「遺髪塚」終戦2日前の大月空襲

富士急行線から大月で乗り換えるのに、時間があったので、大月の町を散策してみた。


大月空襲

1945年8月13日午前8時過ぎ、終戦2日前にあった米軍による大月空襲。
大月駅の裏にあった興亜航空(興亜航空工業株式会社)などの軍需工場や、大月に疎開していた軍事施設(都留中に立川航空廠、都留高女に陸軍航空本部第4技術研究所の工場疎開)を狙った空襲で、旧制都留中学(現県立都留高校)や旧・都留高等女学校の生徒や教職員、市民など、あわせて50人以上が犠牲になった。
もっとも被害が大きかったのが、都留高等女学校であった。

https://www.soumu.go.jp/main_sosiki/daijinkanbou/sensai/attend/detail/yamanashi_ootsuki_005/index.html

大月は、道路や鉄道の合流点として栄えており、線路の北側には能登精機(現・大月東中)、興亜航空(興和コンクリート跡地)、大月産業(住宅地や大月倉庫跡地)、線路の南側には、大月東国民学校(現・大月東小)、都留中学校、都留高等女学校(現・大月短期大学)があり、東側には、長距離大容量発電を可能とした駒橋水力発電などどがあった。


遺髪塚

行願寺の墓苑、もっとも高い場所に位置しておる。
都留高等女学校があった、大月短期大学を見下ろす東の高台に。

https://www.gyoganji-otsuki.com/memorial.html

遺髪塚
山梨県立都留高等学校東校舎生徒会

遺髪塚合祀霊名
24名の氏名略

遺髪塚の記
太平洋戦争もまさに終わらんとする昭和二十年八月十三日午前八時二十分思いもよらぬ無差別の空襲
たちまち悲惨な血の地獄と化した都留高女
このたった数分の挙があたら十数名の尊い命を奪う
戦い終わり悲しみの中に校葬を挙行 
遺髪を塚に納めて弔う三十年
旧都留高女校舎の歴史を閉するの時生徒会の名にて碑を建立
今年三十三回忌に当たり同窓旧師四百余名挙りて遺髪塚を整備し懇ろに回向して永久の冥福を祈る。
 昭和五十二年八月十三日  遺髪塚整備委員会

終戦既に五十年、歴史の重さを痛感しつつ旧師同窓願い一つに遺髪塚をば大改修し追悼の法要も営み、以後の管理を都留高等学校同窓会並びに学校当局にゆだね、永久の供養と歩み来し五十年の思いを託し万感込めて、み霊の冥福を祈る。
 平成六年七月二十四日  遺髪塚管理委員会

合掌

都留高等女学校のあった方向

遺髪塚あります、の記載あり。

場所

https://maps.app.goo.gl/Fv2oPqtCQ7D1YwxLA


平和祈願の石(厄王大権現)

厄王大権現、大月市駒橋の鎮守。
境内に、大月空襲に関係する巨石がある。

平和祈願の石
昭和二十年八月十三日午前八時三十二分米軍艦載機は突如大月町を襲い山間の町民に恐怖の中で甚大な被害を与えた
この時投下された爆弾の一つは桂川で爆発しその爆風は一、五トンの石をふき上げ百余米の高さに達したという
附近は国道沿いの人家密集地であったがこの石は厄王大権現の霊験によって当山地先に落下し町民はあやうく難をまぬかれた
時移り世が進むにつれ世人びと厄王大権現を畏敬し当時落下したこの石を、平和祈願の石と名づけここに安置したものである
 昭和四十七年四月八日
  大月市長 志村寛識


大月駅

明治35年、中央本線とともに開業。
岩殿山がそびえ立つ。

駅の南西方向には「むすび山」
大月防空監視哨があった。

大月の市街地方面


浅利防空壕跡

大月駅の北側、桂川にかかる浅利橋に向かう道の途中には崖面がある。
往時、ここには防空壕が多数あったとされている。
興亜航空の工場から避難した工員や勤労学生・学徒は、この場所にあった横穴の防空壕に避難したが、都留中学生がここで被災し亡くなっている。


興亜航空工業跡地

大月駅北側の広大な空き地には、「興亜航空」という軍需工場があった。
海軍の零式輸送機の翼を製造。
また、木製のおとり飛行機(デコイ)も造っていた。
都留中や都留高女の生徒たちが学徒勤労動員で作業に従事していた。

https://www.kkn.co.jp/ja/company/enkaku.html

2022年にオープンした大月の東横INNの存在感が。。。

工場跡地

とにかく主張が強いのは東横INN。。。

御太刀塚

興和産業(興亜航空)の工場創設の造成に際し、周辺にかけて幾つかの古墳や墓碑は破壊されたが、多くの遺物が掘出されたという。

※撮影:2025年8月


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