィンの身の回りの世話を「適塾」の門下生で薩摩藩出入御用商人薩摩屋半兵衛広長に頼み、法性寺がその寓居となった。
ボードウィンは、生活習慣の違いから豚を寺内で飼育したりして周囲を驚かせもしたが、熱心な法華信仰者の半兵衛の教化を受け、南無妙法蓮華経の題目を唱えるようになったという。
適塾と大阪仮病院は、阪大医学部の前身である。
またボードウィンは日本最初上野恩賜公園生みの親でもある。
A.F.Bauduin (1820-1885)
法性寺。袖門の脇に顕彰碑がある。
場所
距離感は、700m
ボードワン博士像(上野恩賜公園生みの親)
ボードワン博士像が上野公園内にある。
ボードウィン(ボードワン)は、明治2年に緒方惟準が院長となった大阪仮病院の教師に就任する。明治3年に任期が切れたボードウィンは帰国直前であったが、普仏戦争の勃発で就任予定だったドイツ人医師の着任がおくれていたため教師が空席だった東京の「大学東校」(医学校兼病院・のちの東大医学部)のショートリリーフとして2ヶ月間だけ講義を実施。その際に「大学東校」の校地として上野の山が候補にあがっていたのを、ボードウィンは大反対をし、「東京一の公園にすべきだ」と主張。オランダ大使館を通じて政府にも忠告書を提出し、明治政府はボードウィンの主張を受け入れて、「大学東校」の上野認可を取り消し、上野に公園を建設することに決定した。「大学東校」は上野から本郷加賀屋敷跡に変更。結果として、上野には東京一の「上野公園」が建設され、本郷には「東京大学」が設置された。
ちなみに、ボードウィンが日本に持ってきた健胃剤が、太田胃散のもとともなっている。
ボードワン博士像
Dr.A.F Bauduin
オランダ一等軍医ボードワン博士は医学講師として1862年から1871年まで滞日した。かつてこの地は、東叡山寛永寺の境内であり、上野の戦争で荒廃したのを機に大学附属病院の建設が進められていたが、博士はすぐれた自然が失われるのを惜しんで政府に公園づくりを提言し、ここに1873年日本初めての公園が誕生するに至った。上野恩賜公園開園百年を記念し博士の偉大な功績を顕彰する。
実は、1937年に建立されたボードウィン像は、弟の写真をベースにした像であったことが判明したため、2006年にボードウィンゆかりの大坂法性寺の寄贈で、現在の兄のボードウィン像に改められた。
撤去された弟のアルベルト・J・ボードウィンの像は、オランダ大使館を経て、神戸市ポートアイランド北公園に設置されている。これは、アルベルト・J・ボードウィンが、神戸初代領事であったゆかりによる。
東京都
台東区
上野観光連盟
オランダ大使館
1973年10月
東京都
台東区
上野観光連盟
オランダ大使館
大阪市 法性寺
2006年10月
※撮影:2022年7月
次回の大坂では、適塾跡と法性寺に行かないと、です。
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2022年9月に再訪分追記しました。