茨城県稲敷郡阿見町。
現在の土浦駐屯地には陸上自衛隊武器学校が駐屯しているが、かつては「予科練」で有名な「土浦海軍航空隊」の錬成地であった。海軍と陸自の歴史がぎっしりと詰まった駐屯地の一般開放がありましたので、足を運んでみました。
まずは、海軍編その1として、海軍関連を中心に紹介をしていきます。
目次
霞ヶ浦海軍航空隊(霞空)
1922年(大正11年)大日本帝国海軍で3番目に設立。
1945年(昭和20年)の終戦まで存続した航空部隊。航空隊要員の操縦教育を担当。
予科練の練成を行ってきた「霞ヶ浦海軍航空隊」を初歩練習・実用練習部隊に改編し、霞空内にあった予科練習部を新規に独立移転することなった。
その結果、水上機部隊が霞空から鹿島空へと独立移転した際に遊休地となっていた阿見村内の練習地を改めて「土浦空」として開隊。
霞ヶ浦海軍航空隊に関しては下記も。
土浦海軍航空隊(土空)
昭和15年(1940)、霞ヶ浦海軍航空隊予科練習部を土浦に移転し開隊。
阿見町内には霞ヶ浦空と土浦空があり、予科練は土浦空が新設した際に土浦空所属となっている為、正に阿見町は「予科練の街」。
「土浦空」跡地は、現在は土浦駐屯地近郊。
位置関係
国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-M626-14
1947年11月4日、米軍撮影の航空写真を加工。
ファイル:USA-R401-No1-3
1947年11月4日、米軍撮影の航空写真を加工。
土浦海軍航空隊の跡地。
現在の航空写真。
陸上自衛隊土浦駐屯地
陸上自衛隊武器学校等が駐屯する陸上自衛隊の駐屯地。
駐屯地司令は、武器学校長が兼務。
陸上自衛隊で使用される装備の教育用装備や車両が配備。また展示場が設けられており、旧日本陸軍の戦車や戦後の米軍からの貸与車両、国内での開発車両、試作車などが多く展示されている。
旧土浦海軍航空隊正門跡
現在は、新しい門柱となっている。
それでは、土浦駐屯地内の戦跡散策を実施しましょう。
駐屯地配置図。
旧土浦海軍航空隊医務科第一病棟(病舎)
昭和15年の開隊時に医療施設として建設された建物。
元々は4棟あった。
南側の第三・第四病棟は空襲で焼失。
第二病棟、北側の渡り廊下と附属建物(便所)は戦後に取り壊しされ、「第一病棟」のみが現存している。
手前のトタン板で覆われている部分は旧手術室。
この部分に、渡り廊下があった。
病舎前。土浦海軍航空隊時代も、円形のロータリーがあった。
広報史料館
土浦海軍航空隊関連から土浦駐屯地、武器学校時代までの歴史を紹介。
駐屯地紹介コーナー
予科練第三兵舎解体記念
5/1模型。第一海軍航空廠では約600機が生産された。
元第一海軍航空廠飛行機部で勤務されていた方が奉納。
旧海軍時代から使用されていた燃料タンクの一部
弾薬展示コーナー
小火器コーナー
九八式射爆照準器
覗いてみる。おもしろい。
95式射爆照準器
こっちも覗いてみた。おもしろい。
豊川海軍工廠製の機銃銃架三脚架
一式旋回機銃二連(航空機銃)
旧軍関連の小火器
対空機銃、旋回機銃、航空機固定機銃
砲隊鏡
拳銃
指揮刀
初代・山本五十六元帥像の左手
昭和一八年にコンクリート製の山本五十六元帥像(初代像)が土浦海軍航空隊本部前に建立された。
終戦後に、米軍の破壊を案じた土浦海軍航空隊では、山本五十六元帥像の上半身を霞ヶ浦に沈め、下半身を台座近くに埋めたという。上半身はその後引き上げられ、現在は江田島の教育参考館に展示。そして下半身や左手などがは平成14年に発掘。
平成16年に、雄翔館前に、2代目山本五十六元帥像が復元され、礎石として下半身は砕いて埋められ、そして左手は、現存し、展示されている。
ちょっと話題を寄り道して。
2代目山本五十六元帥像
雄翔館前の二代目・山本五十六元帥像
桜賑わう霞ヶ浦湖畔。
この角度は、普段はみれない。(土浦駐屯地側から)
空母を模している雄翔館・豫科練記念館(予科練記念館)。
その2でも記載予定。
土浦駐屯地内に戻ります。
行幸記念
(表)
行幸記念
(裏)
昭和17年7月15日
奉仰聖籠
海軍中将戸塚道太郎謹書
戸塚道太郎は、昭和16年4月から第11海軍連合航空隊司令官。
横須賀鎮守府第11連合航空隊が、土浦海軍航空隊であった。
天皇行幸記念の碑
この碑は、昭和17年7月13日、昭和天皇が霞ヶ浦海軍航空隊及び土浦海軍航空隊に行幸され、予科練習生が実施する海軍体操等を視察されたのを記念して建立(昭和18年1月28日)されました。
石碑には、昭和20年6月10日の空襲で受けた機銃の跡が残っています。
機銃の跡。
土浦海軍航空隊時代の本庁は解体されたが、現在は土浦駐屯地本部庁舎が、行幸記念碑の後方に同じように建っている。
旧土浦海軍航空隊号令台
号令台跡
この建物は、昭和15年、霞ヶ浦海軍航空隊予科練習部が土浦海軍航空隊として独立、開隊した時に、軍艦掲揚塔と共に建設された。
毎朝、航空隊司令以下全員が、この号令台前に集い、朝礼や海軍体操が行われた。
また、休日には外出する予科練習生が全員集合し、当直将校の外出点検や指導を受けたり、司令訓辞が行われた場所である。
号令台の上から。
常在戦場の碑
山本五十六の常在戦場
常在戦場
昭和十年四月 山本五十六
昭和十九年九月
第十三期二次甲種飛行豫科練習生建之
この碑文は、昭和14年4月、山本五十六元帥(当時中将)によって揮毫されたものであるが、昭和18年4月18日ソロモン群島ブーゲンビル島上空において戦死された際、元帥の遺徳を偲び同年9月、当時土浦海軍航空隊司令であった森啓吉大佐により、土浦海軍航空隊神社境内に石碑として建立されやものである。
この台座には、元々、昭和18年12月に建立された元帥の銅像が安置されていたが、終戦直後、像が汚されることを恐れた予科練習生達の手により胸部と下部に2分され、霞ヶ浦の湖底に沈められた。昭和23年、地元有志により胸部が引揚げられ、一旦元帥の出生地である長岡市に移管された後、昭和45年、江田島の海上自衛隊第一術科学校教育参考館に寄贈、安置されている。
昭和30年、主のいないまま放置されていた台座に「常在戦場の碑」が移築され、現在に至っている。
台座は、もともと山も五十六元帥像が立っていた。
皇太子殿下行啓記念碑
皇太子殿下行啓記念の五葉松
この五葉松は、昭和18年6月1日、平成の天皇陛下が皇太子の時、霞ヶ浦海軍航空隊、土浦海軍航空隊に行啓された際、予科練習生達の錬成ぶりをご覧遊されたことを記念して植樹(昭和18年6月1日)されました。
本庁跡(土浦駐屯地本部庁舎)と「雄飛の松」
土浦海軍航空隊時代の本庁は、解体。
現在は土浦駐屯地本部庁舎が、往時の土浦海軍航空隊本庁を模すようにして、同じように建っている。
2代目「雄飛の松」が本部庁舎前に植えられている。
「雄飛の松」由来記
霞ヶ浦の波静かに寄せるこの地に、大正9年霞ヶ浦海軍航空隊水上機班が誕生、その後土浦海軍航空隊となり七つ釦の予科練習生育成の地となった。
初代「雄飛の松」は、皇紀2600年を記念して昭和15年12月22日、新治郡関川村の名主から譲り受けた名木を筏をもって霞ヶ浦を渡し、困難な作業の末、当地に移植され、後日、当時の航空隊副長であった成富武光中佐が「雄飛の松」と名付け、海の若鷲達の象徴として愛された。
戦後は陸上自衛隊土浦駐屯地(武器学校)のシンボルとしてその勇姿を誇っていたが、平成5年頃より樹勢が頓に衰え、翌平成6年4月22日、名残を惜しまれつつ伐採され、推定樹齢130余年の生涯を閉じた。
伐採後調査したところ、昭和20年6月10日の空襲時に被弾し、折切した上部枝の付根部分から腐食がはじまり根元の部分に至るまで、幹の中心部が侵食され完全に空洞化していた。「雄飛の松」もまた、戦争の尊い犠牲であったと云える。
2代目「雄飛の松」は、昭和18年頃、かっての霞ヶ浦海軍航空隊本部前に構築された防空壕を偽装するため旧海軍の人達により植樹された樹木の1本であるが、幸いにも戦火を免れ、戦後は他所に移植され、専門の剪定師により大切に管理されてきたものを譲り受け、当地に移植したものである。
平成7年2月22日
昭和20年6月10日の空襲で被弾した折損部分から腐食がはじまり、空洞化してしまった雄飛の松です。
(推定樹齢 約130年)
2代目「雄飛の松」
旧土浦海軍航空隊裏門跡
かつての裏門のあたり。いまも裏門ですね。
そのまま歩けば、雄翔館・豫科練記念館(予科練記念館)と予科練平和記念館との間に到着。
この日は、土浦駐屯地と直結するために、手荷物検査のゲートが設置。
霞ヶ浦
土浦駐屯地からみる、霞ヶ浦。
水上機が飛翔した場所。
湖畔は立入禁止でした。
旧土浦海軍航空隊スロープ跡
武器学校開設記念の公開日に撮影(2023年11月)
正門前の「海軍用地」境界標石
別日に撮影(2023年11月)。正門前の道路脇に。
雄翔園そのほか海軍系は、その2で。
旧軍戦車と火砲は、その3で、
陸自の戦車は、その4で。
※2023年4月1日撮影