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大阪大空襲による弾痕が残る「旧制北野中学校本館西壁」と「殉難碑」(大阪市淀川区・北野高校)

大阪に出張のおり、夕刻に時間ができたので、北野高校に残る弾痕壁を見学してきました。


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空襲による弾痕「旧制北野中学校本館西壁」

昭和20年6月15日の空襲の際、学校防衛中の生徒2名が亡くなるなど、米軍の空襲により9名の生徒の尊い生命が奪われた。
この壁に残る28個の弾痕は、昭和20年7月の空襲によるものといわれ、その直径は平均約30cmに及ぶ。

大阪大空襲
1944年12月以降から1945年8月15日の終戦までに、大阪は50回を超える空襲があり、なかでも下記の8回は特に大規模な空襲として、延べ1万人以上の一般市民が犠牲になったと言われている。
昭和20年(1945年)
第1回大阪大空襲 3月13日
第2回大阪大空襲 6月1日
第3回大阪大空襲 6月7日
第4回大阪大空襲 6月15日
第5回大阪大空襲 6月26日
第6回大阪大空襲 7月10日 (堺大空襲)
第7回大阪大空襲 7月24日
第8回大阪大空襲 8月14日 (京橋空襲)

殉難乃碑
昭和20年6月15日の空襲により、北野中学2年生の中島要昌、池田彰宏、学校防衛中焼夷弾に斃る 
 北野百年史

空襲による弾痕「旧制北野中学校本館西壁」
 太平洋戦争中、大阪は昭和19年12月以降同20年8月15日の終戦までに、50回を超える空襲を受け、多大の惨禍をこうむった。
 昭和19年夏には、空襲の危難を避けるため、学童疎開がはじまり、大阪でも国民学校(現在の小学校)の児童たちは地方に疎開して行った。この頃、中学校や高等女学校(現在の高等学校、当時は男女共学生ではない)ではほとんど授業は行われず、生徒たちは軍需工場に動員されたり、食糧増産のため農場で働いたりしていた。
 旧制北野中学校では、昭和20年6月15日の空襲の際、学校防衛中の生徒2名が亡くなるなど、米軍の空襲により9名の生徒の尊い生命が奪われた。
 この壁に残る28個の弾痕は、同年7月の空襲によるものといわれ、その直径は平均約30cmあり、機銃掃射の激しさを物語っている。
 戦後50周年の憶いをこめて、これを残す。
  平成7年12月
   大阪府立北野高等学校

 大阪市淀川区にある大阪府立北野高等学校。1873年創立という歴史を持ち、府内でも屈指の進学校としても知られる同校では、夏休みも生徒らが授業やクラブ活動に励む姿がみられた。そんな活気あふれる学校だが
戦後80年。近代日本に大きな影響を与えた先の大戦は、国内各地に今もその痕跡をとどめる。戦争の記憶を伝える遺構から何を学ぶか。西日本各地の戦跡を訪ねる。

壁に残る28個の弾痕が生々しく、往時の惨劇を伝える。


「北中」記念碑

大阪府立北野高等学校。1873年創立という歴史を持ち、府内でも屈指の進学校。

「北中」記念碑
1931年竣工の昭和校舎屋上の飾り壁。
円形の窓にはめ込まれた「北中」の文字。
その幾何学的な美しい意匠は、六稜の星とともに北野の象徴として、文武に励む幾多の俊秀の胸に刻み込まれてきた。

※撮影:2025年4月撮影(PENTAX WG-1000)

※場所

〒532-0025 大阪府大阪市淀川区新北野2丁目5−13 北野高校

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